『マトリックス』は、単なるサイエンス・フィクションの筋書きに過ぎないのだろうか? それともこれは哲学の演習であろうか? あるいは、これは現実的な可能性を持った未来世界なのだろうか? 理知的機械の登場を予言する権威ある科学者たちの数は、急激に増加しつつある。おそらくは世界で最も高名な理論科学者にして、かつてはアイザック・ニュートンも務めたケンブリッジ大学特別教授の座を占めるスティーブン・ホーキングは、先頃「我々の知性とは対照的に、コンピュータの性能は18カ月毎に倍増する。よって彼らが知能を培って、世界を支配するという危険は現実のものである」と述べた。彼はまた「我々は人工頭脳が人知に対抗するのでなく、それに寄与するものとなるために、脳とコンピュータの直接接続を可能にする技術を早急に開発しなければならない」とつけ加えた。1
ここから読み取れる重要なメッセージは、我々が人類のそれを凌ぐ知性を持った機械たちと相見える危険は、まさに本物だということである。
I. 事実
だが、それはただの危険に -- 潜在的脅威に過ぎないのだろうか? それとも物事が現在のように進歩を続けるならば、それは必然なのだろうか? 我々の好むと好まざるとにかかわらず、マトリックスは現実のものとなるのだろうか? 一部の哲学者たちの今日的思考に見られる一つの欠点は、人工知能研究の最終目標を、人間のそれに迫る知的能力を持ったロボット機械の創造だと仮定するところにある。これは限られたいくつかの事例における目標ではあるかも知れない。だが、ほとんどのAI開発者たちの目標は、ロボットが潜在的にのみ人類に匹敵する行動ではなく、実際に我々を凌ぐことのできる行動を活用することなのだ。
ロボットたちは、人間には不可能な方法で世界を感じ取ることができる。紫外線、エックス線、赤外線、そして超音波による知覚は、その明白な事例の一部である。彼らはまた、記憶および論理数学的処理の様々な局面において人類を知的に凌ぐ。更には、人間の脳が世界を未だ極めて限定された三次元の状態でしか理解できないのに対して、ロボットたちは周囲の存在を難なく多次元的に考察する。だがおそらくロボットたちの我々に対する最大の強みは、一般に電子的形態を取る彼らのコミュニケーション手段だ。我々のそれは、発話(スピーチ)と呼ばれる不様なほど緩慢な機械的技術であり、言語と呼ばれる極めて限られたコード体系なのである。
いずれどこかの時点で、感覚を持つロボットが現れることは不可避であろうと思われる。それは人間によって開始された生産を引き継ぎ、更に高性能で強力なロボットをさえ製造し始めるだろう。見過ごされがちではあるが、人類はクローニングを除いては、自らを複製しない。人間は、他の人間を生産するのだ。ロボットたちは、他のロボットを生産することに関して遥かに優れており、自分たちよりも遥かに高い知能を持つロボットを大量に生み出すことができる。
ひとたび知的に優るロボットたちの種族が活動を開始すれば、人類にとって重大な問題が発生する。これらのロボットたちの道徳や倫理、そして価値が、人間のものと徹底的に異なるであろうことはほぼ間違いない。人類はどうすれば、そのようなロボットたちに理を説き、また彼らと交渉することができるのだろう? 実際そのようなロボットたちが、人間の立てる些末な雑音に耳を傾けたくなる理由が、何か一つでもあるだろうか? それはあたかも今日の人類が、畜牛の指示に従うようなものであろう。
よって人類の最後のあがきとして、何らかの戦争は不可避のものとなる。そもそも、自分たちを出し抜くほどの知能を持つ有感覚ロボットを創造した立場にありながら、人類に残された最後の望みは、ロボット軍事基地の弱点を
-- 彼らの生命維持メカニズムのわずかな瑕疵を見つけることである。当然、彼らの栄養源は理想的な標的となるだろう。機械たちにしてみれば、無尽蔵のエネルギー源である太陽を利用することで人類を迂回し、人間たちを資源供給の環から排除することは可能だ。だがご承知の通り、人類はすでに大気を汚染することや、オゾン層を破壊することに大変な成功を収めており、よって機械からエネルギーを剥奪するために太陽光線を遮断する
-- 実質的に空を焼き尽くす -- というのは、ごく当然の攻撃方針であろう。
拙著『機械の心の内で』2において、私はすでに機械たちが人類を
-- おそらくは報復として -- ロボットに必要なエネルギーを供給する奴隷労働者として利用するというアイディアを提起していた。実際、これは一つの可能性を持った筋書きとして考えねばならない。だが人類そのものをエネルギー源
-- もしくは電池 -- として利用することは、更に旨みの増した、より完璧な解決法だ。人類は個々にポッド状の子宮に入れられて、機械主導の世界に動力を供給する集合電池として働くのである。
おそらく機械が支配するこの世界には、人類に権力を取り戻して古き良き時代に戻ろうと、機械体制のかかとに噛みついて騒ぎを起こす少数の反乱分子が現れるだろう。そこでマトリックスが必要となる。種としての我々を衝き動かすのは進歩への欲求であり、それこそは人間たることの要である。ところがその一方で、多くの人間は過ぎ去りし夢の世界に戻りたいという無益な願望を持っている。人という存在の奇妙な分裂である。
しかしマトリックス機械たちが幸福の安定を実現しているのは、人間の夢の中においてである。単に人類を奴隷として扱うだけでは、抵抗の問題が必ず発生するだろう。だが一人一人の脳に直接ポートを備えることで、個々の人間に自分が幸せであるという現実を食ませ、一種の夢世界における満ち足りた実存を創造することが可能となるのだ。現在でも、個々の人間が経験する満足のレベルを様々な手段で測定することは、科学的に十分可能であることが知られている。唯一の技術的問題は、いかにして直接物語を脳に食ませるかということなのだ。
では、脳ポートの現実における実用性はどうなのだろうか?『我はサイボーグ』3
に記したように、私自身は自分の中枢神経系統に直結し、信号の入出力を可能とする100ピン・ポートを持ったことがある。ニューヨーク市で行ったある実験では、私の脳が発した信号はインターネットを経由して、英国内のロボット・ハンドを操作した。一方で私の脳は、神経系統に送られてきた信号を明確に認識することができたのである。脳ポートは、マトリックスのそれに準ずるものであり、単なる未来の最良の科学的推測ではない。私は現在そのようなポートに取り組んでおり、これは遅くとも10年以内には実用化されるだろう。
II. 人間か、機械か
神経系統につながれたポートによって、私の脳はコンピュータからネットワークへと直接つながっていた。私は自分自身を、一部は人間で一部は機械のサイボーグだと考えた。『マトリックス』の物語は、人類と知的ロボットたちとの戦いを中心に展開する。ところがネオを始めとして、ほとんどの人間は個々に脳ポートを持っている。マトリックスの外では、彼らは間違いなく人間だ。だがマトリックスの中にあっては、彼らがもはや人間ではなく、むしろサイボーグであることに疑問を差し挟む余地はない。従って実際のところ、これは人類対知的ロボットの戦いではなく、サイボーグ対知的ロボットのそれなのだ。
マトリックス内部における個人の状態は、いくつかの重要な問題を提起する。例えば、マトリックスに接続されているとき、ネオやモーフィアスやトリニティはその内部でも個々の人間なのだろうか? それとも彼らの脳は、部分的に人間で部分的に機械なのだろうか? 彼らは、他者と共通の脳の要素を共有するマトリックスの事実上のノード(節点)と化すのだろうか? 忘れてはならないのは、通常人間の脳は独立モードで機能するが、コンピュータ脳を持つロボットたちは常にネットワーク化されていることだ。マトリックスの中にいる場合や、サイボーグとしての私自身の事例のように、ネットワークにつながれた個性は異なる形態を持つ。そこには独自の、通常は人間のものである要素が存在し、そして共通の、ネットワーク化された機械の要素が存在するのだ。
この共通の要素を使うことで、それぞれの脳に‘現実’をダウンロードすることが可能となる。モーフィアスは(そして映画全編を通じて他の登場人物たちも)これを‘夢を見ている’と表現する。彼は現実とは何かという問題を提起し、更に夢世界と現実世界との識別の可能性を問う。この一連の問いかけは幾多の哲学論考に端を発するものだが、おそらく最も顕著なのはデカルトのそれであろう。夢状態と‘現実’との識別を求めたデカルトは、直ちに現実の何たるかを定義するという問題に突き当たった。その結果、彼は絶対の真理を定義するという更に大きな問題に直面したのである。
おそらくより適切なアプローチは、物質界の存在を否定したバークレーや、客観的真実の概念を嘲笑したニーチェから得ることができるだろう。神の不在を基本前提とした私自身の結論は、我々が人間であれ、サイボーグであれ、ロボットであれ、絶対の現実などあり得ない、絶対の真理などあり得ないというものだ。個々の脳は受け取った入力に依存して、自らが向き合う現実に関する結論を引き出し、同時に推測を行う。もし用意されているのが限られた感覚入力のみであれば、脳は物語を考えるためにあらゆる記憶(あるいは注入された感情)を開放しなければならない。いかなる瞬間においても脳は自らの状態を常識の記憶と連結して、しばしば思いもよらない結論に達するのである。
脳が老化するにつれて、あるいは偶発的な出来事の結果として、脳の働きが変化することがあり得る。これはしばしば当の個人には、知覚を為すものの変化ではなく、知覚されるものの変化であるように感じられる。言い換えるなら、その人間は変化したのが自分の脳ではなく、世界に違いないと考えるのだ。だが脳がネットワークの一部である場合には、ネットワーク上の別のノードから代替の見解が提案される可能性がある。これは個々の人間が習慣とするものではない。一個人の脳は、一時に一つの結論を引き出すことにのみ有効なのだ。ある種の分裂症においては、この結論が混乱したものであることも、また時間と共に変化することもあり得る。だがそのような個人は、知覚したものについて、他者とは大きく異なる結論を出すのが通例である。ほとんどの場合、社会の考える‘現実’は、いかなる時点でも絶対のものにはほど遠く、個人の集団の知覚に基づいて一般に認められた価値の組み合わせに過ぎないのである。
『マトリックス』に宗教的要素を見出すことには誘惑を感じる。モーフィアスは預言者である使徒ヨハネを、トリニティはおそらく神もしくは聖霊を、ネオは明らかにメシア(救世主)を、そしてサイファーは裏切り者であるイスカリオテのユダを、それぞれ割り当てられている。だがガンジーや“左の頬を向けよ”的アプローチとは全く異なり、ネオのそれは無敵と思われる全能機械ネットワークに対する聖戦を行い、悪しきマトリックスを制する勝利者としての役割を担うというものである。おそらくは多くのメシアたちも、実際にはこれを為すつもりでいたのだろう。
だが機械ネットワークや、マトリックスそれ自体はどうだろうか? 全人類のそれを遥かに凌ぐ知性が生み出すその創造性、その芸術感覚、その美的価値が、刮目に値するものであろうことは確かだ。映画はこの側面には触れていないのだが -- ことによると、それは続編で明かされるのかも知れない。マトリックスの支配から解放された人類は、おそらくサイファーは別だろうが、それを単なる悪と見なす。またエージェントたちについては、マトリックス大君主に絶対服従の個性なき自動人形、冷酷な殺人者として理解する。人類はマトリックスとエージェントを敵と見なし、そしておそらくはマトリックスとエージェントもまた人類をそう見なすのだ。だが、ひとたびマトリックスに入れば、事態はそれほど明確ではない。サイボーグとしてのあなたにとって、友人は誰であり、敵は誰なのだろうか? あなたが部分的に機械で部分的に人間であるとき、それはもはや黒白をつけられる問題ではないのだ。
III. 支配の内と外で
モーフィアスはネオに対して、マトリックスとは支配だと話す。これ自体が重要な新事実である。我々人間は、主たる扇動者 -- 全ての背後にいる頭脳 -- が、一人の有力な個人であることに慣れている。まるで集団や集合体が暴走することなど想像もできないかのように、我々は全ての黒幕が一人の人間であると確信するのだ。第二次世界大戦においては、連合国が戦っていたのはドイツ国民でもドイツ国家でもなく、アドルフ・ヒトラーその人であった。一方、アフガニスタンにおいては、全ての黒幕はビンラディンだ。だがマトリックスにおいては、我々はもっと現実的な筋書きと向き合うことになる。その中で悪事を企むのは、どこかの狂気の人物ではなく、マトリックス -- すなわちネットワークなのだ。
理知的機械による支配の可能性を議論する際に、私が十中八九耳にするのは「もし機械が問題を起こしたら、いつでもスイッチを切ればいいじゃないか」という意見であり、私の眼の節穴ぶりに対する含み笑いである。それを考えもしなかった私の、何と愚かなことか!! どうすれば、そんな簡単なことを見落としてなどいられるのだろうか?
勿論、その問いに答えて含み笑いを断ち切るには、マトリックスどころか今日の一般的なインターネットを引き合いに出すだけで十分だ。現在でさえインターネットのスイッチを切ることは、実際問題としてどれほど可能だろうか? 仮説ではなく、実行性の問題としてだ。なるほど、確かに一台のコンピュータのプラグを抜くことは可能だし、小規模なイントラネットでもそれは同じだろう。だがインターネット全体を停止させる? 勿論、そんなことができるはずもない。あまりにも多くの人間や機械が、自らの日常をその稼働に依存しているのだ。我々がスイッチを切れないのは、未来のマトリックスではない。我々がスイッチを切れないのは、我々が最終的な支配を確立できない今日のマトリックスなのである。
ネオはマトリックスが、人類を支配下に留め置くためにコンピュータが作り出した夢世界であることを知る。人間たちは、自分の現実の実存が好ましいものであると信じていられる限りは、マトリックスのエネルギー源としての務めを喜んで果たすのだ。だが実際のところ、人間ノードたちは何がコンピュータによって作られた現実で、何が他の手段によって作られた現実かを知る立場にあるだろうか?
独立モードで働く人間の頭脳は、一部は電気的信号を、一部は化学物質を動力として、電気化学的に機能する。西洋世界では、化学作用による幻覚を含めて、医療行為や麻薬の使用で化学物質が我々の脳や身体の状態を変えることに慣れている。だが我々は、今や電子医療の世界に入ろうとしている。脳と神経系統を機能させる電気化学的信号の電気的要素を活用して、主要な神経節に平衡信号を送ることで、医学的問題を克服することが可能なのだ。反対に、動作や快感を刺激するために電気的信号を注入することも可能である。最終的には電気的信号は化学物質に取って代わり、記憶を放出して以前にはなかった記憶を“ダウンロード”することも可能となるだろう。もしあなたが満ち足りた世界での人生を実現する一方で、マトリックス状態があなたの生体機能を維持し続けてくれるのだとしたら、誰が自分の気に入らない世界で生きることを選択するだろうか? マトリックスの世界は、現在人類が向かいつつある方向に位置するように思われる。それは、物事の判断をますます機械に依存しつつある我々自身が願う方向であるようだ。
IV. 無知と至福
ある意味『マトリックス』は“ビッグ・ブラザー”の現代版に過ぎない。一人の有力者が機械の補佐で全能の地位を実現するというオーウェルの発想に代えて、それは機械の形態を取っている。しかも、ビッグ・ブラザーの物語を提起した小説『1984年』が出版されたのは1948年のことだ。『マトリックス』の公開は、その50年後である。我々はその間に、レーダー、テレビの普及、宇宙旅行、コンピュータ、携帯電話、それにインターネットといったものを目撃してきた。もしオーウェルがそれらの科学技術を自由に使っていたなら、彼のビッグ・ブラザーはどんなものになっていただろう? それはマトリックスとはかけ離れたものであっただろうか?
私が1998年に何の医学的理由もなく(単なる科学的好奇心で)受けた最初の移植によって、コンピュータ・ネットワークは私の行動を監視することが可能となった。ネットワークは私がいつ部屋を出入りするかを知り、それに応じてドアを開いたり、電気を点けたり、更には私の到着を温かい“ハロー”の言葉で迎えたりもした。私は何の否定的要素も経験しなかったし、実際、全てをとても前向きに感じた。監視と追跡を受ける代わりに、私には得るものがあったのだ。私がビッグ・ブラザーから監視されることに満足できたのは、個としての人間性をいくらか手放しはしたものの、システムが自分のために働いてくれるという恩恵を受けたからである。これと同じことは、マトリックスにも言えるのではないだろうか? マトリックスの一部になるという選択肢を前にして、相対的に困難かつ危険な一個人としての人生を望む理由がどこにあるだろう?
ここでサイファーの事例を考えてみよう。彼はステーキを食べながら「俺はな、このステーキが存在しないことは知ってるんだよ。口に入れると、マトリックスが俺の脳味噌に、これが肉汁たっぷりで最高に美味いと教えてくれるんだってこともな!」と語る。そして話の最後には「無知は至福だ」という結論に達するのだ。だが、それは無知なのだろうか? 彼の脳はあらゆる手段を使って、彼に自分が肉汁たっぷりの美味しいステーキを食べていることを告げているのだ。当節、我々はハンバーガーを食べるために、実に頻繁にファストフードの店を訪れる。我々の脳は広告を通じて、それが想像し得る最高のバーガーだと信じるように調整されているのだ。店に入る我々は、たまに見かける科学的な調査報告の類いを通じて、そのバーガーが高率の水分を含み、ほとんどが脂肪分で、しかもビタミンを一切含まないことを知っている。それでも我々は、そのようなバーガーを何十億個と買い求めるのだ。それを食べるとき、我々の調整済みの脳は、その肉汁たっぷりの美味しさをどうにかして告げてくる。だが我々は、それが必ずしも脳の想像するような形では存在しないことを承知しているのである。
だからこそ、我々にはサイファーの選択を理解することができる。必要な全ての滋養が得られる至福の人生を前に、どうしてマトリックスの外に出て、危険と貧固と疲弊と飢餓に苦しみながら、あらゆる権利を失った人間の人生を送ったりするだろうか? エージェント・スミスとの取引によって、サイファーはひとたび内部に戻れば、そもそも自分が取引をしたという知識すら持たない。彼が何かを失うことは全くないように思われる。唯一否定的な側面は、彼が再挿入される前に、善悪をめぐる人間としての内的葛藤を多少は経験するだろうことである。再挿入がマトリックスを利する行為であり、システムと戦う反乱分子たちにとっては望ましいものでないことを忘れてはならない。
ロバート・ノージックの思考実験は、サイファーのジレンマを即座に提示して、我々全員の試金石となるものである。ノージックは問う -- もし我々の脳が、電極を介して、我々が欲するいかなる経験をも与えてくれる機械に接続可能だとすれば、我々は生涯をそれにプラグ接続して過ごすだろうか? 問題は、我々がその内部での人生をどう感じるかということ以外に重要なものがあり得るのかという点だ。ノージック自身は、我々にとって重要な意味を持つ物事は他にも存在すると論じた。それは例えば、ある種の人物になることの価値である。我々は自分が誠実でありたいと願い、単に何かをする経験を持つのではなく、実際にそれを行うことを望むというのだ。私はノージックには全く不賛成である。
チンパンジーやラットを主とした様々な生物を使った研究では、それらの生物が単にボタンを押すだけで、自分の脳の快感部分を直接刺激することを許可している。快感のためのボタンと食事のためのボタンという選択を与えられたとき、何度も繰り返し押されるのは -- 例え餓死することになろうとも(それでも個々の生物たちは十分に幸せなのだが)-- 快感ボタンである。重要なのは、例えそれがボタンを押すことに過ぎなくても、個々の生物がなおも演じるべき役割を持っていたという点である。これはマトリックスと完全に一致する。マトリックスもまた個々の人間に対して、それぞれが積極的に演じるべき役割を持った世界を精神的に経験することを認めているのだ。
しかしながら、マトリックスの一部としての個人が、はたして自由意志を経験するのか否かは重要な問題である。サイファーは、マトリックスに再び入ることを決する上で、自由意志を行使しているのだと言うこともできる。だがそこに入ってからの彼は、なおも自由意志を示すことができるのか? それは、本質的にノージックが提案したものと同じ状況ではないのだろうか? 確かにマトリックスが個々人に投射した精神的現実の範囲内では、一定の精神的自由意志が認められるものと思われる。だが同時に忘れてはならないのが、個々の人間はポッドの中に横たわって、彼ないし彼女の生命維持メカニズムを完全に管理され、双方向的な物語を脳に注ぎ込まれていることだ。それが自由意志だろうか? 人間の脳の状態が、一部は遺伝プログラムに起因し、一部は人生経験に起因するに過ぎないとなれば、そもそも自由意志とは何だろう? 実際、これはロボットの場合でも全く同じなのだ。
マトリックスにおいては、例えそれが胎児であろうと、人間燃料電池が殺されることはない。マトリックスに中絶は存在しないのだ。しかも寿命によって死を迎えつつある人間は自然死を許され、その後生きている者たちの食料として利用される。重要なのは、彼らが化学物質で強制的に生かされているのではないことだ。マトリックスはその臣民たる人類に対して、当の人類以上に道徳的な責任をはたしているように思われる。そうであれば、人生をより安楽なものにしてくれるマトリックスを支持もせず、それに属することも望まない人間がはたして存在するのだろうか?
ネオを連れ去るのはラダイト(=産業革命期の機械化に抵抗した労働者たち)、すなわち人類が地球を支配した過去の遺物たちである。それは未来ではない。我々は現実には、個々の人間よりも遥かに優れた知性を持つ機械たちが支配する世界に向かいつつあるのだ。だがネットワークに連結してサイボーグとなることで、人生は現在よりも更に素晴らしいものになると思われる。実際の話、我々はこの世界の興醒ましなネオたちを取り締まって、一刻も早く未来にたどり着かねばならない。それは我々がマトリックス・システムの一部となることのできる未来であり、今日の“ネオ”リシックな(=古くさい)道徳よりも倫理的に遥かに優れた未来なのだ。
ケビン・ワーウィック
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