マトリックスの中に住む事の何がそんなに悪いのか?
ジェームズ・プライヤー

映画『マトリックス』が推奨する自然で単純な思想がある。それは、マトリックスの中にいる事には何か悪いところがあるという思想である。それは、マトリックスの中にいる人々は外にいる人々より悪い状態にあるという重要な観点があるということである。もちろん、マトリックス内にいる人々のほとんどは、自分たちがこのような悪い状況に置かれているという事実に気づいていない。彼らは、自分たちが良い状況に置かれていると不当に信じているのである。それにもかかわらず、彼らは依然として、本当に良い状況に置かれている人々より悪い状態にあるのである。

私は、これが自然で単純な思想だと書いた。しかし、より注意深く観てみると、この自然で単純な思想は、非常に複雑で不明瞭なものになってくる。多くの疑問が出てくるのだ。

第1の疑問:マトリックスは“誰にとって”悪いということになっているのか? マトリックス内の生活は、外の生活を経験したことのあるトリニティやネオのような人々にとってのみ悪いものなのか? それとも、マトリックスの外にはこれまで出たことが無く、現在の生活が幻影に満ちたものであることが全く分かっていない普通の人間たちにとっても、同様に悪いものなのか? 映画は、普通の人間たちにとってさえマトリックスでの生活には何か悪いところがあるということを示唆しているように見える。マトリックス外の暗い現実を直視するのは難しいかもしれないが、映画は、それを選ぶ価値のある選択だとして提示している。観客たちに、赤い錠剤を取ったネオの選択に共鳴するよう働きかけているのである。マトリックスの中に再び組み込まれることを選ぶサイファーという登場人物は、共感を持たれるように描かれてはいない。そして、映画の終わりでは、ネオはマトリックスから人々を解放する聖戦を開始しているように見えるのである。

あなたはどう思う? もし、あなたがマトリックスから人々を解放するパワーを持っているとしたら、あなたはそのパワーを使うか? これらの人々は“心の準備”ができているとみなすことができる。つまり、マトリックスから引き抜かれても気が狂うことなく生き延びられるということだ。しかし、ひとたびあなたが彼らを解放したら、彼らには戻る選択の余地は無いと仮定しよう。あなたは、彼らが外にいた方が良いと思うか? あなたは彼らを解放するか? あなたは、彼らがあなたに感謝するだろうと思うか?

それとも、あなたはサイファーの側の立場を取るか? あなたは、マトリックス内の生活もそう悪いことばかりではないと思うか? 特に、もしあなたの楽しみが、それが全て機械に支配された構築物であるという認識によって台無しにされていないとしたら?

第2の疑問:マトリックスを運営しているのが誰かということは重要なことなのか? そして、それはどうして重要なことなのか? 映画の中では、機械は、我々をエネルギー源として使うことができるよう、我々を従順にしておくためにマトリックスを使っている。要するに、我々は彼らの畜牛なのだ。しかし、もし我々が機械と戦争中ではなかったらどうなのだろう? もし、機械の目的が純粋に慈悲深く、博愛的なものだったらどうだろうか? もし、機械がマトリックスを創ったのは、我々の生活は苛酷な現実世界にあるよりもあのような仮想世界にあった方がより楽しいものになると彼らが思ったゆえだったりしたら、どうだろう(イアコヴォス・ヴァシリオウは、彼の小論の中でこのような筋書きを論じている his )? あるいは、もし我々が機械を打倒してマトリックスを占拠し、そして、マトリックス内の生活の方がもっと楽しいからという理由で、再び自分たちをマトリックスにプラグで接続することを選んだらどうなのだろう? これらの違いは、あなたがマトリックス内での生活を悪いと見なすかどうか、あるいは、それをどれぐらい悪いと見なすか、ということに影響を及ぼすだろうか?

クリストファー・グラウは、彼の3番目の小論の中で、ロバート・ノジックの“経験マシーン”のことを論じている。ノジックは、もし我々が経験マシーンにプラグでつながったら、我々が生活の中で大事にしている物を失うことになると考える。彼は、たとえ操作者の意図が慈悲の心に富んでおり、我々が自分自身の自由な選択の下にプラグでつながったとしても、我々はたいへんな損失を受けると考えるのである。あなたは、それが正しいと思うか? あなたは、マトリックスについても同じことが言えると思うか?

これらの疑問に対する我々の答は、マトリックスの映画バージョンの何が我々をして吐き気を催すような気持ちにさせるのかを究明するにあたり、有用な指針になるであろう。

II

マトリックスの中にいることの何がそんなにも悪いことなのかを明らかにするためには、概念的な根拠をクリアしておくのがよいだろう。

マトリックスのような筋書きを考える時、このような考えを持つ人々がいる:

あらゆる点で自分は良い状況に置かれているようにあなたには思えたとしたら、それが、あなたは良い状況に置かれているということを真実―少なくともあなたにとって真実―のように見せかけているのではないだろうか?

この考え方は、映画の中では全面的に支持されているわけではないが、登場人物たちは時々、この考えをもてあそんでいる。ネオとモーフィアスが建造物の中で交わす会話を考えてみよ:

ネオ:これは現実じゃない……。

モーフィアス:“現実”とは何だ? どうやって“現実”を定義するのか? もし君が、自分が感じられること、嗅げるもの、味わい、見ることができるもののことを言っているのなら、“現実”とは、単に君の脳によって解釈される電気信号に過ぎない……。

サイファーの、トリニティとの最後の会話を考えてみよ:

サイファー:もし、あれとマトリックスとのどちらかを選ばなければならないとしたら……俺はマトリックスを選ぶ。

トリニティ:マトリックスは実在するものではないのよ。

サイファー:俺はそうは思わないな、トリニティ。マトリックスは、この世界よりずっと現実感を持つことができるんだ……。

モーフィアスとサイファーがここで主張していることは正しいのだろうか? トリニティとサイファーが、マトリックスの中にいる時に経験し接触を持つ世界は、外の世界と同じように(あるいはそれ以上に?)現実感を持っているのだろうか?

標準的な見方での答は“ノー”だ。マトリックスの世界は、ある重要な意味においては、現実感に乏しい。モーフィアスがその後続けて言うように、マトリックスは“夢の世界”なのである。登場人物たちは、単にステーキを食べたり、ビルとビルとの間を跳んだり、弾をよける等々の“神経系インタラクティブ・シミュレーション”を経験しているに過ぎない。ネオがオラクルを訪ねる途中で言うように、“僕には自分のこれまでの人生の記憶がある。その1つとして実際に起きたことではなかったんだ”。実のところ、彼はこれまでステーキを食べたことなど1度も無く、これからも食べることは無いのである。彼が、自分で食べたことがあるように思っているだけのことなのだ。

そしておそらく、たとえ誰もそうだということを発見しなくても、たとえマトリックスはただの“夢の世界”に過ぎないことを誰も見抜くことが無かったとしても、物事はそのような状態だったと思われる。

哲学者たちは、以下のような事実を言う事によって、この標準的な観点を表現するだろう:

・あなたがこれまでにステーキを食べたことがあるかどうか
・あなたがこれまでにビルとビルの間を跳んだことがあるかどうか
・あなたの目がこれまでに開いていたことがあるかどうか

等々のことは、全て客観的な事実、誰かがそれを信じるかどうかとは無関係に真実(あるいは虚偽)である事実なのである。自分がビルとビルの間を跳んだようにあなたには思えた、という単なる事実だけでは、実際にそこにビルがあるということを真実にしないのである。

“客観的事実”についてこのように話すことに不安な気持ちを抱く人もいる。彼らはこう言う:

そうですねえ、私にとって真実である事はあなたにとって真実である事とは違うかもしれません。私がマトリックスの中にいる時、ステーキを食べている等々のことは、本当に私にとっては真実なのです。それはあなたにとっては真実ではないかもしれないけど、私にとっては真実なのです。

これが何を意味するのか、解明してみよう。

問題になっている事実は客観的なものであるという観点とは対立しないやり方で、人々が“私にとっては真実”というような表現を使うこともある。例えば、人々が、それは“彼らにとっては真実である”と言うことによって意味するのは、“彼らはそれが真実であるということを信じている”ということに過ぎない場合もある。あなたがマトリックスの中にいる時には、自分がステーキを食べているということを信じる。だから、この意味では、それは“あなたにとって真実”になるであろう。また、あなたが真実だと信じているものは、往々にして私が真実だと信じているものとは違うであろう。従ってこの意味では、あるものが“あなたにとっては真実”であっても“私にとっては虚偽”になり得るのだ。哲学者が、あなたがステーキを食べたかどうかというのは客観的な事実だと言う時、彼女(哲学者)はそういう事に異議を唱えているわけではない。彼女は、あなたと私が、あなたがステーキを食べたことがあるのかどうかについて意見を異にするかもしれない、ということを受け入れる。彼女は、どちらが正しいのか分かっていると主張さえしない。彼女は、あなたの過去の食生活については何も知らないか、間違った事しか知らないかもしれないし、彼女はそのことについて承知している。あなたは彼女より良い証拠を持っているかもしれないし、彼女はそのことについても承知している。彼女が主張しているのは、あなたがステーキを食べたかどうかという事実があるということだけなのである。あなたか彼女、あるいは他の誰かが、その事実が何であるかということを知っているかどうか、あるいは、それをどのように信じているかどうかということには、全くおかまいなしに。そして、この事実は客観的な物である。もし、あなたがステーキを食べたということがたまたま真実であったら、それは真実になる、以上。“あなたにとっては真実”で“私にとっては虚偽”であるという問題ではない。あなたや私が何を信じ、どちらがその意見に対しより良い証拠を持っているかということは、また別の問題なのである。

普通、2人の人間が何かについて意見を異にしている場合、彼らは、自分たちが論争を交わしているという事実は客観的なものであるということを認める。彼らは、自分たちのうちの1人は正しく、もう1人は間違っているということには賛成する。誰が正しくて誰が間違っているかということに関してだけ、意見を異にしているのだ。倫理的な事や芸術的な事のような問題だと、はっきりとしにくい。倫理的、芸術的真実が客観的なものかどうか、また、同じ真実が誰に対してもあてはまるかどうか、というのは、哲学的に議論の余地のあるところである。しかし、我々のこの論考では、そういう議論はひとまず置いておいて、ステーキをこれまでに食べたことがあるかとか、これまでに目が開いていたことがあるか等々といった、単調で日常的な問題にだけに専念していこう。このような問題だったら、あなたにとって1つの真実があって私にとっては別の真実があるということも無く、ただ1つの共通な真実が期待できるからだ。

さて、我々は不完全に話すことがある。例えば我々は、台所用品は便利だと言うが、実際には、それがある一定の目的において、便利だということを意味している。それは、固ゆで卵を切るには便利かもしれないが、トマトやチーズを切るには役に立たないかもしれないのである。あるスーツのカットはフィット性を良くすると言うが、実際にはある人々にとって良くフィットするということを意味している。それは、変わった体型の人々にとってはフィット性を良くはしない、等々。このような場合には、あなたのことを話している時にはその主張を1つの方向で完結させるのが自然で、私について話している時には別の方向で完結させるのが自然なのであれば、“あなたにとっては真実”だが“私にとっては虚偽”という主張を口にしたくなるかもしれない。例えば、あなたはサラダを作るために卵を切っていて、私はトマトを切っているとしよう。我々は2人とも同じ台所用品を使っていて、あなたは満足のいく結果が得られ、私にはイライラするだけの結果となる。もし、あなたが“この台所用品は便利だ”と言ったら、私は“それはあなたにとっては真実かもしれないが、私にとっては真実ではない”と答えるかもしれない。便利さについての事実は客観的であるという見方に関しての論争は、ここには無い。実際には、ここにはいくつかの事実がある:

・その道具は卵を切るには便利である。
・その道具はトマトを切るのには不便だ。
・その道具は、私にとってよりもあなたにとって、より便利である。(なぜなら、あなたは卵を切っていて、私はトマトを切っているからだ)。

等々。これらの事実全てを客観的と見なすのは、申し分無く可能である。すなわち、それらのうちのどれでもがもし真実であれば、それは真実なのだ、以上。その道具は、あなたにとってよりも私にとって、より便利だということが、“私にとっては真実”だが“あなたにとっては虚偽”であるということにはならないだろう。その道具はトマトを切るには役に立たないという私の考えが、それを真実にするわけでもない。その道具がどれぐらい便利であるかということについて私が間違っていることもあり得る(ひょっとしたら、私は適切な使い方をしていないのかもしれない)。同様に、もしあなたの新しいアルマーニのスーツがあなたに良くフィットしなかったら、我々が両方ともどういうわけかそれが良くフィットすると自分たちを納得させていたとしても、それはあなたにはフィットしないのである。

ということで、我々がこれまで考察してきた“私にとっては真実”等々である事柄について話す方法は、我々が扱っている事実は客観的なものであるという見方とは対立しない。

客観的事実が好きではない人々はもっと強いことを言いたがる。彼らは、マトリックスの中にいる登場人物にとっては彼らがステーキを食べたことがあるというのは、本当に真実なのだと言いたがる。彼らは、それらの登場人物たちが真実だと思っていることについてのクレームをつけているだけではないのである。それらの登場人物たちが“私は何百回となくステーキを食べたことがある。私の友人、ネオもそうだ”と内心思っている時、彼らが思っていることは本当に真実であるはずなのである。少なくとも彼らにとっては。ネオやトリニティ、そして他の者たちにとっては真実ではないかもしれない。

この考えを肉付けする1つの方法は、検証主義と呼ばれる哲学理論にある(この理論は、反現実主義とも呼ばれている)。もし、あなたがある種の事実に対して検証主義者であるとしたら、それらの事実は客観的なものであるという考えを否定するのである。例えば、身長に関しての検証主義者は、あなたがどれぐらい背が高いかということは、あなたがどれぐらい背が高いかということについて、どのような証拠があるかということに左右されると言うだろう。

全ての証拠が1つの方向を指すことは不可能だが、あなたの身長についての事実はそうであってはならない。事実は証拠によって制約されなければならないのだ。もちろん、検証主義者は、人々は彼らの身長について間違えることもあると言うだろう。彼らは時として誤った信念を持つものだ。しかし、そのような間違いは、基本的には発見可能かつ修正可能でなければならない。誰もが皆、あなたの身長について恒久的かつ救い難いほど間違えていて、“本当の事実”は実に良く隠蔽されているので、誰もそれを探り出すことのできないような状況について話すのは意味が無い。もし、“本当の事実”がそれほどにまで良く隠蔽されているとしたら、それはもはや事実ではないと検証主義者は言う。あなたが持つことのできる唯一の身長は、基本的には、あなたがそれだけの身長を持っているということが発見可能、あるいは、検証可能な身長だけである(それ故、“検証主義”という名前になる)。

マトリックスやそれと同様の例を大学のクラスで討論する際、生徒たちが、彼らにとっては“真実”だが他の人々にとっては“虚偽である”事柄について話し始める場合、普通、彼らはある種の検証主義に同意の署名をしようとしているものだ。彼らは、こういう事を言う:

私の証拠全部が、そこに高い山があることを示していたら、私の個人的な世界の絵の中には高い山があるのだ。私にとって、それが意味するのは、高い山がそこにあると言うことだけである。本物っぽく見えて、私の考える高い山の概念にあてはまっている限り、私にとって、山は本当にそこにあるのだ。

私は、生徒たちがこの見方に賛意を表明するのを聞いて、いつも驚く。これは、かなりおかしな現実の概念だ。この観点を擁護する哲学者もいる。しかし、もし私の大学の生徒のうち30%が、本当に世界というものをこのように考えていたとしたら、私は本当に驚くだろう。集団として、彼らには普通、おかしな現実の概念を持つ傾向は無い。例えば、彼らのうちの30%が占星術や人間の体を乗っ取るエイリアンのことを信じていたりはしない。

エベレスト山は高さ8,850mである。我々のほとんどは、エベレスト山は人類が誕生するずっと前からこの高さだったと考えているし、たとえ、人類あるいは他の思考する主体が全く存在しなかったとしても、依然としてこの高さだったと考える。しかし、検証主義者がそのようなことを言える資格があるのかどうかは明らかではない。もし、思考する主体が全く存在しなかったとしたら、エベレスト山が存在したという証拠を持つ者は誰もいなかっただろう。そうだとすると、検証主義者によれば、エベレスト山が高さ8,850mであるとする者は誰もいなかったことになる。検証主義者は、思考する主体が全く存在しなかった状況においてさえ、エベレスト山は依然として高さ8,850mだったであろうということを否定しなければならないように見えるのである。この点で、検証主義は実におかしな考え方なのである。

おそらく検証主義者はこう答えるだろう:仮に、我々が想定した状況で、エベレスト山が高さ8,850mだという証拠を誰も実際には持っていないとしても、それでも証拠は入手可能である(エベレスト山は、1日のある一定時刻にある一定の長さの影を投げかけるだろう、等々)。そして、もし人々が存在したら、その証拠を集めて使うことができたはずだ。それだけでも、我々が想定したような状況でも依然としてエベレスト山が高さ8,850mであることを真実とするに十分かもしれない。

ここで事態は厄介になる。例えば、たとえ誰も観察者がいなかったとしても、エベレスト山は依然として影を投げかけるだろうと言う資格が、検証主義者にあるのかどうかは明らかではない。しかし、このような厄介な詳細を追求する代わりに、適切な証拠が入手可能でさえない例について考えることにしよう。

検証主義の普通の系統は、高さ8,850mの山があるためには、山が存在して8,850mの高さであることが公的に検証可能でなければならないと言う。つまり、どこかで誰かが獲得できる、高さ8,850mであることを実証する証拠が無ければならないというのである。その視点の別の見解は、それよりむしろ、私自身が何を検証できるかということに焦点を置いている。この観点は、私がその山が高さ8,850mであることを検証できたら、その山が高さ8,850mだということは“私にとって真実”であると言うかもしれない。あなたが、それが8,850mであることを検証することができた場合のみ、それが8,850mの高さであることがあなたにとって真実になるのである。等々。我々は、この2番目の見解を“個人的検証主義”と呼ぶことができる。真実であること―ええと、私にとって真実であること―は、常に私自身が検証できる事に左右されると述べているからである。もし、私から永遠に隠蔽されている事実があったとしたら、それは実際には事実ではない。少なくとも、“私にとっては”事実ではない。それは、他の人々にとっては事実かもしれないが、それはまた別の問題である。

プロの哲学者が検証主義を議論する時には、普通、公的な方の見解を念頭に置く。そして2つの見解は、同じ特徴、そして同じ問題を多く共有する。しかし私は、その視点の個人的な方の見解についてだけ話をすることにしよう。私が教えている学部生を対象とするクラスの学生のように、プロの哲学者ではない人々は、普通、個人的な方の見解をより自然で魅力的に感じているように私には思える。

ある証拠が“入手可能”、あるいは“入手不可能”と言うのは、どういう意味なのだろうか? この境界線を引く1つの方法は、あなたが自分の積極的な努力で証拠を入手するかどうかにかかっているようにすることである。例えば、実施することによってあなたが必要とする証拠をもたらすようなテストがあるか? あるいは、証拠を“入手可能”にするためにはどうすればよいかということについて、あなたはもっと自由な概念を持つこともできるかもしれない。この自由な概念では、証拠が偶然あなたの膝の上に落っこちて来たとしても、それは“入手可能”だと見なされる。あなたの力で証拠を見つけ出さなくても良いのである。

“入手可能”についての、この、より自由な概念をもってしても、証拠が入手可能ではない人物について考えてみよう。『マトリックス』の中に、モーフィアスが“目を覚まさせる”ことのできない登場人物がいるとしよう。もしかしたら、この人物は“夢の世界”のことを強く信じ過ぎていて、もし“夢”が解体し始めたら発狂して死んでしまうだけなのかもしれない。この人物をジェレミーと呼ぶことにしよう。標準的な見方によれば、ジェレミーは彼が囲まれている環境について、多くの虚偽を信じている。彼は、毎日オフィスビルの40階に仕事に出かけ、ほとんどの朝には陽光が彼のオフィスに注ぎ込み、彼は夕食にステーキを食べて、等々のことを信じている。これらの信じていること全ては虚偽である。実際には、オフィスビルなどはもう無い。ジェレミーは太陽を見たことなど1度も無い。彼は1度もステーキなど食べたことは無い。そして彼は、彼の全人生を小さなポッドの中で過ごしてきたのである。しかし、それはジェレミーが決して知ることの無い事実である。さらに重要なことに、彼にはそれを知る能力が無い。

それが標準的な見方で言うことである。しかし、検証主義者によると、もしジェレミーがあることを知るのが不可能であるとするなら、それはジェレミーの生活についての本当の“真実”ではあり得ない。少なくとも、ジェレミーにとって真実ではない。ジェレミーにとって真実なのは、彼が本当にオフィスビルの40階で働いている等々なのである。そして、それはジェレミーが自分は40階で働いていると“思っている”ということを意味しているだけではない。それは、ジェレミーがオフィスビルの40階で働いているということは本当に事実 ―彼にとっての事実― なのだということを意味するのである。モーフィアスにとっては、ジェレミーがオフィスビルの40階で働いているということは真実ではないかもしれないが、ジェレミーにとっては真実なのである。

あなたはどう思うか? あなたには、それがもっともらしく思えるか?

過去の人の出入りについて考えてみよう。標準的な見方によると、過去のある晩、これらの人々はニューヨークでのパーティに来ていたか、いなかったかのどちらかである。彼らがパーティに来ていたと仮定しよう。しかし今では、彼らがそこにいたという証拠はほんの少ししか残っていない。あなたはその証拠を破棄することができて、彼らがどこか他の所にいた証拠をでっち上げることができると仮定しよう。そうしたら、あなたは過去を変えることができるパワーを手中に収めたいと思うか? それが、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』の中に出てくる登場人物、オブライエンが考えることなのだ:

長方形の新聞の1片がオブライエンの指の間から現れた。おそらく5秒の間、それはウィンストンの視角の中に入っていた…それは、ニューヨークでのパーティでのジョーンズ、アーロンソン、そしてルザフォードの写真のもう1枚の複製だった。11年前に彼が偶然見つけてすぐに破棄した写真だった。一瞬の間、それは彼の目の前にあったが、それから、それは再び見えなくなった……。

「それは存在するんだ!」と彼は叫んだ。

「違うね」とオブライエンは言った。

彼は部屋を横切った。反対側の壁に記憶の穴があった。オブライエンは格子を上げた。見えないまま、新聞のもろい切れ端は暖かい空気に乗って旋回して飛んでいき、炎の閃きの中に消えていった。オブライエンは壁から目を背けた。

「灰だ」と彼は言った。「識別すらできない灰だ。塵だ。存在しないのだ。存在したことも無かったのだ」

「でも、存在したんだ! 存在するんだ! 記憶の中に存在する。僕は憶えている。あなただって憶えている」
……オブライエンは、考え込むようにして彼に視線を落としていた。これまでになく、彼は、強情だが前途有望な子供に苦労している教師の雰囲気を漂わせていた。

「過去の支配を扱う党のスローガンがある」と彼は言った。「暗唱してくれたまえ」

「過去を支配する者は未来を支配する。現在を支配するものは過去を支配する」とウィンストンは従順に暗唱した。

「現在を支配する者は過去を支配する」

オブライエンは、ゆっくりと同意して頭を縦に振りながら言った。

「過去は実在しているというのが君の意見かね、ウィンストン? どこかに、どこか他の所に、過去が依然として進行中である揺るぎ無い物体の世界があるとでも?」

「いいえ」

「それじゃ、過去はどこに存在するのだ? 仮に過去というものがあったとしても?」

「記録の中にです。それは書き留められているんだ」

「記録の中にね。それから―?」

「心の中に。人の記憶の中に」

「記憶の中に。それなら結構。我々、党は全ての記録を支配し、全ての記憶も支配している。それでは、我々は過去も支配しているのではないのかね?」

さて、オブライエンは自分が証拠をごまかしたということを知っていると思われる。したがって、彼はおそらく、過去について何が彼にとって真実なのかを変えることはできないだろう。しかし、検証主義者の見方では、彼は、他の人々に対しても過去を変えることができるように思えるのである。

あなたはどう思うか? あなたには、それがもっともらしく思えるか? ウィンストンは、最終的にはこのような現実の見方を受け入れるようになる。しかし読者にとっては、それは嘘のように聞こえるべきなのである。

もし『マトリックス』の機械が、ネオとモーフィアスにこう言ったらどうだろう? 「おい、君たちはなぜ、人類と機械との戦争のことをくどくど言い続けているのか? そのような事は起こらなかったんだ。少なくとも我々は、ポッドの中にいる人々たち全員にとっては、それが決して起こらなかったということを真実だとさせている。我々が、ひとたび証拠の切れ端を全て除去して、彼らにとって人類と機械との間に戦争があったことを検証するのが不可能にすれば、それらの人々にとっての過去を本当に変えてしまうことになるだろう。彼らは欺かれていることにはならない。彼らの過去は、彼らにそう見えるように起きたことになるのだ」これで納得がいくだろうか? それとも、これも嘘のように聞こえるだろうか?

どちらにしても、とにかく証拠の無い事実についてはどうだろうか? モーフィアスは、人類と機械との戦争において、どちらが先に攻撃を仕掛けたのかは分かっていないと言っている。もしかしたら、それは重要なことではないのかもしれない。また、機械も分かっていないのかもしれない。もしかしたら、全ての証拠は失われてしまっているのかもしれない。しかし、推定されるように、我々の一方が最初に攻撃を仕掛けたのである。たとえ証拠が1つも残っていないとしても、推定されるように、これについての事実は存在するのである。検証主義者はこれを否定しなければならない。

これらの全てが、あなたには検証主義がいささか信じ難いものであるように聞こえるよう仕向けることを願っている。それらは得心のいく検討材料ではあり得ないのだ。検証主義についての哲学的論議は非常にややこしいことになる。検証主義者は多くの技術的困難を克服しなければならないのだ。例えば、入手可能な証拠と入手不可能な証拠の間にいかにして境界線を引くか。証拠が我々に仮説を検証させることができる場合とできない場合をいかにして説明するのか? 検証主義自体は、我々が検証できるものなのかどうか。このような問題には立ち入って議論することができないのである。もし、それでもあなたの心が検証主義に傾いているとしたら、少なくとも、その見方が我々の常識的な現実の概念に逆らうものであること、そしてその結果として、念入りな支持する根拠が要求されるということを認めるよう願っている。もし、あなたが十分なる知的な良心に顧みてその見方を保持するのであれば、多くの困難や異論を克服しなければならないのである。

III

この時点で、検証主義は脇に置いておき、今まで論じてきたことが、マトリックスについての何がそれを悪い事であるように見せているのかを判断するのに役立つかどうかということを、観てみようではないか。

さて、あなたがオフィスビルの40階で働いているかどうかということは、客観的な事実であると、我々は言うことにする。全ての点においてあなたは(マトリックスの外で)“良い”状況にあるようにあなたには思うことができるということを認めることにしよう。それゆえ、あなたがその状況にあるのは真実であるということを抜きにして。

よろしい。しかし、これは、なぜマトリックスの中にいることが悪いのかということについては、まだ語ってはいない。なぜ、“良い”と呼ばれる状況に本当にあることが重要なのだろうか? なぜ、“良い”状況にあると思われるだけでは十分ではないのだろう? 良い状況にいる経験、あるいは幻影だけで、すでにかなり良いのではないか? 本当にそこにいることが、どうして我々の生活をより良い物にするはずだということになっているのだろう(特に、もし、映画の中のように、本当に“良い”状況が、いわゆる“悪い”状況下での物事の状態より心地良くない状態であるなら、なおさらである)?

サイファーが言うように:

なあ、このステーキが存在しないのは知っている。俺がそれを口の中に入れると、マトリックスが、肉汁がたっぷりしていて美味いということを俺の脳に告げているのだということも分かっている。9年経って、俺が何を悟ったか分かるか?……知らぬほうが幸せってことだ。

もし、サイファーが本当にステーキを食べていたら、それは彼の生活をより良いものにするだろうか? 我々が大切にしているのは、ステーキを本当に食べることなのか、それともステーキを食べる“経験”に過ぎないのか? ほとんどの人々は経験だけで満足するのではないか? 特に、それが本物の行動と区別がつかないのであれば。マトリックスの中で全人生を送っている我々の友人、ジェレミーのことを思い出してくれ。彼がステーキを決して本当には食べることが無いからというだけで、彼はどれぐらいチャンスを逃がしているというのだろうか? 我々は、ジェレミーが決して知ることはできないであろう、彼の生活についての真実があるということを認めている。しかし、そのどれかは“彼が大事に思う真実”であるということは、まだ明らかではないのである。ジェレミーが、そして我々のほとんどが本当に気にかけるのは、おそらく、どのような事を今、そして将来、経験していくのかということだけだろう。サイファーが認識するように、マトリックスの中にいる人々は、その点において、それでもなかなかうまくやることができるのである。

先に見たように、ノジックは、我々のほとんどは残りの人生を“経験マシーン”にプラグでつながれて過ごすことを選ばないだろうと考える。彼は、我々の人生には、我々が自分の経験よりも大切にしている物があると考えている。例えば、我々はある何かをすることに価値を見出す。単にそれをする幻影や経験を持つだけではなくて。

私はノジックに賛成だ。我々はいくつかの事柄について、単に結果的に持つことになる経験だけではなく、純粋に大切に考えている。これがいつもそうだと主張するのは、受け入れがたい。ステーキを食べることについては、経験こそ我々が本当に重んじる全てである。しかし、我々は他の事柄に対してはそれとは違う感じ方をしていると思う。私は、そうだということをあなたに納得してもらうつもりでもある。

ここで話題にしているのは、実際に我々は何を重要視するか、という問題であることに注目されたい。何を重要視すべきか、という問題ではなくて。読者たちの中には、自分自身の経験以上の事を重要視すべきであるということに、進んで譲歩しようとする人々もいるかもしれない(あまりにも自分勝手だ!)。しかし、実際のところは、我々が本当に大事に考えているのは自分自身の経験だけのように見えるかもしれない―少なくとも、我々のほとんどにとっては。私は、そうではないと主張していくつもりである。我々のほとんどは、実際には、我々が結果として経験することだけ以上の事を大事に考えているのである。

これを見ることを困難にする、人間の動機付けの広く支持された実態がある。その実態とはこういうものである。結局のところ、誰もが常に利己的な動機に基づいて行動する、とそれは述べる。我々が意図的に何かをする時、我々が達成しようとするのは自分自身の目的である。我々は常に自分自身の目的を追求し、自分自身の欲求を満たそうとしている。我々の誰もが真に人生に求めている事は、自分自身のために、より多くの心地良い経験を獲得し、辛い経験を避けることなのである。時として、我々が他の人々のために何かをしているように見えることもあるかもしれない。例えば、我々は慈善事業に寄付をしたり、自分の子供たちにプレゼントを買ってやったり、自分の配偶者を喜ばせるために犠牲を払ったりする。しかし、よく考えてみると、このような場合でさえも、我々は依然として常に利己的な動機のために行動しているのである。我々は、それによって気分が良くなったり、高潔な気持ちにさせてくれるからという理由だけで、そのようなことをするのである。我々は高潔な気持ちになるのが好きだから。あるいは、我々が大切に思っている人たちが幸せだと、我々も幸せにしてくれるから、そういうことをするのであって、結局は我々が求めているのは自分たちにとっての幸せなのである。というわけで、我々が生活の中で持っている唯一の目的は単に心地良い経験を持つことだけゆえ、ノジックの経験マシーンは我々が欲しいものを全て与えてくれ、それにプラグで接続しないのは愚かなことなのである。

さて私は、一部の人々はこの実態が述べるように利己的であるかもしれないということは認める。しかし、私は多くの人々がそうではないと思う。この実態は2つの混同に基礎を置いており、ひとたびそれらの混同を解けば、我々の誰もが人生の中で目標にしている唯一のものは、心地良い経験をすることだけだというのを信じる理由はどこにも無くなると、私は考える。

最初の混同は、“自分自身の目的を追求し、自分自身の欲求を満たそうとすること”と“利己的な動機で行動すること”を一緒にしていることである。動機や目的を“利己的”と呼ぶのは、単にそれが私の持っている動機や目的だと述べているのではない。それより多くのことを述べているのである。それは、その動機の性質についての何かを述べているのである。もし、私の動機が自分に得をさせるためのものであったら、私の動機は利己的なものである。もし私の動機が、あなたに得をさせるためのものであったら、私の動機は利己的なものではない。私は私の動機の1つを追及しているという単なる事実からは、私の動機が2番目の性質のものではなく、1番目の性質のものであるということにはならないのである。

そうするとあなたは、しかし、私の目的はあなたに得をさせるものでも、私がその目的を達成した時、私は気分が良くなる、と言うかも知れない。そして、この良い気分こそが、本当は私が最初からずっと獲得しようとしてきたものであると。

これが第2の混同である。我々が欲しいものを手に入れた時は、往々にして(悲しいことにいつもではないが)、我々は良い気分になる。我々が本当に欲しかったのはその良い気分だったと考える過ちを犯すのは簡単だ。しかし、これについてもう少し真剣に考えてみよう。なぜ、誰か他の人に得をさせることが、私に良い気分に与えなくてはならないのだろうか? そして私は、それがそのような効果を持つだろうということをいかにして知るというのか?

2つの話をよく考えてもらいたい。Aの話では、あなたはオラクルを訪ねに行き、彼女の待合室で、少年がスプーンを曲げて少女が積み木を浮揚させているのを見る。あなたは、不可解で不愉快なむずがゆさを感じる。誰かが、仮説として、もし少女にもスプーンを与えればむずがゆさは消えて無くなると提案する。そこで、あなたがその通りにすると、むずがゆさは消えて無くなる。

Bの話では、あなたは同じ部屋に入って行くが、少女がスプーンを持っていないという事が気に入らない。あなたは、少女にもスプーンを持っていて欲しいのだ。そこであなたはスプーンを取り、少女に与えて、その結果に満足を感じる。

Aの話では、あなたの目的は自分自身を気持ち良くすることであって、少女にスプーンを与えることは、その目的に対する手段でしかなかった。どうすればそのように自分を気持ちよくさせられるかということが分かるには、経験と憶測が必要だった。それに対して、Bの話では、憶測も経験も全く必要無かったように思えた。ここでは、あなたは、何があなたに喜びをもたらすかを率直に予見することができる立場にいた。あなたは、自分を気持ち良くさせる以外に目的を持っていたから、予見できたのであるし、あなたが欲しいものを手に入れた時は普通、嬉しく感じるのである。あなたの目的は、少女にスプーンを与えることだった。あなたが喜びを感じたことは、その目的を達したことの結果、あるいは副作用だったのである。その喜びは、あなたが本来目的としたものではなく、それどころか、あなたが本来目的とした事を達成したから実現したのだ。“あなたが目的としたもの”と、“あなたが目的としたものを手に入れた結果、起きた事”とを間違えてはならない。

ほとんどの場合、我々が他の人々に得をさせるようなことをした時、我々はBの話のような状況にある。我々の喜びは我々の行動から生じた正体の判らない結果ではないし、我々が本来達成しようとした事でもない。我々の喜びは、我々が本来達成しようとした事を手にいれたゆえ、生まれたものなのだ。そしてこのことは、なぜその時に喜びが生まれるべきなのかを理解させてくれるのである。

このことについてひとたびハッキリさせれば、生活の中で誰もが目的にするのは、心地良い経験をすることだけだということを主張する余地は残っていないように思うのである。時として、一部の人々はそれを目的とする。しかし、慈善事業に寄付をする時や自分の配偶者のために犠牲を払う等々の場合の多くは、それが自分にもたらす喜びのために行われるのではない。求めている物は何か他にあって、喜びは求められている他の物を手に入れる際に、時として一緒について来る嬉しい副作用に過ぎないのである。

ノジックは、我々のほとんどは、自分自身の経験以外のものも大事にしており、我々がマトリックスにプラグでつながれたら経験しそこなう事で我々が大事に思っているものもあると言った。私はノジックが正しいと思う。彼は、私に関して言えば正しいし、おそらくあなたに関しても正しいだろう。それは簡単に分かる。私は、テストとしてちょっとした考察実験を考え出したのだ。

私が、あなたの友人と私は秘密を守るのが非常に得意だということを、あなたに立証したと仮定して欲しい。例えば、トリニティが出かけているある日、我々全員が彼女を大いに笑いものにする。我々は、彼女の日記を大声で読み上げて、すごく大笑いする。我々は、馬鹿げた彼女の物真似をする、等々。それはすごく可笑しい。しかし、もちろん、我々はこういうことをトリニティのいない所でしかやらない。彼女が現れたら、誰もクスクス笑ったり冷笑したり、そんなことはしない。あなたは、我々が彼女を馬鹿にしていたことを、彼女には秘密にしておけるだろうということを全く信じて疑わない。彼女は決して知ることは無いだろう。

私が、私は実力のある催眠術師だということも、あなたに立証したと仮定して欲しい。私は、人々に物事を忘れさせることができ、いったん忘れてしまえば、彼らはそれを2度と思い出すことは無い。あなたは、私がこういう力があるということを確信する。

さて、あなたがそういうことを全て知っている上で、私はあなたに選択を与える。第1の選択肢では、私は10ドルをあなたの銀行口座に入金するが、あなたの友人と私はあなたのいないところで、我々がトリニティにしたようにあなたを馬鹿にする。もし、あなたがこの選択肢を選んだとしたら、私はただちに自分の催眠能力を使って、あなたが選択をしたこと、からかわれたこと等の全てを、あなたに忘れさせてしまう。あなたの視点からは、銀行が間違いをしでかして、今では、あなたは自分の口座にそれまでより10ドル多く持っていることになったように見える。従って、あなたが経験する事の点から言えば、この選択肢には1つもマイナス面は無いのである。あなたは、秘密裏にからかわれるだろうという期待に苦しむ必要すら無い。あなたが選択を決め次第、私はあなたに取り決め全体のことを忘れさせてしまうからである。第2の選択肢では、物事をあるがままにさせておく。私はあなたに何も払わないし、あなたの友人たちも、それまでと同じように、あなたのいない所であなたのことをからかったりするわけでもない。

さて、あなたはどちらを選ぶ?

私が自分の生徒たちにこの選択を与えると、少なくとも95%が第2の選択肢を選ぶ。彼らは、からかわれるのは悪い事だと考える。たとえ、彼らには何が起きていたのか全く分からなかったとしてもだ。

からかわれるというのがそれほど悪くないと思えるなら、例を変えよう。第1の選択肢は、あなたの恋人はあなたに不貞を働いているが、あなたはそれについて全く知らないとしよう。あるいは、我々はあなたの母親を拷問にかけているが、あなたはそれについて全く知らないとしよう。どのバージョンにしても、あなたの経験は円滑で安泰であるに加えて、余分な金も少し入る。あなたはどちらの選択肢を選ぶだろうか?

もし、あなたが第2の選択肢の方が魅力的だと思ったとしたら、それはノジックの主張を支持することになる。経験マシーンは、あなたが大事にするものを全てあなたに与えてくれるわけではないのである。第1の選択肢は、からかわれる経験をあなたに与えるわけではない。あなたの恋人があなたに不貞を働いているという証拠も、あなたの母親が拷問に遭っているという証拠も、あなたに与えるわけではない。しかし、あなたは、あなたとあなたの母親にとって物事がうまく進んでいるという経験を持ちたいだけではない。あなたは、本当にからかわれていないこと、あなたには本当に貞節な恋人がいて、本当に拷問をかけられていない母親がいるということを重要視するのである。

さて我々は、経験マシーンにプラグでつなぐことによって得られるものと、プラグでつながないで得られるものとを“比較”しなければならない。私は、もし我々がプラグでつないでいたら、我々が大事に思っているいくつかの事を経験しそこなうとだけ主張してきた。プラグでつなぐことは決して道理にかなっていないとは言ったことは無い。場合によっては、プラグによってつながれたことの良い面が悪い面に勝ることもある。もし、現実の世界が十分悲惨で険悪だったら、プラグでつなぐのも道理にかなっているのかもしれない。おそらく、サイファーにとっては現実の世界は険悪過ぎたのだろう。私が言っているのは、プラグでつなぐことが我々の欲する全てのものを与えてくれるわけではないということだけである。我々の経験は、我々が大事に思っている事の全てではない。だから、プラグでつなぐことにはいくらか悪いことがある。プラグでつなぐことにはいくらか良いこともあるかもしれない。夢や没入型ロール・プレイングは、我々が生活の中で大事に思っているもののいくつかを与えてくれる。私はただ、それらのものは我々に全てを与えてくれるわけではないということを言っているのである。この世界が、本当にどうなっているかということのいくつかの面は我々にとって重要なのである。

しかし私は、どれぐらい重要なのか、まだ言うことができていない。どこが正しい均衡点なのかを知るのは難しい。サイファーのように、幸福に満ちた経験マシーンに再びプラグでつなぐ選択を取るのが道理にかなうには、現実の世界はどれぐらい悪くなければならないのだろうか? これは難しい質問だ。一つには、マトリックス、あるいは経験マシーンには、隠れた代償を払う必要があるということにもよるだろう。そして、これは我々がまだ解決していない問題なのである。

IV

マトリックスの中に住むことの主要な代償は何かということを判断する前に、我々は最後の厄介な問題に取り組まなければならない。

我々は、マトリックスの中にいる人々のほとんどにとっては、ステーキを食べる経験だけで十分かもしれないと言った。我々は、多分、彼らは自分たちが本当にステーキを食べたことがあるのかどうかということを気にはかけないだろうと言った。このことについて、いったん止まって考えてみよう。これらの登場人物は、“ステーキを食べる”と言った時、何を意味しているのだろうか?

仮にあなたは、あなたが“ジロウ”と呼ぶ友達と共に育ったとしよう。あなたは気がつかないが、それはあなたの友達の本当の名前ではない。少なくとも、彼の両親が彼に付けた名前ではないのである。本当は彼の名前は“タケシ”である。“ジロウ”は、彼の叔父の名前である。しかし、あなたは小さい時に名前を取り違えてしまい、誰もその間違いをわざわざ直してくれようとはしなかったのだ。そこで、あなたはこれまで、タケシのことを話すのに“ジロウ”と言ってきた。それだったら、あなたの口の中では今や“ジロウ”はタケシを意味するということがもっともだとは思えないだろうか?

同様に、ジェレミーはマトリックスの中で育ち、さまざまな機会に、ある一定のやり方、彼が“ステーキを食べる”と表現したやり方で、マトリックスの他の部分と交信してきた。だから、おそらく彼が“ステーキを食べる”と言う時意味しているのは、マトリックスとある一定のやり方で交信することだけに過ぎないのだ。彼はそれを何回もやったことがある。ということで、彼はおそらく何度も、本当にステーキを食べることができたのだろう。少なくとも彼は、彼がステーキを食べると呼んでいる事を行なうができたのである。ジェレミーがしていたい事、でも実際にはしていない事がもっと他にあるのかはハッキリしていない。そういう事はあったのだろうか?

ここでの哲学的問題は非常に興味深いが、本当にすぐ紛糾する。私自身、ジェレミーの考え方のいくつか、我々がたった今描いた話は正しいかもしれないと考える。

興味深いことに、これはこの映画の考え方ではないようだ。サイファーが言うことを思い出してみよう:

なあ、俺はこのステーキが存在しないということを知っている。

それから、モーフィアスとネオがスパーリング・プログラムで闘っている時に、モーフィアスが尋ねる:

君が息をしているのは空気だと思うかね?

サイファーとモーフィアスは両方とも、マトリックスのシミュレーションが、彼らの意味するところの“ステーキ”や“空気”を本当に供給するという見方を拒絶している。すなわち彼らは、彼らが “ステーキ”や“空気”と言った時に意味するものは、ある一定のやり方でマトリックスのプログラムと交信することだけであるという見方を、拒絶しているのである。

私が言ったように、ここでの哲学的問題は本当に紛糾する可能性がある。これらの困難を避ける方法の1つは、マトリックスに徴集された最初の世代(マトリックスの外で育ち、新しくプラグでつながれたばかりの人々)にとって、マトリックスの中に住むことについての何が悪いのかということに焦点を合わせることである。おそらく、彼らが“ステーキを食べる”と言う時に意味するのは、牛の肉に関係しているのであって、マトリックスのシミュレーションのパターンには関係無いだろう。おそらく、彼らが“空気”と言う時に意味するものは、窒素と酸素から成るもので、1と0から成るものではないだろう。

私は別の方法を試してみたい。我々は今のところ、自分たちの全人生をマトリックスの中で過ごしてきた人々について話していると仮定することができる。私は、我々が大事に思っているもので、我々が持っている経験を超えるような、そしてマトリックスの中にいる人もその同じものを本当に大事に思うだろうということを我々が同意するようなものを見つけてみたい。彼らは、マトリックスの代用品を持つことには価値があるとは思わないだろう。それでいて、これはマトリックスの中にいる人たちは持っていないものになるだろう。彼らは持っているように見えるだけである。

もし、我々がそのようなものを見つけられたら、“マトリックスの中に住むことについての悪いもの”という名前を付けられるのに値するものを見つけたことになるだろう。

私は、3つの可能性を考えることができる。

最初の可能性は、ある種の科学的知識に関係がある。マトリックスの中の物理学者たちは、彼らの世界の基礎を成す構造や、何が“自然法則”であるのか等々について、根本的に誤まった信念を持っていると推測する。一部の人たちにとっては、そのような問題を解明するのは重要なことである。彼らは、そのような問題についての真実を知るのは大事なことだと考えている。しかし、誰もが皆、そのように感じるわけではない。物理学者ではない普通の人々にとって、このような問題について間違えているかもしれないという可能性は、自分たちの存在に関する不安を引き起こしたり、映画の終わりにネオが着手するような改革運動を起こすよう触発したりすることは無い。

マトリックスに住むことの何が悪いのかという2番目の候補は、対人関係にかかわるものだ。我々がこの世で大きな重きを置いているものの1つに、他の人々との交流ということがある。我々のほとんどが、自分の友人の気持ちは誠実なものであって欲しいと思っている。例えば、あなたの親友のようにふるまっている人物が、本当はあなたを軽蔑していたら酷いことであるだろう。たとえ、あなたが決して知ることが無かったとしても。我々のほとんどは、我々の生活の中で自分が大切にしている人々が“本物”であって欲しいと思う。我々は、彼らがマウスの“赤いドレスの女性”のように、プログラミングする建造物であって欲しくないのだ。たぶん、一部の人々にとっては、プログラミングする建造物で十分なのだろう。彼らは、彼らの友人たちや恋人たちが自分自身の精神生活や自分自身の考え、感情を持っており、彼らに対して誠実な気持ちを持っているかどうかについては、気にしていないのかもしれない。彼らの友人たちや恋人たちが彼らの役割をキチンと演じてくれれば、それで十分なのだろう。しかし、我々のほとんどにとっては、それでは十分ではないのである。我々のほとんどは、本物が欲しいと思っているのだ。もし、あなたが非常に愛して一所懸命に世話した子供たちが、本当はコンピュータ・プログラムのパーツに過ぎなくて、あなたの努力から恩恵を受ける能力も、その努力を感謝する能力も持たないとしたら最低だろう。

別の考察実験をしてみよう。明日、あなたの記憶を一掃して、新しい居留地に送り出したと仮定しよう。あなたは、そこでちゃんとした生活ができ、あなたは過去の記憶を一切持たないことになっている。あなたは、自分の金や身の回りの物を持ち出すこともできない。しかし今日は、あなたの記憶が一掃される前に、あなたは自分が新しい居留地で良い生活ができるようにと残しておいた金を使うことを許されている。例えば、あなたがもし1000ドル費やせば、我々は新しい居留地のアパートにはゴキブリが出ないように手配する、などというように。あなたはどのように自分の金を使うだろうか?

メニューに2つの選択があったとしたらどうだろう。もし第1の選択肢を選んだら、あなたは新しい居留地で、すこぶるリアルな友人たちと恋人たちのセットを手に入れることができる。あなたは、彼らを本物と区別することはできないだろう。しかし彼らは、実際は(ノン・インテリジェントな)コンピュータ・プログラムによって描かれた空っぽのシェルに過ぎない。彼らは自分自身の精神生活を持つことはない(ロール・プレイング・ゲームの専門用語では、彼らはNPCとなる)。あなたはそのことを今は知っているが、あなたが居留地に着く時にはそれを忘れてしまうことになっている。もし、あなたが第2の選択肢を選んだら、あなたは本物の人間である友人たちや恋人たちを手に入れることができる。

私が知っているほとんどの人々は、第2の選択肢を選ぶだろう。たとえ、それがもう1つの方より多少高くつき、新生活のために他の素敵なものを買うことができなくなったとしても。すなわち、彼らは、それがたとえ、より多くのゴキブリに耐えなくてははならないことを意味していても、第2の選択肢を選ぶだろうということなのである。

ということで、我々の多くが生活の中で大事に思っていることの1つは、我々が感情的に愛着を持つ他の人々が本当の人間であり、彼らが見かけのままに我々に好意を持ってくれているということなのである。ノジックの経験マシーンには、これが欠けているように思える。彼の経験マシーンは1人用マトリックスのように思えるのだ。あなたは、あなた自身の経験の脚本を楽しめるだけに過ぎない。あなたは、他の人々と交流することはできないのである(リチャード・ハンリーの小論の中の、“個体用マトリックス群”についての論議を参照されたし)。

一方、本物のマトリックスの中では、人々は他の本物の人間と交流ができるように見える。したがって、個人間に生じる関係の欠如はノジックのマシーンについての悪い所かもしれないが、我々が映画の中で観るマトリックスについては悪い事ではないように思える。

マトリックスに住むことの何が悪いのかという我々の3番目の候補は、より適切なものである。映画の中では、マトリックスの中の人間たちは全員、奴隷である。彼らは、自分自身の生活を管理していない。彼らは、自分たちがつながれている鎖に気づいていないため、満足している奴隷たちかもしれないが、それでもなお奴隷には違いない。彼らは、自分自身の未来を決定するには非常に限定された能力しか持っていない。モーフィアスが表現するように:

マトリックスとは何か? 支配である。マトリックスは、我々を支配下に置くために造られたコンピュータ製の夢の世界なのだ……。

さて、これについて最も心をかき乱すようなことは―とにかく私にとっては―、機械が我々をエネルギーのために飼育しているということではない。我々は、それが非常に悪いことであるように思えるに十分なほど、エネルギー農作がどういう仕組みになっているか、告げられていないのである。ひょっとしたら、機械は、我々がいずれにせよ活用することの無いエネルギーだけを摂取しているのかもしれない。ひょっとしたら、エージェントがあなたの体を占拠してそれを殺させる稀な場合を除いては、我々は、マトリックスのエネルギー農場の中にいた方が、自然界にいるより、長く健康的な生活を送れるということを、機械は保証しているのかもしれない。

そうではなくて、マトリックスで我々が奴隷化されることについての何が恐ろしいことなのかというと、それは、我々の敵が、我々に何が起きるかということに対し非常に大きな支配力を持っているということなのである。我々が、実は秘密のナチスの徒党が我々の政府を運営していたことを発見したと仮定して欲しい。そうなったら恐ろしいのではないだろうか? 彼らは、積極的には何も害を及ぼしていないと仮定しよう。彼らは、ほとんどの点で、我々が好むやり方で政府を運営し続けると仮定しよう。それでも、我々の多くは、それが気に入らないだろう。我々は、かつてのナチスが我々に対して大きな支配力を持っているという事実だけに対しても、異議を唱えるのである。

同様に、マトリックスの中の機械も我々の敵である。我々は、彼らと残虐な戦争を戦ったのである。今や、彼らは我々を莫大な力で支配している。彼らの目的に沿っている限り、彼らは我々の生活を我々が気に入るように管理するだろう。しかし、我々の多くは、彼らが我々に対しそれほどまでの支配力を持っているということに、心をかき乱されるのである。我々は、自分の未来は自分でコントロールしたいのだ。

エージェント・スミスによると、マトリックスは、20世紀の終わりをシミュレートしてデザインされたそうだ。そうすればエネルギー農場をスムーズに管理し続けられるということを機械が発見したからだとか。今や、我々は何世代にも渡ってマトリックスの中での生活を生きてきた。したがって、我々の何世代もが全て、この、シミュレートされた20世紀の終わりの生活を経験した。シミュレーションが2003年になったら何が起こるのだろうか? 機械は我々の記憶を消して、全てを1980年にリセットするのだろうか? 映画ではそれは語られていない。しかし、おそらくそのようなことをするのだろう。このことは、我々がどれぐらい目標を達成できるかということについて非常に限界があるということを意味する。もし、マトリックスでのあなたの野心が、レストランを開くこととか有名な俳優になることのように、比較的小さいスケールのものだったら、それらを達成することは十分にできるだろう。しかし、あなたの野心がそれよりも大きいもの―例えば、長期に渡る社会的変化―だったら、あなたがゴールに向かって築いていた進歩は、シミュレーションがリセットされた時に消し去られてしまうのである。この種の長期に渡る努力は、無益な行為になるだろう。

また、もし我々の野心が農場主たちを喜ばせなかったらどうなのだろう? 例えば、我々が人工頭脳を創り出す作業をしているコンピュータ科学者だったら? 機械は、おそらく、単に我々の試みを妨害し続けるのが一番簡単だと悟るだろう。何といっても、機械は、我々に、マトリックスの中で人類と機械との戦争を再現して欲しくないであろう。彼らの作物のために悪いだろうから。また、彼らが、我々に、マトリックスのことを見抜いて我々の側に立って戦うような慈悲深い人工頭脳を創り出してもらいたくないのも確かだろう。ということで、機械は我々の歴史をいじくり回し、このような重要で高潔な大望が決して実現することのないよう取り計らうであろう。

もちろん、彼らは我々のより重要で卑しい野望も実現しないよう取り計らうだろう。彼らは、大量殺人計画を練っている者に対しては接続を断つか、プログラムし直すだろう。

しかし、もし選択を与えられたとしたら、我々のほとんどは、人類が自分たち自身の運命を管理して欲しいと思うと私は考える。我々は、自分たちの長期に渡る努力が無益なものになって欲しくない。我々は、誰か他の者が作った我々の生活プランに従って生きたくはない。もちろん、我々が出来ることにはいつも一定の限界があるだろう。太陽の真ん中で休暇を過ごすようなことは、まず出来るようにはならないと思われる。しかし我々は、自分たちの運命に対してできるだけ自分たちでコントロールしていきたいと思う。我々は、他のインテリジェント・エージェントにそのような事を我々のために決めて欲しくない。特に、そのようなエージェントの最優先事項が、彼らのエネルギー農場がいかに良く経営されるかということである場合はなおさらだ。それは、我々の生活や社会がどれぐらいうまくいっているかということとは、相互に関係していないかもしれないからだ。

ということで、機械が我々の運命や文明をコントロールするのは、不愉快なことのように思われる。我々が、非常に大事に思っているのは、我々自身の生活を管理することで、誰かの奴隷やおもちゃにされることではないのである。我々は、政治的に自由でありたいのだ。

まことしやかにも、人々が“政治的な自由”とか、“自分の生活を管理する”と言う時に意味することは、マトリックスの中でも外でも同じなのである。我々は、本物とマトリックスのシミュレーションとの違いに無頓着ではない。我々は、本物が欲しいのだ。我々がマトリックスの中にいる時、我々はそれを持っていない。我々は、それを持っていないことに気づいていないだけなのである。

少なくとも私にとっては、それは驚くような答だ。マトリックスは、形而上学的、認識論的な多くの問題を提起する。もし、あなたが私のように哲学を好むなら、これらの問題は、知的な面で心を引きつけられるものとなろう。しかし、我々が知的な面で心を引きつけられると思うものと、生活の中で最も大事だと思うものには違いがある。知的な問題は、たくさんある重要な事の1つに過ぎない。我々のほとんどにとって、マトリックスの中に住むことについての最悪なものは、形而上学的な事でもなければ認識論的な事でもない。そうではなくて、最悪なものは、政治的な事なのである。それは、マトリックスの中の生活は、我々が論じてきたような種類の、一種の奴隷状態であるという事実なのである。

私は、それこそが、我々が映画の中で見るマトリックスに住むことについての本当に悪い事なのだと思う。それこそが、ネオやモーフィアスやトリニティが機械と戦い、彼らが解放できる限りの人々を解放しようと試みる動機を与えているものなのである。

マトリックスが、一種の奴隷化ではなく、依然として他の本物の人間と交流を伴うものならば、とどのつまりマトリックスは、そんなに悪いものでもないのかもしれない。

ジェームズ・プライヤー