プラトンの洞窟と『マトリックス』
ジョン・パートリッジ
「哲学は、見慣れたものに絶対的な奇異を見ること、そして、それについて本当に探究する疑問を考案することを必要とする」‐ アイリス・マードック1
「彼らは、私について、実に変な奴だ。あいつのすることはといえば、ただ人間を困惑させるだけのことなんだ、と言っている」‐ ソクラテス2
人間が、幼少の頃からずっと、首のところで1箇所に縛り付けられている、暗い、地下にある監獄を想像してみて欲しい。囚人たちの視覚的経験の内容を供給し操作するために、目に見えない力によって、入念な方策が講じられている。その方策が非常に効果的であるゆえ、囚人たちは自分たちが監禁されていることに気づいておらず、自分たちの人生をこのように生きていることで満足している。さらに、監禁の累積効果があまりにも徹底的であるため、もしそこから解放されたとしても囚人たちはほとんど無力である。彼らは自分たちだけでは立ち上がることはできず、最初、彼らの目は知覚情報によって過剰な負担を受け、彼らの心でさえ、最終的に感覚能力が彼らに提示するものを受け入れることを拒否しようとするだろう。彼らの心が、自分たちの置かれた状況の恐ろしさを理解した後でさえ、そのまま監禁されていた方が良かったと望む囚人がいることを予想するのも、理にかなわないことではない。しかし、もし1人の囚人がひきずり出されて、監獄と外の間の関係について理解するよう強要されたら、事態は異なるだろう。やがてはその囚人も、前の経験全体を作り上げていた演出の連続よりも、より優れた純粋な知識を持つようになるだろう。この解放された囚人は、それらの演出を今や心で理解している完全な現実の見劣りする複製のように、不完全なものとして理解するだろう。しかし監獄に戻れば、解放された囚人は、嘲笑や不信、憎悪の対象になるであろう。
I. 序論
『マトリックス』を観た人は、ネオが彼の監獄から解放されて、彼の生活と世界についての真実を理解させられる瞬間を憶えている。先の説明は、この1999年製作の映画の転換点を大雑把に捉えているが、それはギリシャの哲学者プラトン(紀元前推定427年~347年)によって、ほとんど2400年以上前に作られた情景から引き出されたものなのである。今日では、『国家』が最も大きな影響力のあるプラトンの著作であり、洞窟の寓話は『国家』の中でも最も有名な部分である。もしあなたが、ソクラテスは裁判にかけられ、有罪となり、毒ニンジンを飲むことによっての死刑を言い渡されたことを知っているとしたら、あるいは、ソクラテスは考察することの無い人生は生きる価値が無いと考えていたということを知っているならば、『国家』の中のソクラテスが、人間の状態を、洞窟の中に閉じ込められ、自分たちの前に映し出された影を見るだけの囚人たちの状態に例えたことも知っているかもしれない。この状態を超えることが純粋なる教育の目的なのである。それは監禁からの解放、その人の全人生を変える、または再設定する、暗黒から光への上昇なのである:
縛めから解放されて、映っている影から、その影の元にある摸像と火の光の方へ向きを変え、地下の住まいから太陽のもとへと上昇して行くこと……。(教育は)魂のうちなる最も優れた部分を導いて、実在するもののうちなる最もすぐれたものを観ることへと、上昇させて行くはたらきをするものなのだ。3
洞窟の寓話は、ソクラテスの最も根本的な関心事項、すなわち、我々の魂は考えうる最良の状態にあるべきだということに、文学的な形を与えている(プラトン著『弁明』30a7-b4)。ソクラテスはまた、彼は、神、アポロから哲学を実践するよう命を受けたと信じていたが、これで彼は鼓舞されたと同時に命をなくした。しかし、いかに哲学的な究明が魂の状態を改善するかということは明白ではない。特に、ソクラテスが尋ねる一連の質問を通してある人の信条の一貫性が試されることによるソクラテスの方法は、依然としてさらに明白ではない。
私は、洞窟の寓話は、ソクラテスの哲学的人生に哲学的な意味を持たせ、ソクラテスの絶えざる質問を、彼が呼ぶところの“魂の世話”に対しての揺るぎ無い目的に関連させる、プラトンの努力の一環だったと信じており、それをここで示すことにする。この、魂の世話というテーマについて、『マトリックス』と『国家』におけるプラトンの考えとには、深い共鳴がある。洞窟の寓話のように、『マトリックス』は、ありふれた外観は真の現実を表現しておらず、真実を獲得することはその者の人生を変えることになるという観点を、劇的に伝えている。より偉大なる理解に対してのネオの運動は、洞窟内の束縛が緩められた囚人たちの運動と、うまく平行して描かれている。この映画と洞窟の寓話との表面的な類似点を挙げていけば、長い一覧表ができるほどである。この小論の最初の項では、それらのつながりのいくつかを浮き彫りにする。しかし、これら2つの間には、より深い類似性が残る。私はそれについて、特に第4項ではソクラテスの魂の世話と関連づけて、明らかにしていくことにする。
私がこの映画と洞窟の寓話とのより深い結びつきと呼ぶ事を見るために、私は第2項では、洞窟が登場する状況とそれが比喩的に表現する哲学的立場を詳述することによって、始めることにする。 4
第3項では、私は、人を欺くような知覚情報を選別する難しさに焦点を絞り込んで、この映画と寓話を比較・対照する。最後に、第4項では、プラトンが『国家』の劇的な空間の中に設置した警告と譲歩を考察する。ソクラテスの友人の1人が言うように(515a4)、洞窟は奇妙な情景である。ソクラテス自身でさえ、洞窟は的確ではないと告白している。(504b5; cf. 435c9-d2) 5
最近、この映画を観た後で、洞窟の箇所を読み返してみると、これらは使い捨ての見解ではないことが分かる。『マトリックス』も同様に、不思議さと計算された曖昧さが行なう仕事に特権を与えている。モーフィアスは、結局、ネオが最も見ることを必要としているものを見せられないが、認識するのが困難な何かをネオが自分自身で見るように仕向けなければならないのである。かくのごとく、『マトリックス』とプラトンの洞窟は、生徒が彼ら自身で発見する準備ができている時のみ、正しく教えることができるという、ソクラテスの哲学的考察の教義に忠実である。さらに最も重大な発見は、自分自身の発見である。やはり何と言っても、自省の用意ができていることこそ、“魂の世話”を可能にするからである。
II. プラトンの洞窟
もし、プラトンの『国家』に1つだけの統一的主題があるとしたら、それは、正しい人間の人生は、本質的にそれ以外のどのような人生よりも望ましいということを示すことである。これを証明するために、ソクラテスは“正義”の概念を研究させられる。『国家』の10巻のうち3巻に渡る入念な研究をした後、ソクラテスと彼の2人の対話者たちは、正義とは何かを発見する。正義とは、それの3つの部分がそれらの仕事を正しく実行し、他の部分の仕事を実行するのを避けるようにしている魂の属性であることが示されている。具体的には、理性がその魂のほかの部分を抑制しなければならないのである。理性の抑制下においてのみ、魂の調和のとれた配置が確保され保持されるのである。プラトンは、このような魂を健康であると呼ぶことによって、この考えに注釈を付けている。正しい人間は、精神的に健康であり、彼らの人格は正しいやり方で完全なものになっているのである。
第4巻の終わりに、その主張に1つの主要な隙間がある。上の一節で言及された“魂の最上の部分”である理性の正確な役割とは何なのであろうか? この段階では手がかりになるものは少ない。我々は、理性がうまくはたらく魂は賢明と呼ばれているということを知っており、賢明さは、善の知識という特別な種類の知識である。いかにして、我々はこの知識に到達することになるのだろうか? それを所有するのはどんな感じがするのか? 善とはどのような類のものなのだろうか? 洞窟の寓話はそのような疑問に語りかけるのである。6
これらの疑問の重要性を我々に印象づけるため、『国家』の第7巻は、我々の無知の衝撃的なイメージで始められている。それが、洞窟の寓話である:
地下にある洞窟状の住まいのなかにいる人間たちを思い描いてもらおう。光明のある方へ向かって、長い奥行きをもった入口が、洞窟の幅いっぱいに開いている。人間たちはこの住まいのなかで、子供の時からずっと手足も首も縛られたままでいるので、そこから動くこともできないし、また前の方ばかり見ていることになって、縛めのために、頭を後ろへめぐらすことはできないのだ。彼らの上方はるかのところに、火が燃えていて、その光が彼らのうしろから照らしている。この火と、この囚人たちの間に、一つの道が上の方についていて、その道に沿って低い壁のようなものがしつらえてあるとしよう。それはちょうど、人形遣いの前に衝立が置かれてあって、その上から操り人形を出して見せるのと、ちょうど同じようなぐあいになっている……。ではさらに、その壁に沿ってあらゆる種類の道具だとか、石や木やその他いろいろの材料で作った、人間およびその他の動物の像などが壁の上に差し上げられながら、人びとがそれらを運んで行くものと、そう思い描いてくれたまえ。運んで行く人のなかには、当然、声を出す者もいるし、黙っている者もいる。(514a1-515a3)
現代の読者の多くは、洞窟の恐ろしい政策にたじろぐ。結局、“操り人形師たち”とは誰なのだろう? なぜ、彼らは同輩の洞窟の居住者たちを欺くのだろうか? プラトンは、彼らについてほとんど語っていないので、読者たちは自分たち自身の最悪の恐怖の対象を想像する。すなわち、全体主義政体、あるいは20世紀中頃から後半の読者たちにとっては、洞窟内を自由に歩き回っている囚人ということで、明らかにマス・メディアがそれに匹敵する。
しかし私は、柱に縛り付けられた囚人たちから注意をそらすことになるゆえ、このことは洞窟の寓話の目的を間違えさせることになると考える。ソクラテスは「彼らは我々なのである」と言い、我々自身が監獄の看守であるゆえ我々が認識していない監禁こそが、真に邪悪な事なのである。方向を変えて、これらの囚人たちと彼らの監禁を、特に彼らの無知の哲学的利害関係について検討することによって考察しよう。それをして初めて、我々は、なぜ無知が監禁と疎外に例えられるのかが正確に解ることになるだろう。
洞窟の中では、囚人たちは異なる影と音を区別することができ(516c8-9, cf. e8-9)、物を表す影に名前を付けたり(cf. 515b4-5)、それらの提示のされ方を識別することさえできる(516c9-10)。この点においては、彼らはいくらか本当のことを知る。しかし彼らが、この二次元的で、像が織りなす単色の劇と洞窟の中に鳴り響く反響を現実全体だと信じているとしたら、彼らは間違っているのである(515c1-2)。さらに、彼らが持っている意見は、なぜ彼らが見ている形がそのような形をしているのかを説明しない。彼らは、影の出所を知らないし、音も、影によって出されているのではなく、像を動かしている彼らからは見えない人々によって出されているということを知らない(515b7-9)。
プラトンは、小規模な本当の事をいくつか信じることは、我々全ての状況の特性を示していると考える。我々は、異なる物事を識別することはできるが、それらに対する組織だって因果関係を示す説明に欠けている。大まかに表現すると、我々は、せいぜい物事が何であるかということについては多種多様な正しい事を信じているが、物事がなぜそうなっているかということについては(もし持っていたとしても)間違った考えを持っている。ここでの、ソクラテスによる正義の定義の探究は、他のプラトン哲学の対話における定義の探究同様、なぜ物事はそういうようになっているのか、そして、おそらくさらに、それらは互いにどのような基礎を成す関係を持っているのかということを理解するための、これらの説明を獲得する努力のように見えるのである。彼の疑問は、物事の真髄、あるいは彼が呼ぶところのそれらの“実相”の探究の一部である。7
プラトンにとって、我々がある物の実相について知っているなら、その真髄の包括的な説明をすることができるのである。実相を理解しないのであれば、我々にできることは、せいぜい正しく信じることぐらいである。
実相について知っていることが生み出す違いは、簡単な例で見せることができる。8
洞窟の中の誰かが、火の前に椅子を運んで来たと仮定しよう。縛められた囚人たちは椅子の影を壁に見て、そのうちの何人かは「椅子がある」と言う。彼らは部分的に正しい。もし、彼らが自分たちの拘束を破れば、彼らは実際の椅子が見えるだろう。この場合、彼らの椅子に対する認知把握は、より完全なものになるだろう。彼らは、影は椅子よりも本物らしくないこと、そして、椅子が影の元だったことを認識することができるだろう。
最終的には、物質的に本物の椅子は、椅子の実相を表現したものという形で説明される。何と言っても、ある物についての純粋な知識を持つためには、我々の知性がその実相を理解する必要がある。その違いをこのように考える人がいるかもしれない。影を投げかけている物体が見えた方が、影をよく理解できる。プラトンは、ある意味では、我々に、普通の物体は実相の影のようなものに過ぎないということを見て欲しいと思うだろう。従って、物体をできるだけ完全に理解するためには、その実相の理解を達成しなければならないのである。
ここで私は、その兆しが見えている、好奇心をそそるような厄介な問題を指摘しよう。事物の実相を知るだけでは、その物の最終的な理解を得るには不十分だということが分かる。椅子の実相を完全に理解するためでさえ、善の実相を知らなければならないと、プラトンは考える。
このことは、最初は意味を成さない。善の実相は、それを知ることによって賢くなるゆえ、理想的には理性が知るべき事であるということを思い出して欲しい。さらに、善の実相を知ることは、あなたが正しい人間になるのに貢献する。なぜなら、あなたの一部である理性が目的を果たしているからである(そしてこれは、あなたにとって正しくなることを意味する)。ここでプラトンは、善の実相、あるいは善そのもの(この2つの言葉は互いに取り替え可能である。7を参照されたし)を理解することは、我々の知性が知り得るいかなるものの知的理解の獲得にも必要なものだと示唆する。善の実相の独特な重要性は、ただちに洞窟に先行する2つの像によって示唆される。それは太陽と線分であり、私はここで、これらについて熟考することにする。
太陽との例え(507a以降)は、善そのものによって演じられる、特別な認識論的役割を浮き彫りにする。ちょうど自然界が(暖かさと光においては)太陽に頼っているように、知性的世界も善そのものに頼っているのである(508b13-c2)。9
これが光の比喩の趣旨である。プラトンの表現を借りれば、太陽が見る者に見る力を与えるように、善の実相は知る者に知る力を与えるのである(508e1-3)。
我々の椅子についての例において、囚人たちの上と後ろにある火によって作り出された光があるからこそ、椅子とその影が見える。そうであるならば、火は、影についてより完全に真実を信じることを我々が獲得するための必要条件になる。しかし火は、“太陽と比べればそれ自身が影に過ぎない光源”(532c2-3)以上の何物でもない。洞窟から出れば、太陽は善そのものを象徴する。善そのものは、本物の究極の現実の知性世界を啓発し、かように椅子の実相は、理解度の点で善の実相に依存しているのである。善そのものは、この世界において最も卓越した物である。それは知識の対象であり、知識のほかの対象を完全に知るための必要条件でもある。
プラトンは、善の実相によって演じられる役の詳説をまだ終えていない。彼は続いて、太陽が有機的生命を育てるのと同様に、善そのものも知性的事物の存在を育てるということを示唆する。この一風変わった考えのために、我々は3つの像のうち最も曖昧なものである線分の像(509d以降)の助けを借りる。垂直な線が、物質的現実と知性的現実という2つの領域を等しからざる部分に分けていると思い描いて欲しい。そしてそれぞれの領域は、物質的現実と知性的現実を分けているのと同じ不均等な比率でさらに分割される。線分の、小さく下部の方にある部分だけについて言うと、物質的領域は、実際に存在する物とそれらの束の間の複製(例えば、水面上の反映像、影、芸術的な叙述など)とに分けられているということがわかる。洞窟の中においては、これは椅子とその影の間の識別である。また、この線分は我々をして、我々の五感で知覚された物質的に本物の物体は、事実上より本物らしい物の、見劣りがして縮小された、あるいは歪められた複製であると考えるよう強いるのである。
この線分は、現実と特定種類の物事の存在との度合いは線分を上がるに連れて増えるとする、プラトンの存在論の位置付けられた順位を提供する。目盛が上になればなるほど、その物はより本物らしくなるのである。善の実相は、現実すべての中で最も本物である物なので、実相のすぐ上、線分の一番上に位置している。線分の下の方にある物は模倣された物で、何らかの現実か、それらの上にある上の存在から恩恵を被っている。物質的な物体は比喩的に言えば、それらの対応する実相によって育てられているのである。それらは、その知る力だけでなく、そのまさに現実についてまでも、知的領域に存在する永遠なる実相に頼っているのである。
線分の話の明らかな含意の1つは、上昇の比喩である。洞窟の話もこれを利用している。洞窟からの登り道を通っての脱出は、五感によって収集される情報に頼ること無しに、ますます抽象的な知識を得る難しさを象徴している。3つの情景を結び付けることによって、我々は人間の状態は悲惨だということを発見する。我々は、現実の最も格下げされた形(像、影)しか見ることはなく、太陽(善そのもの)からは可能な限り遠い所にいるのである。真実に対して無知でいることは、このようなことなのである。
しかし、なぜ純粋に善であるものから我々が疎外されているのかということを理解するのは、我々の生活にプラスになることであり、我々が注目するに値する、善そのものの特徴がもう1つある。善の実相が正確には何であれ、それは模範、あるいは手本としての役目を果たし、それを理解する者には、驚くべき効力を与えるのである。第7巻の終わり近くで、ソクラテスが十分に教育を受けた哲学者たちについて言うように、「いったん、彼らが善そのものを見てとったならば、その善を模範(パラダイグマティ)として用いながら、各人が順番に国家と個々人と自分自身とを秩序づけなけらばならない」540a8-b1)のである。このことは、“真実在”(500b9)を研究することによって哲学者となっている者が、職人(500d6を参照のこと)、あるいは“神的な模範(パラダイグマティ)を用いて描く画家”(500e3-4)のような言動を取っているという、より長い一節で先取りされている。
実相を複製、反映、あるいは模倣することによって、物質的な物がそれらの持つ質を呈するだけでなく、我々は善そのものと知的に接することによって、善であることを呈することができるのである。10
一言で言えば、我々は善になるのである。
我々は今なら、なぜ存在が善の実相を知ることに頼っているだけなのかが分かる。理性の支配は、魂に学ぶ機会を提供し、それによって善そのもののようになる。つまり、正しく釣合いが取れ、秩序だっており、健康であるということだ。そして最後に、いったんこの知識が獲得され、自己変革がなされたら、その人は生産的な人物になるのである。11
善そのものの知識を得た人々は、自分の魂や、他者の魂の中に、善を巧みに作ることができ、国家のために神的な構造を描くことができる。このことがプラトンをして、もしソクラテスがアリストファネス(訳注:アテネの喜劇作家)の舞台に立っていたら、観客から雷のような笑いを返されたであろうようなことを、彼に言わせることを可能にしたのである:
哲学者たちが王となって統治するのでない限り、あるいは、現在王と呼ばれ、権力者と呼ばれている人たちが、真実にかつ十分に哲学するのではない限り、すなわち、政治的権力と哲学的精神とが一体化されない限り……グラウコンよ、国々によって不幸の止む時は無いし、また人類にとっても同様だと、私は思う(473c11-d6)。
III. プラトンの洞窟と『マトリックス』
『マトリックス』の中に実相は無く、従ってプラトンの『国家』の中に出てくる認識的、極めて抽象的な状況は、映画の中の状況とは非常に違って見える。洞窟の中の世界は、本物の影あるいは反映を映す縮小された世界だが、概して本物の世界と連結している。たとえ知覚の領域と知性の領域、すなわち、方法、認識的確実性、形而上学的現実において顕著な違いがあるとしても、プラトンの観点では、知覚は何らかの形で知性に由来するものなのである。従ってプラトンにとっては、我々が洞窟の中で話したり考えたりすることは意味が無いことではなく、我々が物事の深い要因については無知であるにもかかわらず、我々の意見の中には正しいものもある。
それに対し『マトリックス』では、2つの世界ははるかに互いに連結し合っていない。本当の世界は大いに暗黒郷的であり、マトリックス内の生命個体は、この現実からほとんど完全に遮断された精神状態を供給されている(皮肉にも、『マトリックス』に出てくる本当の世界は、洞窟の中の世界に非常に良く似ている)。そのリアリズムにもかかわらず、マトリックスの中の世界は、本物の世界の複製ではなくシミュレーションである。とは言っても、本物の世界とコンピュータによってシミュレートされた世界との間には、少なくとも1つの連続性がある。それはあなたの体だ。説明されていない“残留身体記憶”という原則により、あなたの体は、両方の世界で、あなたにとっても他者にとっても同じに見える。また、あなたは片方の世界の記憶を、もう片方の世界にいても、また最初の世界に戻って来ても持ち続けることができる(このことは、もし、サイファーがマトリックス内の現実の幻影に戻ることになるなら、彼は、マトリックスの外側で過ごした時間の記憶を取り除いてもらわねばならないだろうということを意味する)。
本物の世界とシミュレートされた世界は、五感が情報を受け取る世界であるゆえ、実際的な問題はそれが不連続的であるということではなく、識別できないということなのである。これはネオにとって最初、困難であることの一部である。彼は、どの知覚情報が本物でどれが偽物だかを判断することができないからである。彼(と観客)は、この問題をまずまず直ちに解決するのだが、その後も以下のような懸念が残る。もし、彼の経験が本物であるという証明が無いとしたら、そもそもいかにして彼は自分の知覚情報が正しいということに確信を持つことができるのだろうか?
エージェント・スミスが、マトリックス内でネオが電話を取った瞬間に立ち上がるコンピュータ・プログラムを作ったと仮定しよう。船にサッと戻って乗船する代わりに、ネオの意識には、コンピュータによって作られたネブカドネザル号の内部の経験が供給され、もちろん、彼はマトリックスから脱出することに成功したと信じる。そのような策略は、エージェント・スミスをして、敵に知られたら困るようなネブカドネザル号やその乗員たちについての情報、あるいはさらに悪いことには、ザイオンへのパスワードを獲得することを可能にさせるかもしれないのである。
ネオが、エージェント・スミスの策略を見通すかもしれないということを想像するのは難しいものがある。特に、彼がそれを見抜くのにわずかな時間しか無いのだったらなおさらである。プラトンの解放された囚人は、それよりうまくやれるだろうか? プラトンが、我々に、それについての情報源が何であるにせよ、知覚的世界は信頼できないと見なすよう勧告しているのを思い出して欲しい。12
我々は、物事の真実を理解するための別の方法を選ばなければならない。もちろん、それは思ったより簡単なことではないし、明らかに有用なことでもない。何と言っても、我々が理解することになっているのは、我々の通常の知覚世界そのものではなく、知覚世界が複製されている元となっている知性世界なのだから。報償としては、あなたがいったん知性世界の実相を理解すれば、あなたは知覚世界の物事を識別する達人となるということである(520c1-6を参照されたし)。しかしそれは、あなたが決して間違いを犯さないということではない。そうではなくて、単にあなたは考えうる限り最上の知覚世界の識別者になるだろうということである。従って、エージェント・スミスが彼の欺くためのプログラムを立ち上げた場合、解放された囚人が持つかもしれない唯一の優位点は大したことはない。すなわち、全ての感覚的情報に対する全般的な不安ということに過ぎないのである。普通の世界は、それに対する真の知識を容認するには曖昧過ぎて絶え間無く変わっているゆえ、この変わりやすさに対しての我々の認識は、我々が信じている事のうちのどれが比較的信頼できるかということを判断する助けとなる。プラトンと『マトリックス』との間の形而上学的違いは、知覚についての認識論の信頼性の欠如と、本物の知識を得るためには知覚から取り出す必要があるということに関する、おおよそ同様の話を語る妨げにはならない。実のところ、我々は映画の最後で、ネオがマトリックスに対し、単に物理学の法則すれすれのやり方で目的達成を図る以上のことをしているのに気づく。彼は、まさにその世界自体から完全に外に踏み出したように見えるのである。もちろん彼は、2つの場所に同時に現れたりはしないが、彼がエージェントたちの1人を破壊したことと、彼の飛べる能力は、物理学の法則が単に曲げられただけではないということを示唆するものである。
プラトンの対話と『マトリックス』が最も強く合意する点は、世界に疑問を持つことによって多大なる精神的困難を引き出すという点と、それを怠ることの倫理的重要性である。ネオとプラトンの解放された囚人とは、本質的な真実についての深い知識を得ることができる前に、彼ら自身についての真実(すなわち、彼らの人生は本物ではなかったということ)を受け入れなくてはならない。これを達成するためには、ネオと解放された囚人の両者とも、知覚は無力で彼らは組織的に欺かれている可能性があるという衝撃的な実証を必要とする。そして両者は、真実を発見するための内省的な転換に着手し、五感から得た知識を無視する手段を講じなければならないのである。
ここでついに聞くことにするのは、ネオが、彼の中でプラトン的善の実相の知識と同じように機能するどのような知識を獲得するのかということである。大変な苦労の末、ネオは誰の真実が本質的であるということを知るのだろうか? ネオの知性によって理解されたどの対象物が、彼が他の何かを理解する際の条件となるのだろうか? どのような知識が、彼をして生産的にならしめ、彼自身と共に他の人々の救世主となることを可能にするのか? それは、適切な自己理解以外の何物でもない。『マトリックス』と洞窟の寓話の両方において、知る人をより完全で実力のある者にする知識がただ1つだけある。ネオの場合、それは自己知識なのである。
我々は、ネオがソクラテス的な自省と魂の世話の書簡に従っていると見るべきなのだろうか? 高い高度においてのみ、完全なつながりが見えるだろう。ネオの啓発は、結局のところ彼自身の特定の進路と役割についてのものであるからだ。ソクラテス的な魂の世話は自己知識を関与させているが、あなたの個性を構成している、あなた独特のあなた自身の部分は関係無い。13 洞窟の中の囚人たちは、ぼんやりとした自己認識しか持っていないので(彼らには自分自身の影しか見えない[515a5-8])、解放は、彼ら自身について正しく信じるようになることを伴うように見えるかもしれない。しかし、ネオが最終的に獲得する知識(すなわち、彼こそが“選ばれし者”であるということ)の特異性とは全く違う、プラトンが尊重する知識の抽象性は、まさしく、囚人が必要としている自己知識は彼らの探究の終わりでもなければ、適切な始まりでさえない。
他の対話の中でソクラテスは、知識はあなたの中にあり、適切な質問によって助けられたある種の内省は本物の信じている事を引き出し得るという考えを支持させられた。しかしこれらは、あなたについての真実ではなく、それらはむしろ、あなたの中の真実なのである。ネオの場合はそうではない。彼が理解しなければならない真実は、彼の中にあると同時に彼についてのものなのである。映画はさらに、彼がいかにして自分に能力があるということを完全に信じる前に自分の能力を実証し、経験しなければならないということを示す。そして、ついに彼が自分のことを信じる時、彼の能力はさらに高められる。この結果は、ソクラテス的な魂の世話の方法や目的によって実現されたものではない。
最も根本的なことには、映画と寓話は教育的な自負心を共有している。両方とも、最も基本的な真実を教えることには、戦略的な奇妙さのための重要な役割と、それが生み出す混乱があると考える。洞窟の寓話は、観客を惹きつけながらも、彼らを当惑させる。洞窟の寓話は、難問を解く概略しか提供しないのである。モーフィアスも同じことをしているかもしれないのだろうか? 寓話のように、モーフィアスも、ネオに自己理解と魂の世話を促して、一種のソクラテス的な教師のような役割を果たしているかもしれないのだろうか?
IV. 洞窟の中のソクラテス的教育と『マトリックス』
どの範囲でそうなのかを理解するために、私はここで、洞窟と囚人たちは“奇妙”であるとした、ソクラテスの友人グラウコンの意見(アトポン、アトポス[515a4])に戻りたいと思う。この意見は重要である。なぜならそれは、その情景が、プラトンが他の所でそれが重要であることを信じる理由を我々に与えた独特のやり方で、観客に作用しているということを示すからである。奇妙であること、何かが場違いである(アトピア)ことを誰かに認識させるのは、ソクラテス的方法が目的の1つを達成するやり方である。これは、ソクラテスが一見簡単な質問を聞く時に起こる。しかしこれはまた、彼が無知を装ったり、沈黙を守る時にも起こり得る。同様にプラトンの洞窟の寓話は、我々の無知がどのようなものであるかを荒涼とした情景の中で描写し、教育を受けることがどのようなものであるのかを描写するが、何が教育を受けることになる過程を始めるのかについては何も言っていない。14もちろん、監禁も解放も隠喩的なものである。特定の詳細を催促することは、過剰な量の像を要求することになる。この囚人がいかにして解放されたかということを詳しく語るのを拒否することによって、プラトンは、彼の寓話の解放性を保持したのである。15
『マトリックス』について、我々は何を言うべきであろうか? 一見すると、『マトリックス』は寓話から外れているように見える。第一に、それは上記の疑問に答を与える。ネオを解放するのはモーフィアスだからだ。モーフィアスは、ネオの解放を提言する、彼に関して際立った何かがあるゆえ、彼を解放することを選択する。しかしもっとよく調べてみると、ネオが初めの方でモーフィアスに出会った際、ソクラテスが対話者たちに引き起こした混乱と同じ種類の混乱が生まれている。ネオは、コンピュータを通して奇妙な連絡を受け(「起きろ、ネオ」16)、刺青が施された肩を見たらすぐにシロウサギを追うように言われる。これらの奇妙なメッセージは、世界に対するネオの期待、特に、彼の人生とコンピュータ・スキルをコントロールする彼のニーズを崩壊させる。ネオが赤い錠剤を飲み込んだ時にも、また別の崩壊が見舞う。この薬は、マトリックス内の世界の安定性に対する彼の認識を素早く変え始める。17 総合すれば、コンピュータのメッセージは、何が起ころうとしているかを薄気味悪く予想し、錠剤は、何が今起こっているかという彼の理解に疑問を呼び起こす。これは確実に、ネオをして、既に起こったことの全ては幻影だったという真実を受けとめる用意をさせるのである。
もし我々が、モーフィアスが正しい質問をして正しい薬を支給したと仮定しても、依然としてネオが質問を認識して薬を受け入れなければならないのは事実だ。ネオは、ことさら良くできる生徒であることが分かる。なるほど、彼がいかにマトリックス内の世界の欺瞞を見始めたのかを説明する、ネオの生活の特徴がある。ネオは熟練したハッカーであり、彼の経験の全てはそれ自体が高度なコンピュータ・コード以上の何物でもないということを発見するチャンスを、誰よりも持っているのである。彼は二重生活を送ってもいる。彼は、おそらく定収入を維持するため、おそらく彼の反体制的活動のための隠れ蓑として、ソフトウェア・エンジニアとして働いている。会社員の役を演じることが、彼の人生は空しいと信じることを簡単にする不条理な感覚を持つことを可能にしているのかもしれない。不眠症も、この目的に良く合っている。それに、ネオが持つ“この世界には何か間違っている事がある”という直観を持ったことが無い者はいるだろうか?
もちろん、この映画のテーマの1つは“選ばれし者”、すなわち人類の救世主としての自分の役割を受け入れることについてのネオの葛藤である。彼は、オラクルによって告げられる多くの預言の対象となる。18 実のところ彼は、自分の預言が自分自身以外の誰も言及していない唯一の人物である。彼は、モーフィアスが提示した一連の奇妙な手がかりと、それが彼の中に作り出した混乱とを経て初めて、自分の真の本質をよく受け入れる。彼は最終的には、他の人々が彼に演じるよう強く要請する特別な役目についての自分の適性を直接、体験しなければならないのである。
このようにしてモーフィアスは、ネオが独力で真実を発見するために彼が必要とする最初の一歩を踏み出せるようにと、ネオを刺すソクラテス的なアブとして見なされることができる。同様にプラトンによって描かれた、善の実相によって演じられる役の概略は、プラトンが我々に追求させたであろう完全な答への方向性を示しているだけである。このようにしてプラトンは、ソクラテスが彼の対話者に、彼と一緒に魂の探究と世話をする動機として自分たちの無知を認識する痛みを感じて欲しいと願ったのと同じやり方で、読者が自力で思考するように引き込むのである。
洞窟の寓話は、いかにして我々は、自分たちの知識に満足したままで正しい問いを聞くことすら怠り、減殺された展望しか持たない人生を生きているのかという辛辣な課題を出す。これらはまさに、モーフィアスが問いかける質問である。そしてモーフィアスのように、人間の状況についてのプラトンの悲観論は、いかなる者をも自由にする教育の力に対する楽観的な見方に取って代わられる:
そもそも教育と言うものは、ある人々が世に宣言しながら主張しているような、そのようなものではないということだ。彼らの主張によれば、魂の中に知識がないから、自分たちが知識を中に入れてやるのだということらしい。あたかも盲人の目のなかに、視力を外から植えつけるかのようにね……。教育は、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ(518b7-c2, d5-7)。
脚注
1. 『文学と哲学:ブライアン・マギーとの会話』、『実存主義者と神秘論主義者:哲学・文学作品集』第8巻(1998年、ニューヨーク、ペンギン社刊)より。元々は、『マギー、着想の豊かな人』(1978年、オックスフォード、オックスフォード大学出版社)に収録。
2. プラトン著『テアイテトス』(149、a8-9)
3. プラトン著『国家』(532b6-8、c3-6)私がカッコの中に入れて“教育”と呼んだものは、特に、数学、幾何学、天文学、そして調和についての学問である。正しく追求すれば、これらの学問は、感覚を抽象化することを必要とするものであり、「あらゆる意味において、ある者を存在に引きつけるのに非常に適している」(523a2-3)これらの学問は、プラトンの言葉で表すところの正しい種類の哲学的審査である弁証法に対して、我々の心を準備させるのである。
これ以降、私は本文の中に『国家』の“ステファヌス版ページ番号”に準じて引用文を含むことにする。ステファヌス版ページ番号は、『国家』翻訳書のほとんどの、縦の余白に記されていることと思う。例えば、“527d6-e3”は、オックスフォード・クラシカル・テキスト版の、ステファヌス版ページ527ページ、d項の6行目から始まる一節を参照している。私がここで引用した翻訳文は、1992年刊のグルーブ/リーヴによるもので、これが1997年のクーパーによる翻訳にも見受けられる。
4. 私は、ソクラテスという登場人物によって提唱される哲学的立場を、プラトンに属するものとする。この学術的約束事は、いくつかの陣営からは攻撃されているのだが。プラトンは、『国家』あるいは他のどの対談にも決して登場することはない(『弁明』は別だが、そこでも彼は話さない)。従って、登場人物であるソクラテスの観点をプラトンのものとしてごまかすのは図々しいと考える学者たちも何人かいる。我々はイアン・フレミングが、彼が創造した架空のスパイのやり方で、マティーニは混ぜるのではなくシェイクされるのを好むと、勝手に決めつけるだろうか?というわけである。もちろん最初の場合は、飲み物のオーダーを間違えるのより、さらに多くのことが問題となるのだが、これは主に、他の仮説が通常プラトンの熟慮された哲学的観点についてのソクラテスの発言に対する検証を伴うゆえ、本当なのである。懸念の1つは、この検証がプラトンがなぜ対談を書いたのかという疑問に対しての我々の答の範囲を狭めるということである。もう1つの懸念は、それがプラトンが何を適切な哲学理論だと解釈したかということに対する我々の理解を歪めるかもしれないということである。
5. 現代の読者は概してソクラテスに同意する。“信用できない例えと比喩”(クーパー、1977年、143)を「野心があり過ぎる」とか「行き過ぎ」だと呼んでいる人々もいる。『国家』における情景に対し、これまで矛盾が無くもっともらしい哲学的解釈を提供すべく、非常に多くの努力がなされてきた。
6. 私が“話す”と書いたのは、洞窟の寓話は、概して大雑把である善の本質についての説明がなされている唯一の部分だからである。ソクラテスは、善に関しての彼の話は概略的であり(504d6-8)、曖昧であり(cf. 504d8-e3)、物事の真実への近道だと我々に警告し、正確であることを放棄している。善に対する彼の知識の欠如を考えると(505a4-6, 506c2-3, d6-8)、ソクラテスができるせいぜいのことは、話を提供することであって、詳細を論理的に話すことではない。少なくともこれが、彼が完全に明確で道理にかなった弁護ができる説明をする代わりに、“善の子供と利子”(507a3-4)を与えた理由の、公式に述べられた論理的説明なのである。
ソクラテスの知識の否認は、彼が完全に無知であることを意味するわけではない。最も明らかなことに、彼は自分が知らないということを知っているに十分なだけは知っているのだから。彼はまた、善の知識を持っていることは重要であるということも知っており(505a6-b4)、それを獲得するのにどの方法が使われなければならないかということも知っていた。その方法は弁証法である(532a1-d1)。さらに、彼はそれが我々の行動全てで最も重要な、あるいは究極のものであると言って、善についての公式の説明をしている(「全ての魂がそれを追い求め、それのためにこそあらゆる行為をなすところのもの」505d11-e1を参照されたし)。そしてこの前提をもって、彼は善そのものの実質的な説明の候補としての快楽と知恵に反論して、正式な説明を詳細に述べようとする競争者の試みを度外視している(505b5-d1)。最後に我々は、彼が情景と他の“利子”よりも確実な何かを与えるのに熱心になれるかどうかについては確信することはできないが、彼はここで彼が言っている以上のことを言うことができるように思える(506e1-3を参照されたし)。
7. 507b5-7を参照されたし。善いものの真髄は、さまざまな人によって、善そのもの(506d8-e1, 507b5)、あるいは善の実相と呼ばれている。この事は理性が本当に理解しようとするもので、それは私にとって善いものでなければ、“善い××”というものでもなく、それは本質的に善である何かなのである。
8. 周知のように、実相の母集団を数えるのは難しく、プラトンが椅子の実相があると考えたかということを確信はできない。(知性世界において、単独の名前が適合する常識ある世界の事物の全てのグループに対して、実相があるかどうかという)リーヴの論評は、いくつの、あるいはどんな種類の実相があるのかという一般的な疑問に対して有用である。「仮定することと真実とは別々のものである。従って、実相は存在論では放棄されていると見なされているが、本当にそこにある唯一のものは、説明的、構造改革的な目的のために弁証的な考えによって必要とされているものである。普通の言語がここでの最初の言葉であるが、何としても最後の言葉ではない」(1988、294ページ)。最後の言葉というのはあるのだろうか? 前世紀の初めに以下を書いた解説者によると、プラトンが実相という言葉で意味したものでさえ、「非常によく議論されてきた、そして私の意見では、これからも議論されるであろう問題である」(アダム、1902年、169)
9. 知性世界とは、精神だけで知ることができて、五感では感知できない類の物事に対するプラトンの呼び方である。そのリストの中には、数学的、論理的真実や、幾何学的事項、そして誇示されている実相が含まれている(知性世界の事項や解釈を生み出す学問の種類については、上記の注3で言及されている)。
10. “「そうではなくて、彼は、整然として恒常不変のあり方を保つ存在にこそ目を向け、それが互いに不正を犯し犯されることなく、すべて秩序と理法に従うのを観照しつつ、それらの存在に自らを似せよう、できるだけ同化しようとつとめることに、時を過ごすだろう。そもそも、人が尊崇の気持ちをもって何ものかと共に生きる時、そのものを真似しないでいられると思うかね? 従って哲学者は、神的にして秩序あるものと共に生きることによって……人間に可能な限り神的で秩序ある人となる」(500c2-7, c9-d2)
この種の話は、ある人々の耳には、神秘主義、あるいは善そのものは超自然的な性質を持つという見方を奨励するように聞こえるかもしれない。しかし我々は、弁証法こそ善そのものを理解する唯一の道であることと、弁証法は、数学、幾何学、天文学のような学問を勉強してからたった10年後に学習されるということとを思い出した方が良い(537b-c)。実際クーパーは、我々が善そのもののことを“どういうわけか、はっきりと数学的に思いつかれた道理にかなった秩序”であると考えると主張した(1977年、144ページ。クラウト[1992年]も参照されたし)。重ねて書くが、それは善との一体化でもなければ善への併合でもなく、我々が獲得しようと努力している知性的な理解なのである。
11. プラトンの『饗宴』は、周知の通り、実相を理解した哲学者たちの生産力を強調している。
12. その限りにおいて、プラトンは、モーフィアスがネオに対して何度となく、理解するためには自分自身で見なければならないと強調する皮肉を面白く思うかもしれない。プラトンは、ネオの現実に対する変えられた観念を、せいぜい部分的なものであるとしか見なさないであろう。なぜならネオは、知覚で獲得する全ての印象を間違っている、あるいは損なわれていると見なすのではなく、悪い情報源からのものだけをそう見なすよう要求されているからである。
13. アナス(1981年)の157ページ‐259ページでは、彼女がプラトンの寓話をベルトルッチの1970年製作の映画『暗殺の森』と比較する際、この点について述べている。
14. 寓話の中で、囚人たちの鎖は取り外されるが、ソクラテスは誰が、あるいは何がそれを取り外したのかについては沈黙を守っている。彼の言葉は以下の通りである。「では、考えてくれたまえ。彼らがこうした束縛から解放され、無知を癒されるということが、そもそもどのようなことであるかを。彼らの一人が縛めを解かれて、急に立ち上がって首をめぐらすようにと、また歩いて火の光の方を仰ぎ見るようにと強制されるとしよう。そういったことをするのは、彼にとって、どれもこれも苦痛であろうし、以前には影だけを見ていたものの実物を見ようとしても、目が眩んでよく見定めることができないだろう」(515c4-d1)。洞窟は、驚くほど徹底的に監禁を描写する。プラトンは初めから終わりまで、解放された囚人が洞窟から出る途中で出会う困難について意見を述べる。この詳細を考えると、洞窟が現実全体を包含しているのかということを疑問に持ち始めるのはどのような囚人なのか、あるいは、どのような状況が彼の質問を思いつかせるのかということについての詳細な説明を期待するのは、理不尽なことではないだろう。その囚人は、影の劇に矛盾があることに、内部で気づいたのだろうか? それとも、縛られていない囚人たちの1人かそれ以上が、縛めを取り外すことに決めたのだろうか? それについては語られないのである。
15. さらに、解放された囚人は不定代名詞“誰か(someone)”(ティス)として総称的に言及されている。もし、我々が限定されたものを求めたら、我々は、プラトンが意図する一般性を失うことになる。彼が確かに言いたいのは、誰でもが無知の束縛から脱することができるだろうということだからである。
16. 映画は、確実に我々に、この表現の文字通りの意味と平行して比喩的な意味を読ませることを意図している。そして、ネオが比喩的な意味もじっくり考えるというのが、モーフィアスの願いなのかもしれない。何しろ彼のコンピュータ・スクリーン上に現れたほかのメッセージの1つ、“トン、トン、ネオ”は、意識的に謎かけをしているのだから。それは、“そこにいるのは誰?”という問いを誘導しているのである。
17. A錠剤の目的は、ネオの体の居場所を突きとめる助けとなることであるが、彼に対して精神活性効果があることを示唆しているのは明らかである。
18. オラクルは、最終的にはネオに“彼が聞く必要のあった事”、すなわち、彼は“選ばれし者”ではないことを告げる。これは、プラトンが『弁明』の中で描いたような、ソクラテスの神託の説明をひっくり返す。第一に、ソクラテスは直接神託を聞かないが、カイレフォンの「ソクラテスより賢い者はいない」という報告を頼りとする。第二に、自分が自分の行動の主導権を握っていないということを信じるのに不本意であるネオは、オラクルに間違っている事を言われる必要がある。ネオはこれを聞いて満足するので、それを疑問に思う動機は持たない。彼が、人々の待望の救世主ではないことは、極めて信じられることなのだから。それに対してソクラテスの神託は、彼に真実である事を告げるが、そのありそうもない意味合いは、検討され、疑問を呈されることを通して、注意深く解明されなければならないのである。
前述の著作/推奨参考文献
Adam, James. The Republic of Plato. 1902. 2nd Ed. Cambridge:
Cambridge University Press, 1963. ジェームズ・アダム著『プラトンの国家』1902年、第2版発行:ケンブリッジ、ケンブリッジ大学プレス、1963年刊
Annas, Julia. An Introduction to Plato’s Republic. Oxford:
Clarendon Press 1981. ジュリア・アナス著『プラトンの国家 序論』オックスフォード、クレアンドン・プレス,1981年刊
Cooper, John M. “The Psychology of Justice in Plato.” American
Philosophical Quarterly 14 (1977): 151-57. ジョン・M・クーパー著『プラトンにおける正義の心理学』アメリカン・フィロソフィカル・クォータリー誌14号(1977年)151ページ‐157ページ
Cooper, John M, ed. Plato: Complete Works. Indianapolis, Indiana:
Hackett Publishing Co., 1997. ジョン・M・クーパー編『プラトン全集』 インディアナポリス、インディアナ州:ハケット出版社、1977年刊
Grube, G.M.E, trans. Plato: Republic. 2nd Ed. Rev. C.D.C. Reeve.
Indianapolis, Indiana: Hackett Publishing Co., 1992. G・M・E・グルーブ訳『プラトン:国家』第2版、C・D・C・リーヴ改訳 インディアナポリス、インディアナ州:ハケット出版社、1992年刊
Kraut, Richard. “The Defense of Justice in Plato’s Republic.”
In The Cambridge Companion to Plato, edited by Richard Kraut.
Cambridge: Cambridge University Press, 1992, 311-37. リチャード・クラウト著『プラトンの国家における正義の擁護』、『ケンブリッ』版プラトンの手引き』リチャード・クラウト編より ケンブリッジ、ケンブリッジ大学プレス、1992年刊、311ページ‐337ページ
Kraut, Richard, ed. Plato’s Republic: Critical Essays.
Lanham, Maryland: Rowman & Littlefield, 1997. リチャード・クラウト編『プラトンの国家:評論集』ランハム、メリーランド州、ロウマン&リトルフィールド社、1997年刊
Reeve, C.D.C. Philosopher-Kings: The Argument of Plato’s Republic.
Princeton: Princeton University Press, 1988. C・D・C・リーヴ著『哲学の王たち:“プラトンの国家”論』 プリントン、プリンストン大学プレス、1988年刊
|