ネオの自由……ワォッ!
マイケル・マッケンナ
『マトリックス』は、哲学的観念を例証するための卓抜な資源を提供する作品である。『ソフィーの選択』や『シェルタリング・スカイ』を始めとする幾多の優れた映画作品は、哲学的思索に値する主題、あるいは哲学的観念の例証として有用な主題を持っている。だが『マトリックス』が提示するのは、それ以上のものだ。これは『ブレードランナー』や『トータル・リコール』、『ウディ・アレンの重罪と軽罪』、『時計じかけのオレンジ』、『存在の耐えられない軽さ』、そして『トゥルーマン・ショー』などの特別な部類の作品群に含まれるべき映画である。これらの作品は、いずれも哲学を意図しており、映画というものを通じて哲学的主題がどれほど豊かに論じられ得るかを示している。その中でもおそらくは最良の作品が『マトリックス』なのである。
I.
『マトリックス』で最も顕著な哲学的主題が、外部世界の知識についての懐疑論に関わるものであることは間違いない。ネオが住む夢世界は
-- それが現実ではないという事実を除けば -- 極めて快適な“現実”であった。その内部での人生は、モーフィアスが“現実の砂漠”という巧みな表現で呼ぶもの
-- すなわち無数の人間が子宮状容器の中に無自覚で収納されている荒れ果てた地表 -- から人の目を完全に遮断した。だが『マトリックス』において探究される哲学的主題は、それ以外にも多数存在する。一つには自由の概念である。自由については、作品の様々な局面で言及されており、1
誰が何を自由に行うかということは極めて重要であった。例えばネオが青い錠剤ではなく、赤い錠剤を飲む選択を自由に行ったことは重要だ。青い錠剤を飲んでいれば、彼はあの無気力な都市生活者たちが暮らす単調な夢世界に戻っていたのだ。ネオが、結果としてエージェントたちに対する英雄的勝利を収め、作品の最後で人類救済への思いを胸に抱くに至ったあの道を歩むことは決してなかったのだ。それ以外の様々な局面でもネオは自由に選択を行ったが、赤い錠剤の摂取がそうであったように、それらを自由に行うことこそが、それらの選択を重要なものにしていたのである。例えばネオは、モーフィアスのために自らの生命を危険にさらすことを自由に決意した。彼は迫り来る危機から逃げ出す代わりに、洒落たスーツを着た油断ならないエージェントたちの手で、精神崩壊の瀬戸際に追い込まれたモーフィアスの救出に取って返したのである。また、白ウサギを自由に追ってウサギの穴を転がり落ちていったのもネオである。更にトリニティとスウィッチから逃げ出す機会を与えられたときにも、彼は車内に留まった。そうすることで、ネオはエージェントたちと敵対することを自由に選択したのだ。彼は車を降りて -- トリニティから指摘されたように -- どこへ向かうわけでもないお決まりの道を歩むことを、自らの選択で拒否したのだ。車内に留まることを選んだ時点で、ネオは刺激的な未来、刺激的な人生へと続く道を自由に歩み始めたのである。
だがネオの自由のみが重要だったわけではない。自由は他の人間にとっても大きな問題であった。トリニティは謀反を企てたサイファーに対して、全ての反乱の同志たちは赤い錠剤を自由に選択したのであり、それが不当に強いられたものであったなどと主張することは、誰にもできないのだと指摘した。だが、サイファーが自分の選択を悔やむ気持ちに変わりはなかった。彼は自分はだまされたのだと信じており、赤い錠剤を飲むという選択を自由なものとは考えなかった。彼の目には、それは欺瞞と映ったのである。事実、彼は自分を永続的な眠りの中に留める醜悪な容器の“真実”を忘れて、ステーキを味わいながら十二分に満足したマトリックス参加者である方が、より多くの自由を持つと考えていたのだ。
自由はまた、それが取得されていない場合にも極めて重要であった。人工子宮に収納された無数の人々の事例が、まさにそうであっただろう。モーフィアスとその(サイファーを除いた)仲間たちは、自由の欠如に盲目である哀れな同胞たちを犠牲者だと考えた。一日中オフィスの一画で働きながら、彼らはマトリックスでのささやかで地道な人生に満足でさえあるかも知れない -- だがいずれにしても彼らは犠牲者であり、電池駆動のAIどものために電気を生み出す奴隷なのだ。エージェントたちのリーダーであるエージェント・スミスでさえ、自由の価値を重んじていた。彼もまた自らの意志に反した行動 -- すなわちマトリックスに留まって、侵入してくる煩わしい反乱者たちに対処すること -- を求められるという形で、自由を制限されていたのである。モーフィアスに告白したように、彼はそこにいることを忌み嫌い、人間たちの匂いを忌み嫌った。彼は自分を囚われの身であると感じていたのだ。気の毒なことである。挙げ句の果てにエージェント・スミスの自由は、解放されたことで一転してスミスを圧倒し始めたネオによって、劇的に減じられるのであった。
だが勿論、いずれの場合においても自由の概念は分析されないままであり、作品が主張するところの自由を額面通りに受け取るのみである。哲学専攻の優秀な学生なら誰でも承知しているように、(ある種の)自由に対しては、少なくとも一つの重要な点において、あらゆる行動主体が自由であるという考えを損なうかも知れない極めて普遍的な懐疑的挑戦が存在する。自由の何たるかや、それに対する挑戦に理論構造を与えるのは少しだけ先延ばしにして、人的活動の自由 -- 多くの人々が意志の自由と呼ぶ自由 -- に関して、しばしば認められないものの重要な問題をより明確に理解するために、いくつかの所見に目を向けることにしよう。
作品では、一部の者は他の者よりも多くの自由を持っているようであった。モーフィアスのクルーは、初めてモーフィアスと戦うネオを見て驚愕した。未熟なネオファイト(新参者)のネオはとにかく速く、クルーは彼が他の誰よりも速いと思ったのだ。彼らの願いは、ネオが“救世主”であることだった。作品全体に及ぶ聖書的主題の存在は疑いようもなく、また“救世主”がその一つであることも明らかだった。“救世主”とは、聖なる救済者とでもいったものである。この救済者の極めて重要な特性は、その条件を満たす者は誰であれ、マトリックスに入り込むどの反乱者よりも -- 更に言えば、エージェントたちを含めてマトリックスで活動するいかなる有意の存在よりも -- 多くの自由を持つことだ。実際、彼らの願いは、マトリックスにおけるネオの自由が、神のそれのごとき無制限の自由であることだった。従ってネオは、マトリックス内部での自らの能力に初めて慣れ親しみつつあった時点でさえ、トリニティやサイファー、あるいはそれ以外の(モーフィアス自身は別として)モーフィアスの一味の誰よりも多くの自由を持っているようであった。だがマトリックスにおける自由の格差を示す比較は、他にも存在する。ネオやモーフィアスを始めとする全ての反乱者たちは、何も知らずに通りを行き交い、自分たちの家に暮らし、テレビを見たり、職場に通ったりしている全ての人々よりも多くの自由を、マトリックスの中で持っていた。少なくともモーフィアスと仲間たちが見るように、それらの無知なる人々は完全に非自由であった。
作品の終わり近くまで、ネオはエージェントたちよりも小さな自由しか持っていなかった。エージェントたちは己の欲望をほぼ完全に充足させ、他者の身体を乗っ取り、いついかなる場所にも自在に現れ、そして誰がいつどこにいるのかといったことに関する途方もない先見能力を伴って活動することができたのだ。エージェントたちは(マトリックス内部に構築された)自然法則と思しきものを公然と無視した。疾走する電車にはじき飛ばされようとも、彼らは無傷の姿を現わすことができた。マトリックスで普通に暮らす普通の悪党なら、ひとたまりもないところである。エージェントたちは銃弾を受けても動きを止めず、そして他者の口を難なく自在に消すことが可能であった。彼らは全てを意のままに取り仕切っていたのだ -- 少なくとも作品の終盤までは。だがその終盤において、マトリックスで活動する最も自由な行為主体はネオであった。何しろ、自らの真の潜在能力を理解するに至った彼は、電池駆動のロボット悪魔たちをぶちのめし、銃弾を止め、そして……スーパーマンのように空を飛ぶことができたのである。
更にもう一つ、腕まくりして哲学的思索に取り組む前に、極めて重要な問題を指摘しておきたい。作品においてネオが所有したと思われる特別な自由とは、マトリックスの範囲内に限定された自由であった。勿論、同じことはモーフィアスや彼が養成した反乱者たちにも言える。作品を観る限り、ネオやそれ以外の誰かが、マトリックスの外で何らかの特別な自由を持つとは思われない。反乱者たちを追って醜悪な虫たちが飛び交う、あの荒涼たる惑星上の宇宙船においてそうであるように、“現実”世界のモーフィアス、ネオ、トリニティ、サイファー、そして他の仲間たちは、あなたや私と同じく、ごく普通に機能する行為主体としての人間に過ぎないのだ。おそらく現実世界でのネオは平凡な男に過ぎず、それがザ・フーのロックオペラ『トミー』の主人公で、障害を背負った名もない哀れなトミーのように、ひとたびゲームモードに入るや否や、史上最高のゲーム・プレーヤー -- ピンボールの魔術師 -- へと変容するのだ。マトリックスの中では -- すなわち大雑把な話、究極のビデオゲーム機の中では -- ネオは何事にも邪魔されず、ブザーやベルも聞こえず、常にリプレイを得て、そして決して負けないのである。
従って『マトリックス』の終幕において、ゲームを極めたネオはまさに無敵となる。最高じゃないか! ネオがマトリックスの内部で所有するこの自由を無限自由、そしてそれが伴うと思われる特性を最高たる特性と呼ぶことにしよう。そのような驚くべき自由が行使されるのを初めて見たとき -- すなわちモーフィアスが一つの超高層ビルから別のそれへと驚異的な跳躍を見せたとき -- ネオは勿論その究極の自由を実に最高だと感じ、そして驚きの中で、いみじくもその気持ちをこう表現するのであった --「ワォッ!」
II.
無限自由の概念およびそれが内在すると思われる最高たる特性については、本エッセイの結びのセクションでより詳細に論じていく。だが差し当たって“無限”自由のことは忘れて、まずは自由の概念に理論構造を与えてから、更にそれに対する古典的な哲学的挑戦について簡単に考察してみよう。ひとたびこれらの問題が片付いたら、再び作品に戻って、それに対する我々の自然な反応、前述の様々な反応について考察することとしたい。
自由という言葉は様々な文脈で使われるが、その言葉の意味が単一であると考えねばならぬ理由はどこにもない。少なくともこの言葉のあらゆる使用に共通していると思われるのは、望まれる行動を妨害ないし邪魔する何らかの抵抗が、自由の障害になるとしている点である。一般的には、自分にとって望ましい行動を邪魔されずに追求することができない者は自由ではない。だが障害の不在だけでは、明らかにモーフィアスやネオとその仲間たちが求める自由にも、あるいは人的条件に有益かつ特有である自由にも十分とは言えない。マヌケな犬でさえ、ときには邪魔されることなく行動することができる。例えばひもを外されるとき
-- すなわち自由にしてもらうときである。極めて基本的な意味での自由ではあっても、マヌケ犬のそれは哲学者や神学者、政治家、倫理学者、あるいはごく普通の志高き人に安らぎを与える類いのものではない。全く違うのだ。語るに値する自由とは、個人に特有なものであると思われ、そしてこのことは、自由の概念を正しく理解するには、まず最初に個人の何たるかを理解する必要があることを示唆している。
残念ながら、個性を考察することはこのエッセイの本来の目的ではない。だが映画『ブレードランナー』を観たことのある人間であれば、個人を非個人から分かつと思われるものを認識するために、その主人公のデッカードと、彼が愛したレプリカントのレイチェルについて思索することができる。デッカードは(おそらく)人間であり、またレイチェルは人を模した人造レプリカントであったが、両者は共に個人であった。2
二人は人生を計画し、近しい愛憎関係を育て、彼ら自身の人生や他者の人生を気づかい、また慈しむことが可能であった。二人には抽象的思考や他者への情動反応、そして自意識などの能力が備わっていた。J・F・セバスチャンの友達となる原始的な小型AI機械たちのように、発達の度合の低い認識生物の場合は個人ではなかった(J・F・セバスチャンも『ブレードランナー』の登場人物である)。あるいは、個性に関するそれ以外の明解な例証を他の映画作品に求めるなら、スピルバーグの古典である『E.T.』の表題キャラクターは個人であり、また『スター・トレック』シリーズに登場するデータは個人だが、E.T.もデータも人間ではない。従って我々の議論に関して言えば、ネオ、モーフィアス、トリニティ、そしてエージェントたちは全て個人である -- ただしエージェントたちは、E.T.やデータ同様に人間ではないのだ。
仮に自由という言葉を個人に適用されるものに限っても、二つの千年期を通じて大いなる哲学的関心の焦点であり続けた少なくとも二つの自由が存在する。一つは政治的自由であり、もう一つは意志の自由として理解される形而上的自由である。政治的自由とは、政治構造の中で自らが適当だと考える行動をする個々人の自由だ。政治構造の特性については、それ自体が論争の的である。政治的自由と密接に結びついた構造とは経済的な力を含むのか? あるいは、それは単に禁制の害悪に脅かされることなく発言する自由や、誰もが望むままに結社する自由など、しばしば市民的自由と呼ばれるものを含むに過ぎないのだろうか? 最終的にどういうものであれ、政治的自由は確かに極めて重要な自由であり、モーフィアスがそれを人類にとり戻そうと奮闘していたことは間違いない。少なくともモーフィアスと同志たちはそう考えた。だが作品がより直接的に我々の注意を促す自由とは、政治的自由ではなく、形而上的自由 -- すなわち意志の自由なのである。
自由意志のトピックに目を向ける前に、意志とは何かを訊ねてみる価値がある。これもまた非常に大きな論争の的ではあるが、意志とは自発的かつ意図的な(すなわち目標に向かっての)行動の源である生物の、精神状態の一つの局面だと考えるのが自然である。従ってあらゆる行為主体 -- すなわち犬、猫、チンパンジーなど行動するあらゆる存在 -- は意志を持つのだ。考察に値する哲学的珠玉は、意志を自由にするのは何かということであり、とりわけ唯一無二の行為主体 -- すなわち個人を自由たらしめるのが何かということである。
一点だけ注意しておきたい --“形而上的自由”という表現は、しばしば主に哲学の門外漢である理論家たちによって、人的条件に関する行き過ぎた見方(形而上的自由が、物質界を超越する能力や、自然法則や物質界の束縛に制限されない選択行動能力を個々人に与えるといった見方)とばかり結びつけられて嘲笑的に扱われる。またいくつかの自由意志理論が、自由に行動する個々人には常に‘ごく小さな’奇跡を行う能力が備わっているのだと論じる一方で、3
一点だけ注意しておきたい --“形而上的自由”という表現は、しばしば主に哲学の門外漢である理論家たちによって、人的条件に関する行き過ぎた見方(形而上的自由が、物質界を超越する能力や、自然法則や物質界の束縛に制限されない選択行動能力を個々人に与えるといった見方)とばかり結びつけられて嘲笑的に扱われる。またいくつかの自由意志理論が、自由に行動する個々人には常に‘ごく小さな’奇跡を行う能力が備わっているのだと論じる一方で、3 形而上的自由が選び出す必要のある表現は全て、個性に特有なもの、すなわち個人の意志に特有な性質であり、おそらくは個人たることの本質の一部であるところのものだ。この自由についての理解は、まさによりどりみどりの状態なのだ。よってこれを明記しておく -- 形而上的自由もしくは意志の自由の概念への言及は、何らの不可思議をも伴うものではない。ダーウィンや神経生物学者たちの探究精神に反するものは、一切含まれていないのだ。結果的に、自由意志は奇跡をもたらす特別な活動特性を一切含まないこと、そして形而上的自由は、あらゆる個人が彼らの遺伝的性質、彼らの環境、そして彼らに影響を与える一切の物理的原因の完全な所産であるとした個人の収縮的見解と完全に一致することになるかも知れない。とは言ってもその一方で、真面目な哲学的考察が、自由意志の概念は収縮的見解の偽りを示唆するものだと論じる可能性にも留意しておかねばならない。だがここで極めて重要なのは、形而上的自由もしくは意志の自由という言葉が、何か気味の悪い、不可思議な、この世のものでない、あるいは最良の自然科学によって原則的に説明不可能なものを含んだりはしないということである。
III.
いかなる論にも偏らない中立的な自由意志の描写は、次のようなものである:
自由意志とは、自らの選択と行動を通じて未来を支配する個人の能力である。
自由意志に関するいかなる特定の思索にも偏らない希薄な定義である。勿論これは最初の通過点に過ぎず、更なる精錬が必要なのは当然だ。この問題で最も重要なのは、未来を支配する能力をいかにして最大限に明確化するかという点である。この自由意志の描写を、より明確に表現する二つの方法を考察してみよう。
多くの哲学者たちに倣って、個人が意志の自由を伴って行動するのは、彼女が行動する時点で得られる代替行動が存在する場合のみだと仮定するのは、極めて自然なことである。このような仮説においては、個人の意志の自由は、部分的には彼女があらゆる選択肢を支配していることに存する。つまり異なる一時的な進路を開くことで、彼女に異なった展開をする未来、異なった方向へ向かう人生を認める選択肢である。トリニティとスウィッチから逃げ出す機会を与えられたネオが、車内に留まる選択をしたときのように、この自由の図式は作品の様々な局面で強調されていた。ネオがモーフィアスの救出に戻ってエージェントたちと戦うことを選んだときにも、この自由の図式は際立っていた。ネオにはそうする代わりに、死は免れない(と思われた)モーフィアスを見捨てることもできたのである。
従って自由意志を促進する一つの方法は、代替可能性によるものである。だが自由意志を理解するための方策、代替可能性への要求と連繋して -- あるいはしないで -- 機能する方策は、それ以外にも存在する。例えば自由意志に関するもう一つの考え方は、何が起こり行為主体が何を行うかに関するものであって、彼女がするかも知れないもしくはしていたかも知れない他の行動に関するものではない。これは代替可能性に焦点を合わせる代わりに、行為主体の行動の源に注目する理論立てである。このアプローチにおいては、自由意志による行動は、行為主体自身の一つの特徴から発生する。すなわち行為主体である彼女こそが、未来がいかに展開するかということの源だという特徴である。自由意志を持たない行為主体の事例を考えて欲しい。例えば不本意ながらも薬物中毒に陥った者は、常習する薬物を意志の自由によって摂取するわけではない。摂取への常習的欲望は非常に強く、例え不本意であろうとも、彼女はそれを摂取せざるを得ないのだ。彼女は自分自身の欲望に強いられた薬物摂取を望まない。だがどのみち彼女はそれを摂取する。未来は彼女自身が望むようには展開しないのだ。これに対して、ときに適切に機能する個々人は、まさに自分たちの望むままに(“自分たちの望むままに”をどう理解するにせよ)行動する。その際全て順当であれば、未来は彼らが望むように展開するが、そのように展開するのは、一つには彼らの行動がそのような展開を引き起こすからなのだ。それ故にごく基本的な意味において、これらの普通に機能する個々人が邪魔されることなく行動するときには、彼らは未来がどう展開するかを導いているのである。彼らこそが一定の事象を生じさせ、また自らの活動を通じて未来を一定の方向へと形作るのだ。彼ら自身が未来に対する支配の源なのである。モーフィアスとネオが、そのような自由の見方を例証したこともまた明白である。彼らは明らかにいくつもの局面において、自分たちの未来がどのように展開していくかということに対する“支配”の源であった。モーフィアスとネオ、そしてその他の反乱者たちは、マトリックスの内と外で成功を収めていた。エージェントたちには大変無念なことに、モーフィアスとそのクルーは、一定の事象がどう展開していくかということに対する支配の源であったのだ。
最後にまとめると、もし我々が自由意志を、自らの選択と行動を通じて未来を支配する個々人の能力だと理解するなら、この未来に対する支配の概念を更に発展させるであろう二つの方法が存在する。一つは代替可能性の支配に関するものであり、もう一つは個人自らが未来の方向性の源として、世界における事象の真正の形成者もしくは起因者となることに関するものである。
IV.
自由意志の概念がどのように論じられるにせよ、あらゆる個人がそれを所有するという考え方に対しては古典的な挑戦が存在する。特に一部の哲学者たちは、もし宇宙が完全に決定しているのであれば、いかなる個人も自由意志を持ちはしないと考える。宇宙が決定しているとの示唆は、判明かつ論議を醸す哲学的論題である。現今広まっている決定論の定義を大雑把に言うと、過去が自然法則と相まって、唯一無二の未来を因果的に保証するというものである。この定義を正しく認識するためには、過去とは何か(あるいはその事実)、因果的に保証するとはどういうことか、等々の評価が必要である。だが一般概念としては、個人もしくはその個人の意図的活動の特性と無関係な世界の状態(おそらく、彼女の誕生に先立つ世界の状態)が、自然界を統治する(物理学、化学、生物学などの)法則と相まって、その個人のいついかなる行動をも完全に確定するというものだ。乱暴な話、個々人および彼らの行為は、神経生物学的機能や環境からの影響など、遺伝的、生物学的に徹底して説明されるのだろうか? 更に乱暴な話、あらゆる人間の行為は純粋に氏と育ちの問題なのだろうか? それとも決定論は偽りで、これらの影響だけでは個人がいついかなることをするかは正しく説明できないのが実情だろうか? もしそうでないなら、自分がなぜ自分が行うことを行うのかを説明するこれらの要因に対して、個人は何らかの貢献をするのだろうか ?
非両立説論者は、もし決定論が真実であれば、誰も自由意志を持たないと考える。誰一人として、自分の未来を支配することはできないのだ。なぜならそれを実際に支配しているのは、言わば宇宙であり、個々人とその行為は自然の力が機能するための導管に過ぎないからである。宇宙はある人々を一定の行動へと導き、そしてまた別の人々を異なる行動に導く。未来を誘導しながら人生の舵をとるのは個々人ではない。彼らは宇宙の所産なのであって、そこで自由に動く行為主体ではないのだ!
自由意志の概念を展開する前述の二つの方法に目を向けた非両立説論者たちは、どちらの場合も決定論的世界の仮定とは相容れないと論じる。自由意志の概念が、代替可能性によって展開すると仮定しよう。もし決定論が真実であるならば、そしてもし個人の意図的活動とは区別される事実が、自然法則と相まって、行為主体の意図的な行為がかくかくしかじかとなることを必要とするなら、行為主体にはかくかくしかじかを行う以外の自由はない。彼女は支配を行使する選択肢を何ら持っていない。彼女の過去と自然の力は、すでに彼女が未来へ向けてどの道を進むかを定めているのだ。
あるいは自由意志の概念が、世界がいかに進むかということの実際の源が行為主体であることによって展開すると仮定しよう。もし決定論が真実であるなら、いかなる個人の誕生にも先立つ事実が存在し、それは自然法則と相まって、未来がどう展開するかについて十分な条件を提供するのである。個人の活動は、決定論を前提とするなら、すでに発動されているものの導管、つまりは進行役に過ぎないのだと思われる。結局のところ、個人は自分の行動の源、すなわち展開していく未来の支配者ではないのだ。確かに、ときに未来は個人が望む通りに展開し、ときに彼女の欲望は、それがそのように展開する原因に関係する。だがその彼女の欲望を始め、彼女の確信や価値判断、彼女の行動の動機づけといった要因自体は、詰まるところ全てが彼女からではなく、決定された宇宙およびその結果として展開する未来から発せられるものなのだ。
最初こそ不可解に思われるものの、両立説論者は、例え決定論が真実であっても個々人が自由意志を持つことは可能だと主張する。一部の両立説論者は、自由意志が代替可能性を必要とするとの考えを受け入れて、決定された個人が、なおも何らかの意義を伴って自らが行う以外のことを行う能力を持つ可能性と示そうとしている。他の両立説論者はまた、行為主体が未来の実現に関して、自らの動機づけによってなおも実際の源となり得ることを強調している。4
V.
作品においては、両立説と非両立説との間の緊張状態が様々な形で登場する。一つは運命の考察に関するものである。もう一つは、予言者の予知能力に関するものだ。更にもう一つは“奴隷”となった哀れな人類の状態についてである。
日常の会話においてもそうであるように、作品では運命という言葉が、じっくり考えれば明確に識別可能だが混同しやすい二つの異なった使われ方をしていることに留意すべきだろう。ときに運命は、決定論が意味するところのものと同じに使われる。作品の中では、明らかにこの使用法が主たるものであると思われる。この用法を前提とすると、何事かが運命づけられているということは、それが事前の条件によって因果的に保証されているということである。この考え方は、人の行為が因果的に保証されたものの重要な要因であることと完全に合致する。だが異なる解釈においては、もしある結果が運命づけられているならば、人が何をしようともそれはいずれ起こるのである。この見方においては、人の活動は無用の要因だ。人が何をするかに関係なく一定の未来は発生する。その標準的な事例がオイディプスの物語だ。父親を殺して母親と交わるというオイディプスの悲惨な運命は、いかなる人間がどのように違った行動をとったとしても、神々によって避けようもなく手配されていたのである。
これら二つの概念は極めて異なったものである。一例を挙げよう -- もしケネディがあの日に暗殺されることが、何者の行為とも関係なく運命づけられていたとすれば、リー・ハーヴェイ・オズワルドが(誰も暗殺しないことを含めて)何を行おうとも、ケネディは(誰かに)暗殺されていた。だが、もしケネディが暗殺されることが、決定されているという意味でのみ運命づけられていたのなら、まさにオズワルドが何をするのかということは極めて重要であった。彼が彼のしたことをしていなかったなら、ケネディは撃たれてはいなかったのである。運命に関する一つの考察は、現在もしくは未来において、いかなる個人が何を行おうとも、一定の未来は展開するのだと論じる。もう一つのそれは、まさに現在もしくは未来において生起すること(特に人々が実際に行うこと)に基づいて、一定の未来は展開するのだと論じる。概して哲学者たちは、運命論という言葉を前者の概念に、そして決定論という言葉を後者のために用いる。だがこの作品を分析する上では、“自分が何をしようとも”的運命論と、決定論的運命論という区別を用いることにしたい。5
ネオとモーフィアスが初めて出会ったとき、モーフィアスはネオに運命を信じるかと訊ねた。ネオの返答は、自分が自分の人生を支配していないという考え方が嫌なので信じないというものであった。作品のこの時点においては、モーフィアスの言う運命の意味やそれに対するネオの理解が、前述の二つの概念の間で曖昧なままであったことに留意して欲しい。これはなぜなら、もし人生が“自分が何をしようとも”的運命に従属するとなれば、運命づけられた結果に対する人の支配が損なわれてしまうためである。従ってネオの返答は、人生は“自分が何をしようとも”的に運命づけられているのだとする示唆に対するものであったかも知れない6
おそらくネオが運命論に関して不快に感じたのは、世界における自らの活動が -- 彼が何を行おうとも -- 世界の結果に何の影響も与えないという考えであっただろう。実際、マトリックス内部で奴隷となった人間たちの生き様は、まさにそのようなものに思われた。彼らがそこで何をしようと、AIどものために電気を生み出すという彼らの貢献には何の影響もないのである。だが、例えこれがモーフィアスとの最初の会話で、ネオが意味したものであったとしても、作品の後半においては、彼が決定論的運命論をも拒否したいと考えていたことは明らかだ。ネオは、決定論的運命論が世界に対する自らの支配を損なうという意識を明確に持っていた。彼の懸念が代替可能性の形式にあることは、様々な局面において明らかであった。彼は、自分の行く手にある可能性としての複数の未来のいずれが必然となるかを、予言者が知り得るという考えに抵抗した。彼はその未来が何であるか
-- 彼が救うことを選択するのはモーフィアスか、それとも彼自身なのか -- は、自分次第であると考えたのだ。だがネオは支配の源の模式についても考えているようであった。彼は、自分の行動があらかじめ定まっているとは考えなかった。それを定めるのは彼なのだ! 予言者はネオに別れを告げながら、その彼の気持ちを代弁した。どうやらネオは非両立説論者であったようだ。
ネオがこの作品における非両立説論者だとすれば、モーフィアスは間違いなく両立説論者だ。彼は未来が決定論的に運命づけられていること、そして救世主が現れることを予言者の告げるままに信じた。だが同時に彼は、自分や他の人々の行動が、その結果にとって極めて重要であるとも信じた(よって当然“自分が何をしようとも”的運命論を認めなかった)。更に重要なのは、彼が人々の行動は自由意志によって為されることが極めて重要であると信じた点であり、それ故の青と赤の錠剤なのである。彼の考えは、ネオへの助言においてとりわけ明確であった。支配の源たることに関して、モーフィアスはネオに、自分が救世主であると知るだけでは不十分なのであって、自分が救世主であらねばならないのだと説明した。つまりネオはその特別な個人の実際の源でなければならず、それは世界における彼の実際の行為の問題であって、彼が単に概念的に理解する何かではなかったのだ。
では予言者自身はどうだろうか? 予言者が実際には未来を予見できないのではないかという印象を正すために、モーフィアスはネオに対して、予言者には自分の予見したものをネオに正しく告げる意図はないのだと話す。彼女が意図したのは、ネオが聞くべきもの(それが分かるのは、勿論彼女が予言者だからである)のみを告げることであった。もし彼女がネオは何を聞くべきかを判断したのだとすれば、予言者は明らかに、彼の行動が未来のあり方を左右すると信じていたのだ。もしそうなら、彼女もネオやモーフィアスのように“自分が何をしようとも”的運命を信じなかったことになる。だが予言者である彼女は、少なくとも決定論的運命論が真実である可能性を考慮してはいただろう。彼女がそれを信じていたとしよう。彼女は両立説論者だったのだろうか、それとも非両立説論者だったのだろうか? 彼女は非両立説に則って、未来を形作るためのあらゆる人間の苦闘は、決定論的に運命づけられた長い歴史によって設定された非自由的な行動だと信じたのだろうか? それとも両立説に則って、ネオの英雄的奮闘を、決定論的に運命づけられながらも、ともかく自由意志によって為されたものとして予見かつ理解したのであろうか? 逆に、予言者が決定論的運命論を信じなかったとしよう。おそらく彼女は宇宙は根本的に不確定であって、過去ないし現在のどのような事実も、未来が向かわねばならない特定の方向性を保証するものではないと考えただろう。もし彼女がこれを信じていたとすれば、予言者は自らの予言の根拠をどのように理解したのだろうか? おそらくネオの行動を予見する中で、彼女は彼の行動を自由意志によるものと解釈し、また未来の行為を予見する自らの力を、決定論の虚偽性に完全に則ったものとして理解したのだ。7
作品は予言者の意図に関する解釈を特定することはせず、あらゆる可能性を残したままにしている。
ここで全く異なる問題、奴隷化された大衆の状態について考えてみよう。ネオやモーフィアス、それに予言者などの登場人物たちとは違って、それら大衆が自分自身の自由意志について信じることや、運命について思うところを訊ねるのは的外れであろうと思われる。彼らは、マトリックスの外で起こっていることを知らないのだ。『トゥルーマン・ショー』の主人公トゥルーマンそのままに、巨大な子宮に閉じ込められた哀れな世間知らずの彼らは、自由意志論争で用いられる極めて特殊な究極的実例である。非両立説論者は、両立説論者による支配の諸概念に複雑な操作事例で挑むことを好む。非両立説論者たちの戦略は、個人の行動様式が操作されるという非常に厄介な筋書きをでっち上げることである。勿論、彼らがやろうとしていることは、あなたや私の考える普通の人生と区別できないほど巧妙な操作を作り出すことだ。そのような事例は直観的に、操られた個人は行動の源を汚染されているので自由ではないという反論を導き出すことになる。彼女の活動の源は、彼女ではなく何か別のものなのだ。続いて非両立説論者は、自らの過去および自然法則によって決定された個人は、その突飛な筋書きにおいて操られた個人と何ら変わるところがないのだと論じる。つまり、あなたや私のような個人が自由でいられる唯一の方法は、自分が決定されていないことなのだ。決定された個人は操られた行為主体と同程度に自由でないのであり、つまり全く自由でないということだ。
これらの操作事例は、隠在的非強要支配(CNC)事例として知られている。8
両立説論者は二つの方法でCNC事例に反論する。一つは、操られた行為主体が非自由であることを否定するものである。その操作が十分に緻密なものであり、 また人生を過ごしている個人の普通の機能を正確に模する限り、実際には彼女は、決定された個人と何ら変わるところはないのだ。だがこれは問題ではない。なぜなら操られた個人は、自由意志を持った個人だからだ。単に彼女の行動原因が、普通に機能する個人の原因よりもはるかに奇妙であるに過ぎない。これがサイファーの見方であったことに留意して欲しい。事実、彼にとってマトリックスとは、あの不愉快な惑星で得られるよりも多くの自由を与えてくれるものだった。肉汁たっぷりで美味いステーキの食感をもたらすのが何であれ、彼がそれを気にしただろうか? 現実であろうが架空であろうが、彼はとにかく味の良いステーキを食べたかっただけなのだ!
他の両立説論者は、因果的に決定された個人と操られた個人との間には、重大な相違があることを明らかにしようと試みる。一般的に、その相違は個人をその個人たらしめている歴史に関係する。もしその原因が不適切なものであれば、そのときは彼女はどうかすると本物でないということになる。世界に真に関与しているのは彼女ではない。他の何者か、もしくは何事かが、彼女のために価値観や原則などをお膳立てしているのであり、彼女はそれを使って世界の中でどう行動するかを決するのだ。これこそが、マトリックスに対するモーフィアスの不満の根本であったのだと思われる。モーフィアスが初めてネオを説得したとき、ネオを駆り立て、自分の現実について何かがおかしいと感じていないかと訊ねながら、彼が伝えようと努めたのは、マトリックス内部での人的活動には瑕疵があるということであった。その因果の源は、マトリックス内部の個々人が是認する以外の目標もしくは要求を定めるように設計されていたのだ。従って彼らの心は隷属化されており、例え夢世界の中で一定の事柄を行う彼らがある意味“自由”であったとしても、彼らは自分の人生が最終的にもたらす到達点の源ではなかったのである。
VI.
ここまで述べてきたあらゆる考察が、『マトリックス』がいかに様々な方法で、自由意志論争に真っ向から取り組んでいるかを示している。だが自由意志に関するいずれの見方が正解であり、それはどのように特徴づけられるべきなのだろうか? 両立説論者と非両立説論者との間の哲学論争は、哲学における積年の問題の一つであり、おそらくは今後もそうあり続けるだろう。その理由の一つは、これが明らかに“頭のいらない”問題ではないことだ! 道理をわきまえた人々は、この問題の正しい解決法について意見を異にしてきた。そして、これがすぐにも変わると考える理由は何一つない。事実、この論争に関して今日最も影響力のある理論家の一人は、少なくともこの問題を系統立てて論じていく一定の方向性において、両立説論者と非両立説論者との間の論争は弁証的な膠着状態に行き着くだろうと示唆している。9
弁証的膠着状態が発生するのは、道理に基づいた論争において、対立する二つの立場がそれぞれ筋の通った説得力のある議論を続けながら、やがて議論が尽き、いずれの側も相手側の視点の妥当性を決定的に退けたとは主張し得ない時点に達するときである。
自由意志の問題が結局は弁証的膠着状態に陥る運命にあるのか、それとも2,500年以上に渡る不一致を解決する何らかの方策が見つかるのか、私には勿論分からない。だがこの論争に関して私が一つ強調したい点は、もし人的経験の現象学が -- 普通に機能する個人に対してもそうであるように -- いずれの立場に対しても決然として証拠を提供していないという事実がなかったなら、この論争はここまで続きはしなかっただろうし、そこから弁証的膠着状態が起こることもなかったであろうということだ。我々がいかにして自らの人生を、そして自らの活動を経験するかということは、非両立説論者の立場を踏まえて、自由意志に必要な支配が架空のものであり、我々が決定された創造物であるとすることと合致する。あるいは、再び非両立説論者の立場を踏まえて、我々の経験は自由意志に必要な支配が確かなものであることと合致し、ある意味それは決定論の虚偽性を求めるものとなる。最後に両立説論者が考えるように、我々が自由意志を所有していることや、我々が決定されていることも我々の経験と合致するものである。
VII.
『マトリックス』の功績は、これが自由意志に関する特定の視点を是認するものではない点にある。これは両立説支持の作品でも、非両立説支持の作品でもないのだ。いくつかの著しい例外を除けば、作品の自由意志に関する考察は人的活動の現象学を反映している。我々の現実の人生においてもそうであるように、人生がどのように経験されるかということは、自由意志に関して両立説論者と非両立説論者のどちらが正しいのかという問題を過小決定する。私がここで「著しい例外を除けば」としているのは、ネオやモーフィアスと他の反乱者たちの、そしてAIエージェントたちの行動には、明らかに人的活動の現象学を一切反映しない局面が存在するからだ。最後にこれらの相違点に目を向けてみたい。
自由意志論争において、あらゆる立場の人間が共有する一つの仮定は、行為主体がどのような自由を取得していようとも、またそれが決定論の虚偽性を要求しようとしまいと、行為主体の自由意志は、驚異的な奇跡を起こすためだけに実際に自然法則を虚偽のものとし、もしくは一時停止させるという彼女の能力の中には存在しないというものである。だがマトリックスにおいて、ネオが取得するに至った支配は本質的にはそういうものだ。勿論、彼ほどではないにせよ、それはトリニティやモーフィアスについても同じである。事実モーフィアスはネオに対して、夢世界の規則を、曲げることも完全に破ることも可能な単なる申し合せ(プログラムの規則)として考えるようにと助言さえした。ここで一部の哲学者からは、マトリックスでのあらゆる規則が、自然法則であると同時に破り得るものであるとする描写には、概念的な問題があるとの反論が上がるかも知れない。だがこれは些末な問題であろう。作品において繰り広げられる思考実験に関する考察から得るものは、はるかに大きいに違いない。
哲学の歴史の様々な時点において、幾多の著述家たちが自由意志の明解な説明を試みたが、それらは嘲笑され、空想的ないし矛盾したものとしてたちまち斥けられた。10
自由に関するそのような見解に向けられた様々な批判は、全て的確であったかも知れない。だが自由の概念的妥当性がいかに哲学的に却下されようとも、それを望む根本的な部分を傷つけることはできい。マトリックスでのネオの自由は実に突飛で、まるでマンガか何かのように思えるかも知れない。だがその映画的魅力の源は、極めて素朴な意味において、世界における行動主体としての我々の誰もが、因果的可能性の限界に挑むことの何たるかを承知していることである。もし我々が一斉にその束縛を受けることなく行動できるとしたら、それがどれほどの解放の源となるかを誰もが理解しているのだ。無論これは夢が果たすべき役割なのだが、夢の始まる場所を知ることは、しばしば現実の人生の限界や価値を正しく認識するための一助となるのである。
そこで私は最後に、マトリックス内部で行使されるこの究極の空想的自由に関する二つの所見でこのエッセイを締め括ることとしたい。エッセイの最初のセクションにおいて、私はマトリックスにおける行動主体の自由には格差があること、そして少ないよりは多い方が望ましく思われることを指摘した。事実、私は作品の最後でネオがマトリックス内部における無限自由を取得したこと、そしてそれが最高であったことを示唆した。だが、無限自由は最高だろうか? 我々は誰しも自由の価値を重んじており、またそれはほとんどの人間に安らぎを与えるかのように見える。だが私は無限自由は最高ではなく、一旦手に入れてしまえば、もはやそれを行使する人間がネオのように「ワオッ!」と声を上げることもないと考える。なぜなら人の行動に見られる最高たる特性は、人が自分にできることの限界に立ち向かうとき、自分に課せられた限界に立ち向かうときに現れるからである。プレイすることの喜びを知っていれば、誰でもこれを理解できるはずだ。バスケットボールをシュートすること、ライナー打球を捕えること、スキーで急斜面を滑降すること、バイクでターンを決めること、あるいは他の一群を背後に一着でゴールインすること -- これらは全て失敗の可能性を内在し、また自らの能力の限界に迫る努力を要求する。無限自由は、そうしたものを何ら必要としないのだ。
意外に思われるかも知れないが、私は無限自由に満ち満ちた人生など最低だと考える。それは死ぬほど退屈で、ほとんど何も起こらない単調なものであろう。エージェント・スミスとの最後の対決で、相手の拳を完璧に遮ることの容易さを理解したネオが見せた、あの全くの無表情を思い出して欲しい。彼は自分の身を守る一方で、「やれやれ」とばかりにあくびをしながら新聞を読むことさえできただろう。もし人生における人の努力が、全てこのようであったとしたらどうだろうか。これを、ネオがまだ望むものを得るために奮闘しなければならなかったときの -- すなわちモーフィアスを救うためにヘリコプターから跳躍したとき、あるいは銃弾の雨を大車輪でかいくぐりながら敵を殲滅したときの -- 彼の気迫や情熱と比べてみて欲しい。もしネオが意志の力だけで全ての銃弾を空中に静止させたり、モーフィアスの地上への落下を防ぐことができていたならば、それらは全て、実に平々凡々としたものであったに違いない。
ここに大いなる皮肉がある -- 無限自由や夢世界に対する我々の渇望は、我々がそれを持たないからこそ生まれるものなのだ。自らの限界に立ち向かい、ときには失敗するからこそ、我々はその限界を突き破る力を切望するのだ。だが、もしそのような究極の力を持ったなら、我々は自分たちが素晴らしいと感じる活動への一切の興味を失うだろう。従って、我々の人生における自由の価値とその位置づけは、ある面では我々がそれを持たないことによって機能するように思われる。このようにして自由の価値に関する考察を後押しするのもまた『マトリックス』のような作品の功績なのである。
最後の考察は、我々が自由というものに割り当てる価値にも更なる光を投ずるものである。ネオがマトリックス内部で最高であり続ける方法を発見できたと仮定しよう。ネオは途方もない選択に直面することになる。彼はマトリックスの破壊に尽力すべきなのだろうか? その内部における彼の無限自由は絶大である。その可能性を想像して欲しい。夢世界の彼は実に大きな存在であり、実に多くのものを持ち、実に多くのことを為す。彼はそこにいる他の人々に、大いなる喜びをもたらすことができるのだ。だが自分が現実世界で行っていることを知る彼に、はたしてマトリックスを真剣に受け止め、その価値を重んずることができるのだろうか? おそらくあなたは、ネオは自分の力が驚異的であるマトリックス内部に留まるべきだと考えるだろう。もし彼がその代わりにマトリックスの破壊を試みるなら、彼は全ての力を失い、解放された人々に対しても闇に包まれた不毛の惑星しか与えられなくなってしまうのだ。おそらく人々はサイファー同様にその世界を忌み嫌い、ネオを神の如き解放者としてではなく、自分たちを夢世界の相対的理想郷から現実の人生という地獄に引きずり込んだ悪鬼として恨むだろう。あなたがこうした理由から、ネオはマトリックスに留まって神となり、他者のために可能な限りの善を為す方が良いと考えるとしても、それでもあなたはまだその考えに躊躇するに違いない。私自身はネオが何をすべきなのか、あるいはもし私が彼だったらどうするか、確信を持てずにいる。だがもしこの選択に何か問題があるとすれば、それは少なくとも一つには、これが偽りの形をした人生だからであり、その人生がある種の自由を重んじるために真実を犠牲にし、現実の世界との実際の関わりを犠牲にするものだったからである。これは自由に対する行き過ぎた評価ではないか? 自由を重んじるあまり、人生におけるそれ以外の大切な要素を犠牲にしてはいないだろうか?
子供の頃、祖父のポピーに連れられて釣りに出かけたことがあった。その日、私はどうしてもマスを釣りたかったのだが、実際には全くの不首尾であった。そこでポピーは、自分で釣った魚を糸につなげたまま少し上流で放すと、私に自分の釣り竿が引かれていると思わせてから、それを“釣り上げる”のを手伝ってくれた。私はもう大喜びで、それはポピーも同じだった。私がどうやってあの厄介なマスを釣ったのかを祖父が話してくれたのは、それから何年か経ってからのことであった。私の一生が、そうやって釣った魚や、そうやって収めた成功の人生に過ぎないとしたらどうだろう。確かにポピーは私のあのささやかな瞬間を喜んでくれたが、だからといって私にそんな偽りの人生を望みはしなかっただろう。人類のためにマトリックスの中だけのより良い人生を望むことは、例えそれが全ての人々に気の利いた数々の自由を与えるものであったとしても間違ったことであるだろう。その間違いを部分的に説明するのが、それはあたかも全人類の成し遂げたことが全て、私の釣り竿の先に結びつけられたあのポピーの魚のようであることを願うのに等しいという事実である。それは、ほんのひとときの夢においては好ましいものであるだろう。だが、それ以上を望むのが我々人間なのだ。我々は自分の魚を釣ることを望み、我々は現実の魚を釣ることを望む。それ以外のことを望むときには、我々は映画を観に行くのである。
脚注
1. 読者諸氏はすでにこの作品を観て、その登場人物や、基本的な筋書き、そこで起こる様々な出来事などを承知しているものとして話を進めたい。
2. デッカードが“おそらく”人間であるとしたのは、作品中に彼がレプリカントであることを暗示する箇所がいくつかあるためだ。
3. 例えば、自由意志の考察において、哲学者ロデリック・チザムは次のように書いている:
……もし私の言わんとしていることが真実であるなら、我々は神にも匹敵する大権を有しているのだ。我々が行動するとき、その原動力は我々自身であって、何かに動かされているわけではない。我々が行うことを行う際に、我々は一定の事象が起こる原因となり、何事も
-- あるいは何者も -- 我々がそれらの事象が起こる原因となることの原因となるものではない。(Chisholm, p. 32, Watson,
ed., 1982 からの引用)
このかなり過激な見解にもまた注意が必要だ。チザムは自由意志を持った自存の個々人に事象の原因となることを許す“奇跡”が、壁を溶かし、飛行機を墜落させ、銃弾を宙に静止させることのできる奇跡に達するとは主張していなかった。
4. 自由意志に必要なのは後者の支配概念のみなのか、あるいは、自由意志は代替可能性と実際の源の条件が確かなものである場合にのみ可能なのかという問題は、両立説論者たちの間で論争にまでなっている。
5. これらの観念を扱った作品としては、『マイノリティ・リポート』を観よ。
6. この場面解釈は、人類が奴隷になった経緯に関するモーフィアスのその後の説明と合致する。彼らがマトリックスの中で何をしようとも、彼らの行為は“進化”した人工知能たちの電池エネルギーを作り出すためだけに計画されているのだ。事実作品においては、マトリックスの設計者や支配者がその内部で機能する人間たちに対して持つ支配のレベルは、完全に決定論的に運命づけられた支配というよりは、実際には“自分が何をしようとも”的運命論の方にふさわしいようであった。なぜならマトリックス内部の人々は、一定の限界の中でどのようなことでもできるように思われたからである。AIたちは気にも留めていなかった。人工知能たちは、マトリックス内部の人間社会における一定の不一致や無秩序を喜んで認めた。人類が自分たちに仕えて、人工知能の人生に必要なエネルギーを生み出すという最終結果さえ守られているなら、彼らが夢世界の中で互いにどうしようが、AIたちが何を気にする必要があっただろうか?
7. ここでの予言者の予見に関する謎は、神の先見性に対するそれと同じである。神があらゆる人間の行為を予知するということは、決して間違いを犯さない神の力によって、あらゆる人間の行為が決定されていることを意味するのだろうか? それとも、例え個人の行為を自由に決定するのがその個人であったとしても、神はあらゆる個人が現在と未来で行うことを正確に知り得るのだろうか?
8. Robert Kane, 1996,
pp.65-71を参照せよ。ケーンは次のように書いている:
我々は誰しも(中略)日々の暮らしにおいて、自らの意志を他者に押しつける二つの方法を承知している。威圧もしくは拘束によって、我々の欲することを彼らの意志に反して行わせる
-- これが強要支配(CC支配)である。あるいは、彼らを操って我々の欲することを行わせ、その一方で彼らがそれを自分で決断して“自らの自由意志”で行っているのだと思わせる
-- これが隠在的非強要支配(CNC支配)である。より大きな環境におけるCNC支配の事例は、Aldous HuxleyのBrave New World や、B.F. SkinnerのWalden Two などによって提示されている。SkinnerのWalden Two に登場する架空の創立者フレイジャーは、CNC支配について明解な解説を行っている。フレイジャーによると彼のコミュニティでは、個々の人間は自分たちの希望や選択によって何でも行うことができるが、彼らは幼少の頃から、自分たちが持てるものやできるものだけを望んだり、選んだりするように慣らされているのだ(p.65)。
9. John Martin Fischer,
1994, pp.83-85.
10. この古典的事例が、サルトルの本来的自由の概念である。サルトルは、全ての個々人は彼らが直面する現実のあらゆる局面、世界のあらゆる事実に対して自由であると強く主張した。(サルトルの見解の引用については、彼の『存在と無』を用いた。the
Berofsky collection、1966、pp。174-195. を参照せよ)
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詳細な関係書目については、Kane (2002b) を参照せよ。
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