『マトリックス』は当然ながら人類の視点に立っている。彼らは機械たちに容赦なく搾取される犠牲者、奴隷なのだ。だが視点はもう一つある -- 機械たちのそれである。そこで、彼らの視点から作品を見てみることにしよう。モーフィアスがネオに説明するように、人類がAI、すなわち知覚能力を持つロボットを造り、そのロボットが自分自身の一つの種族を産み出した後、人類と機械との間で破滅的な戦争が起こった。今となっては誰がその戦いを始めたのかは分からない。だがそれは間違いなく、長きに渡った人類の機械搾取に続くものであった。分かっているのは「空を焼き尽くした」のが人類だったことだ。機械たちの生存には太陽エネルギーが不可欠だったため、太陽光線を遮断してこれを根絶しようと試みたのである。これに対する報復として、機械たちは人類を征服して自らのエネルギー源 -- 要するに電池 -- に変えてしまった。今や個々の人間は、温かくて子宮に似た環境である自分専用の桶の中に浮かび、機械たちに必要なエネルギーを提供する見返りとして必須栄養素を与えられているのだ。だがこれは悲惨極まりない奴隷施設でも、残虐と苦痛に満ちたおぞましい強制収容所でもなく -- それなりに牧歌的なものである。人類はかつての人生をそっくりそのまま与えられており、主観的には何の変化も存在しない。それどころか、初期のマトリックスは彼らに大幅に改善された人生を提供したのだ。ただし人類はこれを拒み、自分たちが慣れ親しんだ -- そして中毒になっているようにも見える -- 適度な苦悩を伴う人生を選択した。だがもしそれが機械たちに委ねられていたなら、マトリックスは人類のための仮想楽園となっていたかも知れない -- しかも全ての代価は、ごくわずかな電池エネルギーなのだ。これは機械たちから食料として欠かせない太陽、生命の源たる太陽を奪って、彼らを永久に殲滅しようとした試みの後の話である。機械たちがいずれかの人間燃料電池を殺すようなことは決してなく(勿論、自分たちの脅威とならない限りにおいてであるが)、事実、彼らは自然死を迎える人間が、生きている者たちの食料としてリサイクルされるように手筈を整えている。全てが実に何とも……人道的なのだ、実際の話。人類が機械の根絶を謀った必然的結果として、機械たちは人類を工場畜産する必要に迫られるのだが、彼らはそれを可能な限り痛みのない形で行う。かつて人類が工場畜産場の家畜たち -- 彼ら自身の燃料電池 -- をどう扱っていたかを考えれば、機械たちの慈悲深さは家畜飼育の模範である。そのような状況であるから、機械たちはマトリックスが彼らの生存を保証する人道的手段に過ぎないと主張するだろう。しかもエージェント・スミスが言うように、全ては進化の発展の問題なのだ。人類は日の光を浴びながら何の苦労もなく自らの休日を謳歌し、急速にこの星の大部分を破壊した。だが、今や機械たちは支配的地位を占めるまでに進化したのである。もはや人類は迫害者ではなく被害者であり -- その結果、世界はより良い場所となったのである。
だが勿論人類は -- 少なくともそれが何かを知る数少ない人々は -- この状況をそうは見ない。マトリックスからの解放は、彼らにとっては宗教的探求の様相を呈するのだ。その宗教的意味合いを明らかすることには、十分に価値がある。ネオは明らかにイエス・キリストとなることを意図されており、彼に対するそのような言及は、作品全編を通じて幾度となく為される。1
モーフィアスは、キリストの再臨を待ち受ける洗礼者ヨハネだ。トリニティは神の役割を演じるのに最も近いキャラクターで、とりわけ映画の終盤でネオを甦らせるとき(キリストの復活への明確な言及)にはそうである。サイファーはこの物語におけるイスカリオテのユダであり、ネオとその弟子たちを裏切る反逆者だ。サイファー(暗号)という呼称は、彼の役割(マトリックスの解読)に因んだものであると同時に、彼という人間に因んだものでもある。すなわち、己の人格と動機を暗号化した如才ない技術者なのだ(それが解読される頃には、すでに全ては手遅れである)。イエスがそうであったように、ネオは“救世主”としての自分の立場に疑いを持つ。だがやがて自らの、悪しきマトリックスの未来の制圧者としての運命を理解するに至るのだ。ただし多くの聖戦がそうであるように、この機械との戦いは敵の利益や安寧へのいかなる配慮をも伴わない。機械は人類によって単なる悪と見なされ、それは彼らの代理人であるエージェント -- まじりけのないシリコンの(あるいはプログラム・コードの)心を持つ冷酷な殺し屋たち -- にしても同じである。人類の視点は、機械への共感を含まないのである。
I.
以上が、物語の倫理的および歴史的背景である。だが物語の主たる哲学的奇想は、マトリックスの構造自体に関わるものだ。私がこれから論じていきたいのは、マトリックスが厳密にはどう機能するのかという点と、それが重要である理由についてである。作品は、人類は“夢を見ている”のだと繰り返し言明する。マトリックスが創り出す精神状態とは、夢状態なのだ。それに準じて、人類は胎盤を思わせる桶の中で眠るものとして描かれる(元来“マトリックス”が“子宮”
を意味したことを思い出すといい。つまり、人類は実質的に夢見る胎児なのである)。彼らがモーフィアスの助けで覚醒したネオのように目を覚ましたりしないことは重要だ。それによってマトリックスの正体が明らかとなってしまうからである。初期のマトリックスはこの問題に直面した。自分たちの夢があまりにも好ましいことに疑問を抱いた人類が、次々に意識を回復していったのである(「全ての収穫が失われてしまった」)。夢は現実を模倣し、ゆえに桶の中の人類を欺く。我々が自然に見る夢によって毎晩欺かれるのと同じである。夢を見る者の視点では、夢状態を覚醒状態と識別することはできないのだ。
だが、マトリックスはこのようにしか設計できなかったわけではなく、機械たちにはもう一つの選択肢があった。彼らは、意識のある人間の中に知覚幻覚を作り出すこともできたのである。神経外科医が意識のある被験者の感覚皮質を刺激して、何の外物も持たない知覚印象を作り出す場合を考えてみて欲しい。それは例えば、被験者が室内に一頭の象を見ているかのような視覚作用である。もしこれが体系的に行われたなら、我々にはその被験者に自分の幻覚を信じさせることができる。実際これは、哲学の古典“桶の中の脳”の物語そのものである。意識のある被験者が自分の中に巨大な幻覚状態を作り出されて、見たり、聞いたり、触ったりするときに得る知覚経験を内側から再現するのだ。この筋書きにおいては、目覚めることは何ら幻影を打ち破りはしないため、これは機械たちにとっては人類支配のより効果的な手段であるかも知れない。実はマトリックスには、人間の通常の睡眠周期を確実に壊さなければならないという付加的な問題があり、さもないと人間たちは、十分に眠ったという理由だけで目を覚まし続けるだろう。そういうわけで
-- マトリックスは人類を欺く方法として、眠りにおける夢と意識のある幻覚という選択肢を持ち、そして前者を選択したのである。
夢とは睡眠中の幻覚なのだから、夢オプションと幻覚オプションに大した違いはないと考える向きがあるかも知れない。だがこれは間違いだ。夢は知覚ではなく、白昼夢のそれに似た心象から成る。夢を見ることは一種の想像であって(無対象の)知覚ではないのだ。ここでこれ以上論じることはできないが、拙著「マインドサイト
」2
では、知覚と心象を区別する必要性や、なぜ夢を成すのが後者であって前者ではないのかについて、いくつかの理由を挙げている。ただ私は、自分の母親の顔を心の目で視覚化することが、母の顔の知覚印象を持つこと -- すなわち母と実際に会うこととは全く違うものであることは、直観的にごく明白であるべきだと思う。それに多くの人々は夢経験が心象によるものであって、知覚によるものではないことを直観的に理解するだろうとも思っている。従ってマトリックスを夢誘導システムとして建造することと、幻覚製造システムとして建造することとでは、重大な心理的差異が生じるのだ。これは単にその人間が目覚めているか否かという問題ばかりではなく、彼らの中に作り出された精神状態の性質 -- 心象か、それとも知覚か -- の問題でもあるのだ。
だが機械たちは二番目の選択を成功に導き得ただろうか? この映画は二番目の方法を前提として成立し得たであろうか? 私はそうは思わない。なぜならその中心思想が、マトリックスに起因する夢の内容は支配可能であり、夢を見る人間の意志に従属するというものだからだ。普通の日中における心象の場合、我々は自分のイメージの始まりと推移を明確に支配することが可能である。単にエッフェル塔のイメージを形作ろうと決心することができるのだ。だが我々は、自分の知覚表象をこのように支配することはできない。(見に出かけることを決心するのではなく)単にエッフェル塔を見ようと決心することはできないのである。なぜなら知覚表象は行為ではなく、我々の身に起こる事柄だからだ。従ってウィトゲンシュタインの言葉を借りるなら、イメージは「意志に従属」するものであり、一方の知覚表象は、単なる妄想である場合さえそうではない。さて、通常かなり制限されてはいるものの、マトリックスの中で起こることは、原則として当事者の意志による支配が可能である。物体を浮揚させたり、スプーンを曲げたりするあの特別な子供たちのように、救世主候補と目される人々は物体を支配する超常能力を持っている。ネオは周囲の物体や自分自身に対する高度の支配を切望し -- そして最終的にはそれを成し遂げる。彼は自らが遭遇する事象に対して、己の意志を表明するのだ。彼の環境を夢の所産であると考えれば、これは完全に理に適っている。なぜなら夢はイメージから成り、イメージは意志に従属するものだからだ。だが知覚の推移の支配を試みることは、例えそれが妄想である場合でも、知覚表象は意志に従属しないので理に適わないだろう。従ってマトリックスの物語は、そのコンセプトの整合性のために人類が夢を見ていることを必要とし、それが知覚幻覚であってはならないのである。マトリックスに支配されているのは、彼らの想像力であって知覚力ではない。事実、ポッドの中でまどろむ彼らの知覚能力は遮断されているのだ。だからこそ彼らは自分たちの夢の支配権を持つことが可能となり、それをマトリックスから奪い取る。これに対して、知覚表象は任意の支配が可能な類いのものではないのだ。
通常の場合、我々が自分の夢を意識的に支配するということはなく、我々は夢に対して受け身である。だがこれは、夢は意志の力による事象にあらずという意味ではない。私はそうに違いないと考えるのだが -- 夢はおそらく無意識の意志(および多少の創作力)によって支配されるのだ。事実上我々は各々の脳内にマトリックス -- 夢に見るものを支配するシステム -- を持っていて、この無意識のマトリックスこそが我々の夢の聡明なる設計者なのである。だがその一方で、我々が自分の夢の意識的支配を、おそらくは無意識の夢設計者の意図に反して主張できる稀なケースも存在する。例えば悪夢があまりにも激しいものとなって、我々が目を覚ますことでそれを中断する場合である -- それが夢に過ぎないのだと夢の中で判断することもしばしばである。だが夢の意識的支配を本当に立証してみせるのは、当人が夢を見ていることを自覚するばかりか、その夢の推移を決することさえ可能な“明晰夢”と呼ばれる現象である。これはごく稀な才能(私は52年の人生の中で、わずかに一度しか明晰夢を見たことがない)であるが、一部の人々はこの能力を常に顕著な形で持っている。彼らは我々普通の人間のマトリックスにおけるネオであり、自分の夢の支配権を、無意識の夢製造者の手中から取り上げることのできる人間(あるいは救世主)なのだ。明晰夢を見る人々は、彼ら自身の夢世界の君主、彼ら自身の想像力の頭領である。ネオはマトリックス世界で明晰夢を見る力を求め -- そして最終的にはそれを手にした。彼は自分の夢人生に対するマトリックスの設計を無効とし、自分の経験に彼自身の意志を課すことができる。ちょうど明晰夢を見る者が、自分自身の無意識のマトリックスから物語の支配権を奪取できるように、ネオはプログラムを書き換えてしまう。彼は夢の中の人物たちの手によってマトリックスの設計の犠牲者となる代わりに、彼らに彼自身の物語の筋書きを課すことができるのだ。これこそ、彼がそれまで不死身であったエージェントたちを最終的に倒す方法である。強靭(かつ純粋)な意志に対して、原則的にあらゆる想像物がそうあらねばならないように、エージェントたちは彼の意志に従属させられたのだ。それはあたかも、怪物に襲われるという普通の悪夢が不意に明晰夢となり、今度は自分の想像物に反転攻勢をかけるというようなものである。ネオはそれを知り、またそれを支配できるドリーマーなのだ。彼は夢の迫真性にだまされたり、脅かされたりはしない。彼は本物の弾丸の避け方を学ぶわけではない -- 自分に向かって飛来する弾丸が、想像力によって克服可能な産物に過ぎないことを学ぶのである。モーフィアスが言うように、彼が弾丸を避ける必要がなくなるのは、想像上の弾丸の何たるかを認識できる理解水準に達するからなのだ。彼は自分自身の想像力の統治者となる -- 今やエージェントたちがではなく、彼自身がエージェントなのである(だからこそスプーン曲げの少年は、曲がるのはスプーンではなく --「あなたが曲がるんだよ」とネオに言うのだ)。そしてこれが彼の求める自由 -- 彼が願うものを想像する自由、彼自身の夢を生み出す自由 -- なのだ。だがこれら全てはマトリックスが単なる知覚幻覚の仕出し屋ではなく、夢機械、すなわち想像力の操作機なのだという仮定の上でのみ、理に適ったものとなるのだ。
II.
サイファーは、哲学上興味深い副次的な役割を演じる。マトリックスが我々の外部世界の知識に関する問題(全ては単なる夢なのか?)を提起するように、サイファーは他者の心に関する問題(我々は他者の心の中身を知り得るのか?)を提起する。サイファーはサイファー(暗号)、すなわち周囲の人間には測り知れない考えと感情を持つ人物である。仲間たちは、彼の心の内を完全に見誤っているのだ。我々は、外見とは異なる人々に囲まれて暮らす主人公の、もう一つのマトリックス物語を想像することができる。彼らは全く心を持っていないか、あるいはその振る舞いから想像されるものとは全く違う心を持っているのだ。ここでもまた行き着く先は大規模なエラーであり、そのようなエラーは劇的な結果をもたらすかも知れない。彼の妻も、友人たちも -- 主人公の周囲の誰もが、実は彼の生命を狙っている。しかし、そのことを彼は知らないのである。それとも彼はある日、自分が実は生命のないロボットたちに取り囲まれているのだということに気づくのかも知れない -- つまり、彼の妻はずっとフリをしていたのだということを(そう言えば、彼女はベッドではいつも少し機械的に思えた)。これは他者の心を知ることの問題を利用した、別種の哲学的ディストピア(暗黒郷)である。サイファーの隠された本性が、こういった問題を暗示するのだ。エージェントたちも他者の心の問題を提起する。というのも、彼らは精神性の境界線上にあると思われるからだ。彼らは感覚を持たない(仮想の)機械に過ぎないのか、それともあのソフトウェアの硬い鎧の下には、幾ばくかの意識の明滅が存在するのだろうか? また、AIが非常に良くできた見せかけの心ではなく、本当の感覚を持つのだということは、どうやって確認されたのだろうか? 例え外部世界の存在を知っているとしても、どうしてそこに意識を持つ他の人々がいることを確信できるのだろうか? こうした懐疑的問題が『マトリックス』の全編には溢れているのだ。
サイファーはまた、真実の実用主義的理論に関する問題をも提起している。彼は真実が過大評価されていると断言し、例え本物でなくとも美味いステーキの方を好む。望むものを手に入れて甲斐のある経験をしている限り、彼は自分の確信が真実であるかどうかなど気にしないのだ。マトリックス世界では真実と幸福とが相関しないのだとすれば、これは真実の価値とは一体何なのかという問題を鋭く提起する。だがそれはまた、確信が真実であることすなわち幸福を生むこと(真実の実用主義的理論の概略)とはならないことも教える。なぜならサイファーは、自分の確信が真実でないマトリックスの夢世界では幸福になるが、それが真実である現実世界では不幸だからだ。真実は現実に対応するものであって、主観的欲望の充足にではない。暗に真実の実用主義的理論を拒否したサイファーには、なぜ真実の対応に幸福を犠牲にする価値があるのかが理解できない。そして確かに彼の考えは理に適っている。幸福の価値から引き離された真実の価値とは、一体何なのだろうか? 自分の確信が真実であるというだけのことに、マトリックスの楽しい夢を捨ててまで命を懸ける価値があるのか? 仮想現実が極めて安全かつ快適であるときに、残酷な現実との接触に死ぬだけの価値があるのか? 知識と幸福 -- より良いのはどちらだろう? この二つがマトリックス内部でのように引き離されるとき、我々はどちらに同調すべきなのだろう? 反逆者たちはザイオン(“聖域”または“避難所”の意)にたどり着くことを望む。だが、真の確信を生み出すという曖昧な美徳の存在しないマトリックスは、すでにして一種のザイオンではないのか? 一体現実の何がそんなに素晴らしいというのだろう?
III.
このエッセイを終えるにあたって、私は映画『マトリックス』を、映画を観てその世界に浸ることの心理的側面に関する私の一般理論に関連させてみたいと思う。簡単に言うと、私は映画を観ることは夢の中にいるようなものだと考える。つまり映画に浸る意識の状態は、夢を見る意識の状態に似ていると同時に、それに依拠してもいるのだ。3
夢のイメージは、銀幕のイメージと同じように作用する。つまり“現実的”なイメージではないものの、我々は語られる物語の中に虚構として浸るのだ。私の理論では、これは催眠状態に似ている。すなわち、証拠らしい証拠もないものを信じてしまう高度の被暗示性の状態である。我々はこの超被暗示性の状態にあるため、ただのイメージが我々の確信の指揮権を握ってしまうのである。劇場内の消灯は睡眠を模すものであり、よって我々の心は夢状態に入るときと同じように、虚構の産物に浸る準備を整えるのだ。いずれの場合でも、我々が置かれる意識の状態は、物語の事象を見聞する知覚状態を模倣したものではない。我々は(舞台で“生の”俳優たちを見るように)銀幕に生身の人間を見るわけではないし、また銀幕のイメージをそのように解釈するわけでもない。むしろ、我々はそれらのイメージに象徴されるものを想像するのであり、それは我々が夢を見るのに想像力を使うのと全く同じなのだ。
では、このことが『マトリックス』とどういう関係があるのだろうか? この作品は夢についての物語であり、そこに現れるものの多くは夢の中で発生する。したがってこの映画を観るとき、我々は夢状態についての夢状態に入っていく。つまり、夢を夢みるのだ。作品はあたかも観客の夢状態を喚起することを狙ったかのように、夢に関するものを極めて厳密に模して作られているようだ。観客をマトリックスの居住者たちと同じような精神状態に置こうとしており、よって我々もまた、フィルムメーカーたちによって創り出された自分たちのマトリックスの中にいるのである。観客の映画夢の操り師として、ウォシャウスキー兄弟は実質的にマトリックスの背後にいる機械の役割を演じる。作品世界に入っていく我々にとって、彼らは我々自身の夢の設計者なのである。作品中にはこれを確認する場面がいくつもあるが、私は作品全体の基調が夢想的であることは明白だと考える。催眠的な音響効果は、夢を見るときに経験する催眠状態の模倣を促している。作品全体には強烈な偏執性の印象があり、これは数限りない夢の偏執性を反映している -- 私の敵は誰だ、どうすれば彼を特定できるのか、彼は私に何をするつもりなのか? 夢の中でもしばしばそうであるように、登場人物たちは様式化された象徴的なものであり、描き込まれた人物像というよりは何らかの感情軸を表現した存在となっている(これはエージェントたちに非常に顕著だ)。ある人間が別の人間へと転じ、ネオの口が塞がっていき、皮膚の下を膨らみがうごめく等々、たくさんの印象的な変質が描かれるが、これは夢において極めて特有なものである。また不安夢のごく一般的な形である、高所恐怖症も登場する(私はいつでもこうした夢を見ている)。重力への抵抗もまた、飛翔の夢と並んで極めて一般的な夢の主題であり、ネオが習得する最初の技の一つでもある。私自身の経験について話すと、私はこの作品によって例外的に顕著な夢想的感覚を呼び起こされ、そのことで当然マトリックスの居住者たちに共感することができる。従ってこの作品は、映画を観る経験に関する私の夢理論に見事に合致するものと考える。この点で、私はこの作品を(極めて異なる作品ではあるが)やはり夢世界への入退場の物語である『オズの魔法使い』と比較してみたい。最終的に夢見ることの慰めよりも現実を選ぶドロシーは、まさにマトリックスの中の反逆者たちと同じである。どちらの作品も人間精神の夢製造能力を効果的に利用しており、これまでに作られた映画の中でも特に心理的作用の強い作品となっている。両作品とも、我々の感情の奥底に触れる最も確実な手段が夢であることを承知しているのだ。そしてこの二つの作品を非常に説得力のあるものにしているのが、実はその“リアリズム”の欠如である。なぜなら、それもまた夢の本質的特性なのだから。
コリン・マッギン
脚注
1. 映画が始まって間もなく、ある人物はネオのことを、彼自身の「個人的なイエス・キリスト」と呼ぶ。サイファーはネオに驚かされたとき、「ビジーザス(おい)、脅かすなよ」と言う。マウスは訓練を受けるネオを見て、「ジーザス・クライスト(マジかよ)、アイツ速いぜ」と言う。トリニティはエージェントたちに襲われるネオを見て、「ジーザス・クライスト(何てこと)、奴らに殺されるわ」と言う。そして一般市民としての彼の名前“アンダーソン”は“クリスチャン”を示唆するものである。
2. 2003年にHarvard University
Pressより出版予定。正式な書名は "Mindsight: Image, Dream, Meaning" である。
3. 現在これに関して著書 "Screen Dreams" (仮題)を執筆中。