『マトリックス』 はアクションや特殊効果ばかりでなく、その思想においても画期的な作品です。このセクションでは、第一作および続編二作品が提起する多面的な哲学思想について探究していきます。これから数カ月にわたり、我々は本セクションを継続的に拡充し、哲学と認知科学の分野を代表する方々のエッセイを紹介していきます。本セクションの更新情報については随時ここでお知らせします

公開開始: 2002年11月20日
 作品の様々な哲学的、技術的、宗教的側面について考察する8人の寄稿者によるエッセイと共に本セクションを立ち上げます。
 
ここで紹介するエッセイは『マトリックス』公式ウェブサイトの一部として掲載するものですが、その中で述べられる見解は完全に個々の執筆者のものです。ウォシャウスキー兄弟は、作品解説は作品そのものに委ねるとの立場であり、そこに溢れる宗教的シンボリズムや哲学的テーマについては多くを語っていません。したがってここで紹介するいずれの文も、作品やそのシンボル、メッセージ等々の決定的な分析を約束するものではありません。その代わりに作品の提起する哲学的諸問題を明らかにし、その解決への道筋を探究していきます。いくつかのエッセイはより教育的な性格を持ち、哲学者たちが歴史を通じて取り組んできた問いを『マトリックス』がどう提起しているのかについて教授します。また他の寄稿者たちは、自らの哲学的見解を論じるためのたたき台として作品を利用します。すぐお分かりになるように、作品の最良の解釈をめぐっては執筆陣は必ずしも意見を一にするものではありません。ただし『マトリックス』がいつものハリウッド映画より多くのものを提供してくれる作品であることを読者に伝えたい、という点では一致しています。つまりは皆さんがメウサギの穴の向かう先モを知るためのものなのです。
 
コレクションの口火を切るのは3本の短編エッセイで、この中で私は作品が提起する特に大きな二つの哲学的問題を論じます。一つは個人の体験が幻想かも知れないという懐疑的不安、そしてもう一つは果たしてそれが重要なことなのかという道徳的問題です。『マトリックス』で描かれる筋書きと、哲学者たちが長く論じてきた同様の想像的状況との類似点を明らかにしながら、これらのエッセイはこの興味深い難問に関する様々な思想家の見解への入門編、そして後に続くエッセイの前座の役割を果たします。
 
次に紹介するのが、おそらく意識についての著述で最もよく知られる優れた現代の哲学者コリン・マッギンの「夢のマトリックス」です。マッギンのエッセイは、マトリックス世界の夢に似た性質に注目して作品を分析します。作品で描かれる状況を、幻覚を伴うと見ることの誤りを論じながら、マッギンは作品の細部から判断して、マトリックスは偽りの知覚を強制的に食ませるというよりも、むしろ(夢がそうであるように)個人の想像力を直に利用していると見るのがよりもっともらしいことを明らかにしようと試みます。その過程でマッギンのエッセイは作品の道徳的仮定、サイファーというキャラクターが提起する他の哲学的諸問題、そして全ての映画の夢に似た特質についても言及します。
 
ヒューバート・ドレイファスは、人工知能の哲学的諸問題に関する先駆的論考や、近年のヨーロッパ哲学と英米言語哲学との隔たりを埋める研究で知られる哲学者です。「『マトリックス』の素晴らしき新世界」において、ドレイファスは息子のスティーブン・ドレイファスと共に作品が提起する懐疑的倫理的問題を論ずるために、エドムント・フッサールに始まりモーリス・メルロ=ポンティに極まる現象論的伝統を利用します。二人はマトリックスに閉じ込められた人々が直面する真の心配事は、欺かれることでも偽りであろう確信を持つことでもなく、マトリックスによって課せられる創造性の上限だと論じます。マルティン・ハイデッガーに倣って、我々の人間性は自らの本質を再定義して新たな世界を切り開く能力にあると示唆した上で、ドレイファス父子はあらかじめプログラムされたマトリックスの監獄に閉じ込められた人たちが、この根本的な創造能力を持つとは思えないと結論づけます。
 
ベストセラーとなった「『スター・トレック』の形而上学」の著者でもあるデラウェア大学の哲学教授リチャード・ハンリーは、痛快で示唆に富むエッセイ「東は東、西は西:ファースト・マトリックス論考」で、今一度哲学とサイエンス・フィクションの交差について探究します。この中でハンリーは、『マトリックス』には我々に自分たちの価値観の一貫性を教えてくれる教訓があるかも知れないと論じます。特にハンリーは、来世に関する伝統的なキリスト教の概念を前提とすれば、天国はむしろマトリックスのようだとの主張を展開します! さらに驚くのはこの命題から導き出される結論です -- 結局、ジャン=ポール・サルトルの言葉(「地獄とは他人のことである」)は真実に近かった。生身の他者との接触を内部的に排除するマトリックス的シミュレーションとしてこそ、天国は最もよく理解されるのである。
 
イアコヴォス・ヴァシリオウは、プラトン、アリストテレス、ウィトゲンシュタインを専門とするブルックリン・カレッジの哲学者です。そのエッセイ「現実、重要なこと、そして『マトリックス』」は作品で描かれる筋書きと、我々の日常生活との相違(と驚くべき相似)に関する洞察力溢れる考察を提供します。我々の思う以上のものが『マトリックス』のプロットラインの道徳的背景次第で決まることを指摘しながら、ヴァシリオウは読者にメ博愛的に生み出されたマトリックスモを代わりに想像するよう求めます。そのようなマトリックスの可能性、そして世界の惨澹たる現状を思えば、ヴァシリオウはその内部に入ることは我々が最も価値を置くものの否定ではなく、その価値をより良く理解する機会を提供するものだということに誰もが合意するだろうと論じます。
 
続いては少しばかり視点を変えて、人工頭脳学の草分けとして知られる著名な(人によってはメ悪名高いモと呼ぶ)ケビン・ワーウィックのエッセイを紹介します。ワーウィックはロボット工学の研究と、そして何より自分自身をコンピュータやインターネットに接続するために一連のセンサー移植手術を受けたことで世界的に知られています。その一方で、彼が『マトリックス』以前に超知能ロボットの人類支配を予言するノンフィクションを出版していた事実はあまり知られていません。本セクションへの寄稿文(「『マトリックス』は我々の未来なのか? 」)では、ワーウィックは長年にわたる自らの研究に基づいて『マトリックス』で描かれる筋書きのもっともらしさ(および好ましさ)を深く考察し、我々が適切な準備さえすれば現実のマトリックスを恐れる必要はないと結論づけます。準備とは? 我々自身が部分的に機械化することです。ワーウィックは、サイボーグ化することで我々は未来がオファーするあらゆる恩恵に浴するのだという確信をメプラグ入力モできると論じます。
 
コレクションの最後を締めくくるのは二人の宗教学教授、フランシス・フラナリー=デイリーとレイチェル・ワグナーによるエッセイ「覚醒せよ!『マトリックス』におけるグノーシス主義と仏教」です。フラナリー=デイリーは古代の夢や至福一千年説、そして古代ユダヤ神秘主義を研究の専門分野とし、一方のワグナーは聖書研究と、宗教と文化の関連に研究の主眼を置いています。二人のエッセイは、作品に登場するグノーシス主義と仏教のテーマを包括的に論じます。これら二つの伝統とそれを作品全編に引用する折衷様式との数多くの相違点を指摘する一方で、フラナリー=デイリーとワグナーはグノーシス主義と仏教と『マトリックス』に共通するのが、我々が現実だと見なすものが実はそこからメ覚醒モすべき一種の幻影ないし夢だという思想であることを明らかにします。精神的なものであろうとなかろうと、悟りとはそうすることでのみ生まれ得るのです。
 
それではエッセイ・コレクション第一弾をお楽しみ下さい。今後も精神哲学者デイヴィッド・チャーマーズ(アリゾナ大学)、倫理学者ジュリア・ドライバー(ダートマス・カレッジ)、認識論者ジェームズ・プライヤー(プリンストン大学)など錚々たる顔ぶれからの寄稿を予定しています。乞うご期待。

_____________________________________

更新: 2003年3月20日
お約束通り、『マトリックス』が提起する哲学的テーマに取り組む5本の新たなエッセイを掲載します。

今回口火を切るのは、認識論者/精神哲学者のジェームズ・プライヤーです。哲学の初心者には特に興味深いであろうその軽妙なエッセイ「マトリックスで生きることの何がそんなに悪いのか?」において、プライヤーは魅惑的だが厄介な二つの哲学的立場について論究します。一つは我々が知ることのできない事実などあり得ないという(ときに実証主義と呼ばれる)見解、そしてもう一つは人間の行動動機は常により良い経験をすることだという見解です。作品と架空の思考実験の両方からの例証を用いて、プライヤーは学生には当初魅力的に見えることの多いこれらの立場が、実は思ったほど明快でも得心のいくものでもないことを明らかにしようと試みます。続いてプライヤーは(ヴァシリオウのエッセイに賛同して)マトリックスの中に生きることで最悪なのは、そのような筋書きが強いるであろう形而上学的ないし認識論的制限ではなく、むしろ政治的な制約だろうと論じます。マトリックスに捕われた人たちは、我々のほとんどが受けないことに大きな価値を見出す制約を自らの行動に対して受けているのです。

アリゾナ大学の哲学者デイヴィッド・チャーマーズは、大きな影響力を持つ著書「意識する心」を初めとして精神哲学に関する数々の本や論文を執筆しています。ここに紹介するエッセイ「形而上学としてのマトリックス」において、チャーマーズは我々がマトリックスのようなシステムの中にいる可能性を排除することはできない一方で、この可能性は我々が考えるほど悪いものではないと示唆します。もしマトリックスの中にいるなら我々は外の世界のことでだまされているのだとする直観的見解に、チャーマーズは反論します。その代わりにチャーマーズは、もし我々がマトリックスの中にいるのなら、我々はこれを外部世界の本質について教えてくれるものと見るべきだと示唆します。すなわち物質世界は究極的にはビットでできており、我々の心がこの物質世界と相互作用することを確実にした存在によって創造されたものなのです。チャーマーズの驚くべき結論は、例え我々がマトリックス的シミュレーションの中に生きているのだとしても、我々が世界について信じるもののほとんどはなおも真実だというものです。

ダートマス・カレッジの倫理学者で「不安なる美徳」の著書もあるジュリア・ドライバーは、エッセイ「人工倫理」において『マトリックス』が提起するいくつかの際立って倫理的な論点を探究します。ドライバーはまず作品を使って、人工的に造られた生命体の道徳状態を考察することから始めます。意識と理性と個性の本質に関する一定の仮定を前提として、ドライバーは我々はエージェント・スミスのような人工知能を、真の道徳的考慮に値する存在と見なすべきであると論じます。エッセイの後半では、ドライバーは人はメ真実でない”(架空の)環境で不道徳な行動をとることができるのかという哲学的難問に取り組みます。ドライバーは夢の中で不道徳だと思われる行為をする人間を悪人呼ばわりする不自然さに言及しつつ、同じく他人への不快な影響が実在しないのがマトリックスの架空世界であれば、そこで行動するエージェントたちを悪人と見なすこともまた奇妙に思えると論じます。しかしドライバーはエッセイ前半における自らの洞察を用いて、マトリックス内部での行為が人間や一部の人工生命に実際の影響を与えると考えるに足る理由があり、よってマトリックス世界には我々の世界と同じく承認かつ尊重すべき独自の道徳規範 -- 独自の倫理 -- が存在すると結論づけます。

自由と道徳責任の哲学的諸問題を専門とするイサカ・カレッジの哲学者マイケル・マッケンナは、エッセイ「ネオの自由ノノワォッ!」で自由意志問題の包括的でありながらも快活な探究を見せてくれます。マッケンナは『マトリックス』を巧みに利用しながら自由意志論争における伝統的立場を論究し、そのいくつもの考え方 -- 決定論、運命論、両立論、非両立論 -- を作品によって与えられた独特な視点から比較検証します。続いてマッケンナは、ネオが『マトリックス』で達成したと思われる根本的自由の魅力を探究していきます。絶対的自由とは、実際に我々が考えるほど素晴らしいものなのでしょうか? マッケンナはこのような完全な自由は、過剰な幸運であるとの論を展開します -- 我々が自由を行使する上で得る喜びの一つは、限界に挑んでそれを押し上げることにある。もし全ての制限が取り払われてしまえば、そうした喜びの可能性もまた消え去ってしてしまうのだ。

コレクションの最後を締めくくるのは、古代ギリシャ哲学に主眼を置いた研究で知られるホイートン・カレッジの哲学教授ジョン・パートリッジのエッセイです。「プラトンの洞窟と『マトリックス』」において、パートリッジは『マトリックス』 とプラトンの「国家」で描かれるメ洞窟モの筋書きとの際立った類似性について考察します。プラトンが描く穴居人たちとマトリックスに捕われた人類との表面上の類似点の数々を指摘するのに加えて、パートリッジは作品とプラトンの文章とのより深い連続性を探究します。すなわち、いずれの物語も正しい自己分析から得られる自己認識を特に認めているのです。プラトンならこう表現するでしょう -- もし真の知識(そしてその結果として真のメ魂の管理モ)が得られるのだとすれば、ネオと穴居人たちは共に闇から光への困難な旅に向かわねばならないのである。

それでは新たなエッセイ・コレクションをお楽しみ下さい。次回の更新チェックもお忘れなく。

 

クリス・グラウ(エディター)

 


 
 
 
 

クリス・グラウ(エディター)