現実、重要なこと、
そして『マトリックス』
イアコヴォス・ヴァシリオウ
『マトリックス』は、その核心部分に倫理的プロットを持った作品である。我々観客は、そのヒーローたちと同様にある秘密を知っている。幾多の人々の人生を形作っている現実は、現実のものではない。大多数の人々が現実だと思っている世界は、実はコンピュータの作り出すシミュレーションなのだ。しかし、そのことを知る人間は皆無に等しい。現実には人間たちは太陽の昇らないグロテスクな終末後の世界において、身体中に管をつながれたまま機械式ポッドの溶液の中に浮かんでいるのだ。勿論一般の人々は、自分が1999年の通常の世界に生きているものと考えている。その歴史の詳細については未だ語られない部分も多いが、我々がことの起こりを詳しく知ることは『マトリックス』にとって最も重要なところである。人類と人類を凌ぐ認識能力を持った機械たちとの間で戦いが起こり、勝利への絶望的な試みの中、人間たちは機械たちの動力源を奪うために太陽光線を遮断した。この過激な戦術にもかかわらず、人類は敗れて奴隷となり、そして今や機械たちのエネルギー供給源として養殖されているのだ。機械たちはコンピュータの作り出す“仮想コミュニティ”を使って、人間たちの中に1999年の通常の生活の外観を誘発する。その目的は人類をおとなしく眠らせたまま、彼らとその子孫たちを生体電池として利用することである。人類は普通の日々を生きているつもりなのだが、彼らの心は根本的に欺かれ、彼らの身体は搾取されているのだ。従ってヒーローたちは、人類解放のための崇高な戦いを行っているものとして描かれる。1
私はここまでに作品の“倫理的背景”の二つの局面に触れた。すなわち、奴隷化と欺瞞である。我々はまた『マトリックス』の観客として、自分たちがマトリックスに対して持つ視点に留意すべきである。我々はときに“神の目”と呼ばれる視点を持ち、マトリックスの現実と“現実の”現実の両方を見ることができるのだ。我々はその状況に関する真実を詳しく知らされ、そして例えば、モーフィアスやその仲間たちとエージェントたちとの戦いは、それ自体がもう一つの“メタ・マトリックス”で行われているのか、あるいは我々が目にする人間ポッド群の光景は一種の夢のイメージないし幻覚に過ぎないのかといった疑問は持たないことになっている。マトリックスを見る我々はその真実に精通しており、また人類が奴隷となって欺かれていることを自分たちの目で確かめることができるのだ。その歴史の概要を思えば、我々は人類の状況をおぞましくも不正なものとして理解することになる。
1. マトリックスは現実とどう違うのか?
差し当たってヒーローたち(モーフィアス、トリニティ、中盤以降のネオ、そして他のクルー)と機械たちを除けば、マトリックスには誰一人として我々の神の目の視点を共有する者はいない。我々が知る限り、そこには日常の生活と同様に明快な現実が存在するのだ。我々がこの映画を観てヒーローたちに感情移入する理由の一つは、人類が奴隷とされ、また欺かれるという発想への嫌悪感である。2
これら二つの要素が『マトリックス』の中で上手く作用するのは、我々が奴隷化と欺瞞をある人々に対して他者が為す(一つの集団が別の集団を奴隷化する、あるいは一個人ないし一集団が他の人々を欺く)ものとして考えるからである。映画では奴隷化と欺瞞の代理人は機械たちであり、ほぼ全ての人間がその犠牲者である。だがマトリックスは、そしてその中にいる普通の人々の境遇は、現実やその中の人々(つまり我々)とどのように異なるのだろう?
まずは奴隷化から見ていこう。通常の現実において、我々は様々な行動を強いられる。我々は食べねばならず、飲まねばならず、眠らねばならず、それに反すれば死なねばならない。また何をするにせよ、我々は結局のところ、明らかに予測可能な時間枠の中で死ぬことになる。誰も永遠に生き続けることはできず、それどころか数百年の生命さえ持っていないのだ。我々は未来や過去へと時間を旅することはできないし、両腕を羽ばたかせて別の惑星まで飛ぶこともできない。例を挙げれば切りはないが、私はただ我々を束縛する自然法則を提示したに過ぎないのだ。つまり、容易に想像できる何らかの可能性に比べて、我々は通常ほとんどの人間がそれと気づかない束縛によって厳しく制限されているということである。勿論、作家、芸術家、哲学者、そして神学者たちは、何世紀にも渡ってこれらの制限を明確に意識し、様々な形による人間の束縛を考察して、いかに我々自身を解放するかについて幾多の示唆を提示してきた。人類はこの現実から“脱出”して、彼らの物理的身体に負わされた制限を超越することを切望してきたのだ。更にまた我々は、これらの制限が自分たちに負わされていることを明確に理解しなければならない。我々はただ自分たちがこの状態、これらの規則の中にあることを知るのだ。我々は皆、およそ100年の間には必ず死ぬ。これは、それがどうあるべきかという我々の自発的選択とも、我々の願望とも、あるいは我々の判断とも一切無関係なのだ。
誰が我々にこんなことをしたのだろう? この問いに答えることはそれ相応に重要である。なぜなら我々は普通“奴隷化”という言葉を、一人の代理人が他の複数の人々に行うものとして使うからである。私が概説した束縛の場合、責めを負わせるべき何者かを見つけるのは、最初は比較的難しいかも知れない。だが勿論、人類はこの問いに対する答えを提示してきた
-- 一つには神であり、そしてもう一つは自然法則である。宗教家たちは、なぜ我々が自分たちを束縛する神に怒りを向けるべきでないのかという問いと格闘してきた。なぜ人は死ぬのか、なぜ我々は過去に戻ることも、他の惑星へ旅することもできないのか、といった束縛である。他の人々は、我々を束縛しているのは神ではなく、単なる自然法則に過ぎないとの結論を下す。この考えは少なくとも最初のうちは、我々が自然法則を人格を有さない現実の特性と見なす限りにおいて、多少は受け入れやすいものかも知れない。誰かがそのような法則を意図したわけではないのだ(もしそれが神の意図であったなら、我々は改めて彼に怒りを向けることになる)。この法則は我々を束縛するためのものではなく、我々に何事かを積極的に働きかける心や理性の力は存在しない。3
だがいずれにせよ、我々の実状は無自覚の束縛の一つであり、それが我々を戦争で敗った機械たちの手によるものではなく、神、あるいは“自然”の手によるものだという点を除けば、それはマトリックス内部の人々の状況によく似たものである。
『マトリックス』の倫理的背景の第二の局面は欺瞞である。人間たちはマトリックスによって、現実に関して真実ではない物事を信じるように絶えず欺かれている。徹底した主観論者たちは別としても、多くの人々は欺瞞に対して憤りを覚える。なぜなら彼らは、例えそれが辛いものであっても、自分たちは真実を知りたい、あるいは少なくとも知る権利を持っていると信じるからだ。一個人あるいは一集団が、他者を意図的に何らかの真実から遠ざけ続けることは、それらの人々の名誉や権威を減じるものである。それは傲慢で温情主義的な行為なのだ。そのような状況においては、人々がどの真実を受け止めることができるか、あるいはできないかを決定するのは少数の人間である。これはごく日常的に起こることではあるが(統治する人間と統治されるされる人々との関係を考えてみて欲しい)、多くの人々はこの考えに立腹し、そのような真実のふるい分けの機会が厳しく制限されることを望むのである。
だが我々は(一部の人々への他者による奴隷化を見なかったように)一部の人々への他者による欺瞞ではなく、人類全般への欺瞞を考えてみることにしよう。ホメロスの『イーリアス』や『オデュッセイア』では、神々は全編を通じて人間を気まぐれに欺き、特定の行動を故意に強要し、無意識にも強要し、そして概して頻繁に人事に干渉するものとして描かれる。ホメロスの物語の人間たちは、確かにある種のマトリックスに閉じ込められているように思われる。神々や女神たちが活動している現実は、人間には(神々が望まない限り)近づくことのできないものでありながら、一方では人々の通常の現実にしばしば影響を及ぼすのだ。地球が太陽の周りを回っているのであって、その逆ではないのだと人類が理解し始めると、デカルトは神が何万年にも渡った全人類への欺瞞に関与していたことに苦悩した。彼は『省察』4
のかなりの部分を割いて、地球の相対運動を始めとして、思っていたものとは全く異なることが判明した数々の真実をめぐる人々への根本的な欺瞞を、善を極める全知全能の神はなぜ許し得たのか(そして彼自身は共謀者なのか)という不安を論じている。
従って我々は、我々に何事かを為す残酷な機械たちが存在しない通常の状況にあっても、自分たちにできないことは数多くあることを理解し、またこれまで我々人間が自然現象(または神々、あるいは唯一神)によって根本的に欺かれてきたこと、そして現在も物事の解釈に関して根本的に間違っているかも知れないことを知っている。私は人々への“根本的な欺瞞”という言い方をするが、奴隷化がそうであるように、欺かれることにもまた代理人、つまりその欺瞞を為す何者かが必要だと思われるのは事実だ。ただし我々が話しているのは、鏡、光、あるいは角度による欺瞞である点に注意しなければならない。我々が自然現象を誤解する一因がそれら自体にあるとしばしば評されるのには、それなりの理由があるのだ。人類が千年もの間、地球が太陽に相関して動くのであって、その逆ではないという事実を間違えていたとしても、その誤解をまるで簡単な計算ミスか何かのように“間違い”と表現するのは難しい。人間が地球の動きを理解するのにそれほど長くかかった理由の一つは、外見それ自体が人を欺きやすいものだからだ。確かに太陽は、空を横断しているように見えるのである。5
我々は哲学や芸術、宗教、科学、そして科学技術のあらゆる発展が、まさにモーフィアスやネオのごとき立場に達するための苦闘の一環として、そのような欺瞞や隷属から“人類を解放する”という衝動に起因するものであることを理解できる。6
我々が飛行機を作るのは、自分たちの身体を地上に縛りつける重力を打ち破るためだ。また我々は外見とは連関しない事物の真実を見出すために、入り組んだ実験を行い、複雑な装置を開発するのである。
私の第一の論点は、もし我々が実際に自分たちがいる現実を設定する責任を掌握できれば、おそらくは自らを“解放”して、事物に関する真実を完全に理解し、そして現実を操ることができるだろうというものだ。もし神が責任を負っているのであれば、我々は彼に上手に嘆願するか、あるいは彼と戦って勝利する必要がある。もし“自然法則”の基礎を成すのが数式(コンピュータ・プログラム?)であるなら、我々はそれらを書いたり、書き直したりする術を学ぶ必要があるだろう。そのとき我々は全員がネオとなるのだ。7
我々はまた総括的な展望に立って、ホメロスの神々とユダヤ教・キリスト教・イスラム教の唯一神との相違にも留意する必要があるかも知れない。ホメロスの世界の神々はしばしば人類と文字通り戦っていた。人間たちは圧倒的に不利な立場にあったが、決して全くの無力ではなかった -- ちょうど人々がネオ以前に“エージェント”たちと戦っていたのと同じである。現代主要宗教の唯一神としての神は、至高の善であると定義される。この視点に立てば、我々は神と戦うべきではない。なぜなら神は、思慮深くも慈愛に満ちた理由で物事を定めているからだ。我々はむしろ、彼に与えられた自分たちの居場所(この“浮き世”、我々の現実、我々のマトリックス)を受け入れる術を学ばねばならない。そうすれば、我々が一定の行動をすることによって、神は“死”を迎えた(存在を失うのではなく、この現実での滞在を終えた)我々をこの現実から解放し、天国において真実を示してくれるのだ。
短い論考ではあったが、これが『マトリックス』で描かれる状況と我々の通常の状況との相違を明らかにする上での、神の目の視点や作品の倫理的背景の重要性を理解する助けとなることを願っている。作品の観客として特別な立場にある我々は、マトリックスの内と外をどちらも見ることが可能だ。我々はこの束縛と偽りの外観、そして苦痛と苦難に満ちた1999年の現実を設定したのが、何か素晴らしい奇跡のような目的を持った慈悲深い神でないことを見て取ることができる。さりとてマトリックス内部の大半の人々にとっての現実は、人格を有しない自然法則によるでもない。それらの代わりに、人類を電池として利用する機械たちこそが彼らの現実の原因なのだ。『マトリックス』は我々観客に、ほとんどの人間にとっての現実が何者の責任によるものなのかという問題に関して、決定的な答えを提示している。8
2. 慈悲深く作られたマトリックス
ところで『マトリックス』は、マトリックスの内部に何ら変更を加えることなく大幅に改作することが可能だ。現実世界が映画と同じような終末後の地獄図であると想像して欲しい。ただし映画の中とは違って、そのような状況の原因が我々を奴隷に欲する機械たちとの戦いではなく、温室ガスの過剰排出であったと仮定しよう。車幅が三車線もあるSUVはオゾン層を破壊し尽くし、この星を我々や、我々が生存の拠り所とする動植物には生息不可能な場所にしたのだ。更にまた未来のある時点で、科学者たちが人類を救うために巨大な自律機械を設置したと仮定しよう。映画そのままに(ただし恐ろしい“センティネル”は除く)人類に10万年にも渡って生存と繁殖を続けさせ、地球上に残されたどのような雑草でも使って大気を修復し、この星をもう一度普通に居住できる場所にするために設計された機械である。この機械は太陽エネルギーのみで作動するので(なぜなら、この筋書きでは太陽は以前にも増して強力で、地上にあるそれ以外のものほぼ全てを焦がしているからだ)人類を“電池”に利用する必要もない。9
人類がこの状態に置かれる間、科学者たちは人々が桶の中に浮いていることを自覚して生涯を過ごす(これほど惨い拷問はないだろう)代わりに、自分たちの人生を“生きる”ことができるようにマトリックスを創造する。ひとたび太陽のエネルギーが(修復された大気のおかげで)生息可能な水準にまで減じれば、我々人類は機械に“起こされ”て、地上での生活に戻ることができるのだ。
この筋書きにおける普通の人物は、映画の中の普通の人物と同じ状態にある。ただしマトリックスは、人類を搾取する悪しき機械たちに起因する非道のものである代わりに、凄惨な環境下でも人類に可能な限り良好な生存状態を与えようとする慈悲深い人々に起因するものなのだ。勿論、マトリックスの中の人間がその違いを感じることはない。だが我々観客は『マトリックス』に対して、全く異なる反応を見せることになるだろう。戦うべき敵はなく、改めるべき不正も存在しない(SUV車のドライバーたちはとうの昔に死亡している)。もしこの状況でモーフィアスのような人物がいたなら、我々は彼のことをどう思うだろうか? マトリックスの外に出たモーフィアスとその仲間たちが、その荒廃した世界でも(不味い粥を食べるなどして)何とか生きていけることを知ったなら、例え地球が現在の居住適性を取り戻すまでに一万年かかるとしても、彼らは全人類の“解放”に取り組むべきなのだろうか?
クリス・グラウが序文 (セクション“C”)で論じるように、マトリックスはロバート・ノージックの“経験機械”とは大きく異なるものである。10
グラウは、我々がマトリックスの中で自由意志を持ち続ける点を指摘する。マトリックス内部の“世界”は、現在の通常世界と同じく我々の自由選択に応答するのだ。私が極めて重要だと考えるもう一つの相違は、マトリックスでは経験機械と異なり、私が実際に他者の心と交流している点だ。そこには人間のコミュニティが存在するのである。経験機械の場合には、全ては私の経験であり、私自身の意識の個人的内容である。これからは、宇宙において孤独な私が、すでに自殺を遂げた神がそれ以前に設置した桶の中に浮かんでいる様子を想像することができる。デカルトの“省察
一”における悪しき霊の仮説から生まれる懐疑的問題の中には、唯我論の脅威と、人は宇宙において孤独であるという恐怖感が見られる。11
だがマトリックスにおいて二人の人間が出会うときには、“同じ物事”をそれぞれの立場から経験する二つの意識が実際に存在する。誰もが全く同一のマトリックスに繋がれており、個々の人間のために作り出される固有マトリックスは存在しないのだ。勿論人々は実際には握手をしておらず、彼らの手は桶の中にある。だが彼らが握手をしていることは、単に一人の意識にではなく、一人一人の意識において感じられるのだ。マトリックスのこの特性もまた、人間たちは“夢を見ている”との説明にもかかわらず、マトリックスでの人生が夢とは決定的に異なる箇所である。12
人が夢の中で持っている -- あるいは持っていない -- 意識支配の度合にかかわらず、夢は個人の意識に属する。ウィトゲンシュタインの言うように“夢”の原理の一つは、私だけが私の夢を見ることなのだ。13
ところでマトリックスについて考える上で、私には極めて重要だと思われる問題がある。もし二人の人間がマトリックスで恋に落ちたなら、いかなる意味において、彼らの愛が現実のものでないと言えるのだろうか? これは単に、一人の人間が誰かと恋する夢を見たといった話ではない。なぜならノージックの経験機械と同様に、夢の中にはその人間は実在しないのだ。確かに彼らはマトリックスの中で実際に花束を贈ったり、手を握ったりするわけではない。だが彼らは同じ物事を、二人で一緒に経験しているのだ。彼らは互いを人として知り、マトリックスのあらゆる -- ある意味で –“非現実的な”状況への反応の仕方によって、それぞれの個性を示すのである。更にまた、マトリックス内部の人々は実際に苦しみや痛みを経験し、マトリックスで死ぬときには“現実世界”でも死ぬ。幾百万の心が単一のマトリックスに宿っているという事実は、例え彼らが交流している物理的宇宙がその外観とは根本的に異なるものだとしても、現実に幾百万の人々が交流していることを意味するのだ。
同様にまた小説や詩、あるいは哲学論文を書くことを考えて欲しい。あるいは絵を描くこと、踊ること、音楽や映画を作ることを考えて欲しい。私が有形の物質だと考えていたものが、コンピュータによって作られた物体であるという事実は、これらの活動のどれか一つにでも影響を与えるだろうか? もし与えないとすれば、我々は私の仮説である慈悲深く作られたマトリックスの中にいる方が、種としては明らかに幸福であるように思われる。その外部で生存のためだけの甲斐なき戦いを繰り広げる代わりに、我々は芸術的にも知的にも成長し、そして互いに愛し合うのだ。もし私の人生の目的が、並外れた哲学や画期的な小説を書くことであったなら、私はただ生きるためだけに戦わねばならないマトリックスの外よりも、その中においてはるかに良い成果を上げることができるだろう。詰まるところ、私の小説ないし哲学論文の起源や記憶はどこに存在するのか? 勿論コンピュータの中である。もし私がマトリックスの中で小説を書いて、あなたがそれを読み、一万人の他者の心がそれを読み、そして私がピューリツァー賞を受賞するとしたら、それはいかなる意味において現実のものでなかったり、価値を下げたりするのだろうか? これもまた経験機械との相違点である。経験機械の中では、私は自分が見事な小説を書いて人々に賞賛されていると感じるように、機械をプログラムすることになる。現実には誰も私の小説を読まないし、私自身もそれを書いた記憶をプログラムされただけで、実際には何もしていないのだ。だがマトリックスの中では、私は偽りの記憶を与えられることなく、実際に他者の心と交流を持っている。我々の知る物理学は偽りのものとなるだろう(勿論マトリックスの物理学はこの限りでなく、科学者たちの研究によって通常の科学同様に進歩を続ける
-- 下記参照のこと)が、芸術や人間関係が影響を受けることはないのだ。私が明らかにしようと試みているのは、我々は現実に帰属する一方で、我々が嗅覚、味覚、触覚、視覚、聴覚によって感じるものの基礎的原因となる物質それ自体には帰属しないということだ。それは分子かも知れず、コンピュータチップかも知れず、あるいはホメロスの神々の気まぐれかも知れない。実際、現代物理学や、それが主張するところの物事の“現実”を十分に理解する人間は極めて少ない。14
確かにノージックの経験機械は、我々が現実に帰属すること、実際に物事を行い、実際に物事を成し遂げ、そして単にそう思っているだけではないのだという真実に帰属することを示したかも知れない。だが我々はそのような理由から、自分たちが必然的に物事の物理的ないし形而上的構造の実態に帰属すると考えるべきではないのだ。
マトリックスの現実が、ある意味で現実世界とは異なるという問題に戻りたい。私はある物体の現実について欺かれることと、何事かの現実の物理的ないし形而上的基礎原因について欺かれることには重大な相違があると考える。後者の欺瞞や誤解を避けることは、物理学(そして形而上学)の問題である。我々が象の物理学/生物学に関して誤っているかも知れない、実際に根本的に誤っているという問題は、目の前に象の幻覚を見ること、あるいは象の夢を見ること、あるいはノージックの機械で象を経験することとは全く異なったものである。後者の三つの事例においては、人はそこに象がいるのかどうかという、物体の現実について欺かれるのだ。私は物理学や形而上学が物体の有無を確定しないと言っているのではない。もし何かが実際に他の何かの基礎的原因であるなら、それがその存在を確定するのは当然である。だが物事の現実を考えた場合、私はその真の物理的/形而上的解釈を知ることが、その物の価値や現実を増しも減じもしないことを主張する。15
あなたがこれまで信じていたことに反して、象が単細胞の海洋生物から進化したもので、その大部分は水であること、そして水は分子から成ること、そして分子は原子から成ること、そして物質とエネルギーの間には一定の相互関係があることを知ること -- これは全て、物理的現実に関する真実を理解しようとする科学の試みの一環である。これらの結論はいずれも、この世界における象の現実や価値に反駁を加えるものではない。実質の何たるかは、科学か、おそらくは形而上学の問題なのだ。ここで作品の倫理的背景が大きく関わってくる。もし我々がマトリックスの中にいるという事実が、単に現実の事物の物理的特性に関する我々の誤解ないし無知の問題に過ぎないとすれば、マトリックスは我々の通常の状況に極めて近いものになる。ただし『マトリックス』の観客としての我々の立場は、それとは全く異なる。我々は“神の目”の視点によって、何が物事の現実の原因であり、何がそうでないのかを知ることができるのだ。
ところが私が構想した慈悲深いマトリックスにおいては、我々が現在通常の物理学や通常の歴史を学んでいるように、マトリックス物理学やマトリックス歴史を学ぶことが可能である。一定の年齢に達すれば、自分の身体が実は桶の中に浮いていることを学校で教わり、それからおそらくはレントゲン写真を見たり、自分の血液を顕微鏡で覗くのと同じように、ゴーグルを着けてマトリックスの外部の世界を見ることができるのだ。そうした物理学や生物学と共に育てば、それはちょうど、じっと動かない頑丈なテーブルが驚くほど小さくて驚くほど高速に移動する部分からできていること、あるいはあらゆる身体的特徴がDNAのコードによって決まること、あるいは赤ん坊の誕生について教わるのと同じくらい刺激的な(そして退屈な)ことなのだろう。そうした真実は決して明白なものでなく、また物事の外観とは根本的に相容れないにもかかわらず(現代物理学や量子力学の出す結論を考えてみて欲しい)、ごく普通のものとして受け入れられるのだ。歴史もまた当然のように続いていき、BM(マトリックス紀元前)とAM(マトリックス紀元後)の年代に分けられるのかも知れない。詰まるところ、マトリックス外部の“現実”世界では、科学者以外の人間の興味を引くような出来事は何一つ起こっていないのだ。言わば、現在の海底や月の研究と同じようなものである。地球の物理的状態に対する因果的影響を除けば、上の方や下の方で起こっていることは、人の歴史において何の役割も持ちはしない。人類の歴史は、全てマトリックスの範囲内で起こるのだ。
悪意ではなく慈愛のマトリックスを仮定することで、私が『マトリックス』の“倫理的背景”と呼ぶものが、どれほど我々の考えるそれに影響を及ぼすのかが見えてくる。倫理的背景を排除することで、慈悲深く作られたマトリックスは我々の帰属するものが物事の物理的構造や原因ではなく、だからといって単に経験でもないことを明らかにする。我々が帰属するものは“価値”を持った物事なのだ。説明しよう。
映画の中でも論じられた食の悦びの事例を考えてみよう。科学の力によって、人間が一日に必要な栄養量を完全に供給する一粒の錠剤が開発されたと思って欲しい。人間はもはや通常の方法で食事をする必要は全くない。実際、健康面に関する限り、彼らが適切な栄養の摂取を自分たちの嗜好に頼っている方が、はるかに状態は悪いのである(ファストフードの消費量と肥満に関する現行統計を見よ)。単に錠剤を飲むだけで、嗜好にまかせて何をどれだけ食べるかを決めるよりも正しく栄養を摂取できるのだ。更にまた、科学が食物をコンピュータでシミュレートする方法を発見して“フード・マトリックス”を創ったと仮定しよう。実際の栄養は錠剤から取る一方で、私は“シミュレート”されたステーキを食べることができるのだが、それは満腹感も含めて実際にステーキを味わっているかのようである。だが実際には私は何も食べておらず、栄養面ではその経験から何の恩恵も弊害も受けはしないのだ。それほど完璧な錠剤や、そこまで完璧なコンピュータ・シミュレーションの食事を想像することは難しい。そのような錠剤は単なるビタミン剤とはわけが違うし、また豆腐バーガーはシミュレート・ステーキにはほど遠い。だがもしそうしたものがあるのだと仮定すれば、人間は本物のステーキを食べることを直ちに止めるだろう。ステーキを食べることに価値を見出す人々が重んじるのは、決して本物の牛の肉塊を食することではなく(事実そのような見方は、菜食主義への転向者を増やすだろう)食べるという経験なのだ。もしコンピュータ・ステーキを食べることが、実際に我々の想定通り、本物のステーキを食べることと全く区別できないのだとしたら、自分たちが食べているのが“現実”のステーキ -- つまり屠畜された牛の肉 -- かどうかを気にする人間など一人もいないだろう。
ここで今一度、現象の本質を成す基礎的原因の何たるかについて論じよう。ステーキの風味や香りその他の原因となっているのは、牛の分子なのか、コンピュータチップなのか、それとも神の手なのだろうか。これはまたもや科学ないし形而上学の問題であり、それを食する者には何ら関係のない話である。あらゆる物質に関して、その基礎的構造が通常の原子なのか、それともコンピュータの作ったシミュレーションなのかといったことは、我々にとっては何の重要性も持たないのだ。私のお気に入りのペンは同じ書き味のままであり、私のお気に入りのシャツは同じ着心地のままである。もしこれらの物が、その基礎的構造が私の信じていたものとは根本的に異なるという意味において“現実のもの”でないとしても、我々の人生におけるこれらの物の価値には何の変わりもない。勿論、それは私の知る物理学ないし形而上学の真実には相違を生じる。だがこうしたことは、私がその物体の現実について欺かれていたことを意味するものではなく、私が価値を見出したその物体が、非・科学者としての立場から見て、過去にも現在にも存在しないことを意味するものでは全くない。16
グラウが論じた映画の一場面において、サイファーはステーキが“現実でない”-- つまりコンピュータの作り出したものである -- という知識は、彼の喜びを減じたりはしないと主張する。だがその一方で、サイファーは自分の記憶が抹消されて、もはやマトリックスがマトリックスであることを思い出さなくなるときが来るのを待望するのである。だが私には不明瞭に思えるのが、なぜサイファーがステーキを十分楽しむために、それが本物でないことを完全に忘れる必要があるのかという点である。彼自身はそれを理解している様子なのだが、なぜ彼がその内部における人生を心地良く満ち足りたものにするために、自分がマトリックスの中にいることを忘れる必要があるのだろうか。快適で充実した人生を過ごすために、彼が何としても忘れなければならないのは、彼の仲間を始めとして人類解放の戦いに身を投じるマトリックス外部の人々に対する、彼自身の不道徳かつ卑劣な裏切りの記憶なのだ。だがこれはまたしてもマトリックス自体からでなく、作品の“倫理的背景”から生じる論点である。
根本的に異なる基礎的構造を持つからといって、物事が夢や妄想の中の単なる幻覚のように、現実のものでないということにはならない。今一度、我々の人的交流の事例を考えて欲しい。もし私の親しくしている人間が結局は人間でないとしたら、ちょうどノージックの経験機械か、あるいは私がトム・ウェイツの親友だった夢と同じように、そこにはその友情が現実のものではないという明瞭な感覚が存在するだろう。私が誰かと交流を持っているつもりでも、現実には交流などないのだ。重要なのは、私が実際に他の自由な心と交流しているかどうかである。私はここで心を持つとはどういうことか、あるいはその心が“自由”であるとはどういうことかを論じるつもりはない。ただしそれが何であれ、私はその価値が、物理学ないし形而上学のいかなる理論にも重大な結びつきを持たないことを主張しておこう。自由な心の存在の原因や解釈が何であろうとも、重要なのはそれを持つこと、そして他のそうした心と交流する能力なのだ。もしトム・ウェイツの基礎的構造が、血肉の代わりにコンピュータ・チップだったとしても、それがどんな違いを生じるだろうか? これは彼が実際にそこにいるのかどうかといった彼の“現実”に関する問いではなく、彼の物理的ないし形而上的構造に関する問いである。もし彼が心を(それが何であれ)持っているとすれば、そして彼が自由意志を(それが何であれ)持っているとしたら、彼がどんな身体器官からできていようといまいと、それは私が気にかけるようなことだろうか?17
私としてはむしろ、実際の世界でそんな器官を少しでも見たり、直に触れたりせずにすむことを心から望みたい。
3.『マトリックス』 によるマトリックス
私が結論しようとしているのは、『マトリックス』自体が立証するように、奴隷化と欺瞞を排除するならば、我々はマトリックス内部での人生を選択するだろうというものだ。私はここまで、慈悲深く作られたマトリックスの現実を我々がどう感じるかということを考察してきた。だが『マトリックス』では、マトリックスの大義は明らかに慈悲深いものではない。人間たちは、見るからに恐ろしい機械たちの奴隷として搾取されている。『マトリックス』は、人類を救うために戦う少数の人々の物語なのだ。だからこそ作品に興奮やスリルが生まれ、観客はヒーローたちが敵を打ち破ることを願うのである。この映画は勿論、観る者が人間たちを応援することを期待する。だが、私は『マトリックス』 におけるマトリックスの活用法には、何らかの二重性が作用していると考える。ネオは人類の救済者であり、観客にとってこの作品の一番の面白さは、ネオとその仲間たちがマトリックスを操る術を学ぶところにある。ネオの最終的な成功の鍵となるのが彼の訓練だ。彼は訓練の中で、コンピュータの作り出す集団の夢であるマトリックスが、人間によって操作可能なことを学ぶのである。これはつまり、外見に惑うことなく事物が現実のものでないことを深く信じるなら、その人間はマトリックスの現実を操作できるようになるということであるようだ。銃弾より速く動き、ヘリコプターにぶら下がり、空を飛び -- といったまさに超人的行為が可能となることに、ネオも、彼を見ている我々もスリルを感じるのだ。だがここで我々は、ネオの偉大さ、彼が救世主であることは、マトリックスの存在があればこそなのだという点に留意すべきだろう。マトリックスの外では、ネオは利口なコンピュータおたくに過ぎない。彼は実際には空を飛べないし、銃弾から身をかわすこともできないのだ (フルレングスのブラック・レザーコートを着ることも明らかにないだろう、可能ではあるのだろうが)。我々観客が『マトリックス』を楽しめるのも、マトリックスのおかげである。もしマトリックスが存在しなければ、人々は太陽のない世界で不味い粥を食べながら、単に生存のための戦いを繰り広げるに過ぎない。これでは酷い世界の酷い映画になってしまう。この作品の前提となっているのは、マトリックスを破壊して人類を“解放”することの倫理的義務である。だが観客が得る満足感、そして主人公たちが自らの目的意識や自負心から得る満足感は、全てマトリックスから導き出されるものだ。マトリックスの恩恵を被っているのは、何もサイファーのステーキばかりではない。モーフィアスが手錠を引きちぎることも、トリニティが重力に反して跳躍することも、そしてネオが銃弾をかわすこともそうなのである。私の議論が正しければ、『マトリックス』のアイロニーは、地球の状況が最悪のままであるとして、全ての時間を人類のマトリックスからの解放に費やすヒーローたちには、あとからマトリックスに戻ることを選ぶ十分な理由があることだ。これはマトリックス自体が本質的な悪ではないためであり、実際私は、我々の現実もまさにマトリックスではないのかと論じてきた。我々が常に望むのは、いずれにせよ、それを我々自身で支配することなのだ。我々がその力で何をするのかは、おそらく心理学者たちに任せるべき問題だろう。だが何はともあれ、人間がこれまでにやってきたことを考えれば、私は我々が何らかの力によって末長く奴隷として欺かれ続けることを望むのである。18
イアコヴォス・ヴァシリオウ
脚注
1. ここで触れるにとどめておくが、作品が提起するもう一つの論題は、その筋立ての倫理的背景をどう評価するかである。正義は本当に人間たちの側にあるのだろうか? 詰まるところ、機械たちを根絶するために太陽を覆い隠したのは彼らなのだ。とりわけ自分たちが進化の次の段階に過ぎないのだとする機械たちの主張に鑑みて、我々は人間たちの状況評価に何らかのあるまじき“種偏見”が作用していないかどうかを考えるべきだろう。私は議論を進めるために、人間たちが倫理的に正しいと仮定する。彼らの自由のための戦いが、確かに弁護可能な立場であることは、つけ加えておいてもいいだろう。例え機械たちが進化の次の段階であり、また一部の人間が機械たちを不当に扱ったのだとしても、それが全人類の強制的な永久奴隷化を正当化することには全くならないのだ。それに加えて、我々に比べて“より進化した”(とされるが、未だ定かではない)種の存在が、我々から人間としての権利を剥奪すべきものでないのは当然である。
2. 更にもう一つの理由は、我々もまた現実を支配したいからである。下記参照のこと。
3. ストア学派は自然界および宇宙全体を、それ自体が包括的目標ないし目的を持った理性的な生物であると考えた。
4. この主題は全編を通じて論じられるが、特に“省察 一”と“省察 四”を参照せよ。
5. ホメロスの事例のように、例え欺瞞の代理人として行動する神々がいないとしても、 狡猾な現実がその本質を我々から隠そうとしているという考え方は非常に古い。例えばソクラテス以前の哲学者ヘラクレイトス(紀元前540-480年頃)は「不明な連関は明瞭なそれよりも強い」そして「自然/(物事の)現実の構造(phusis)はそれ自身を隠すことを好む」と書いている。
6. モーフィアスとその仲間たちは、技術的洗練と宗教的象徴主義の興味深い混合物である。
7. より厳密には、これを達成した人々がである。
8. 勿論モーフィアスとそのクルーに対しては -- そして、もし十分に思慮深ければ機械たちにも -- 何がマトリックス外部の現実を形作るのかという同様の問いが提起され得る。それは誰の責任によるものなのだろうか? 我々には彼らが、私が述べてきたようなやり方で、神や自然法則等々に非難の矛先を向ける様を想像することができる。
9. この詳細は、自発的にせよそうでないにせよ、人類が電池として使われているのかどうかという論点をめぐる困惑を避けるためのものに過ぎない。
10. ノージックの事例を明確に説明したグラウのエッセイを、読者諸氏はすでに読んでいるものとして話を進めたい(このエッセイは、ここから読むことができる)。
11. グラウの“夢の懐疑主義”を参照せよ。唯我論の脅威は、私にはマトリックスにおいても通常の世界でも同じに思われ、またここでの関心の対象でもない。私はただ“神の目”の視点が作品の観客に提示する真実を受け入れることにしよう。『マトリックス』によれば、我々は全員が同じマトリックスにつながれているのだ。
12. 私はコリン・マッギンのエッセイに関して、マトリックスを夢に、そしてネオのマトリックス支配を“明晰”夢にと、あまりにも性急に同化させているのではないかと考える。マトリックスが“知覚表象”ではなく“イメージ”を扱っているに違いないとする点では、マッギンは正しいのだろうが、マトリックスの経験と夢経験との間には重大な相違点がある。第一に、夢の中に包含されるのはあなた自身の心のみである。『マトリックス』は、少なくとも集団の夢でなければならない。私はこれまでに、一人の心が他の人々の心と実際に交流していることが、マトリックスの現実の価値を評価する上で重要だという事実を論じている。このことは、人の夢を支配するという実に明快な発想を複雑なものにしている。なぜなら、その人間が意識しているイメージを“変更”できるのは、単に一つの心だけではないからだ。私はここでの仮説の整合性については確信が持てない。例えば少年がスプーンを曲げるとき、ネオはこれを“見る”。つまり自らの環境に対する少年の支配は、彼の心とネオの心の両方に知覚可能なのだ。だとすれば少年は“現実”にはネオの心の中にあるもの -- 要するにネオにとってのスプーンのイメージ -- を変更しているに違いない。だがもしネオがそのスプーンを、少年が曲げるのと同時にまっすぐにするとしたら? 勝利を収めて他の人々の心に知覚されるのは、どちらの明晰夢なのか? 意志の強い方、とでもいうのだろうか? 第二に、マトリックスでは心の中の“イメージ”は現実に人を殺すことが可能であり、また定期的に殺してしている。つまり、マトリックス外部の身体を殺すのである。ろくでもないホラー映画を除けば、夢のイメージが実際にあなたを殺したり、あなたに血を流させることなどあり得ない。単なる“イメージ”がこうした影響力を持つと理解するのは難しく、従ってマトリックス内部の普通の人々の状態を“夢”と呼ぶことには、いくつかの問題があるように思われるのだ。次の注も参照のこと。
13. 勿論、我々が望むなら、マトリックスの経験を映画同様に“夢”と呼ぶことは可能だ。だが我々は、モーフィアスに面会する以前のネオが、マトリックス内部での“就寝”時に夢を見ていることを忘れてはならない。従ってマトリックスにおけるそのような“夢”と、ネオが“起きている”ときの“集団の夢”との間には、何らかの区別が必要である。
14. この文章は、現代物理学が現実の真の本質に関する人間の最善の理解を象徴することを暗示するが、これは勿論議論されるべき主張だ。
15. 何事かが実際に現実であるか幻想であるかを、私が知っているのかどうかという問いは、常のごとく合理的でもあり不合理でもある。本エッセイでは、私はいかなる懐疑的な問いも回避している。マトリックスにいることはそれらに影響を及ぼさないというのが、私の議論の一つであるからだ。
16. 我々が物事の現実の何たるかに好奇心旺盛で、その概念(何がそれらを引き起こすのか、それらはどうやって生まれたのか、それらはどうやって滅するのか、等々)を持つ限りにおいて、あらゆる人間は“科学者”と見なされるのかも知れない。だが同時に我々は、他者や物体や活動に対して、それらの生来の価値、それらが現実の正確な説明とは無関係に保ち続ける価値ゆえに興味を持つのである。
17. 心を持つということの真の意味を考えた場合、もし人だと思われたものがそうした基準を満たさなければ、彼は結局のところ人ではないということになるのだから、私は間違いなく気にするだろう。例えば、もし誰かが機械には“自由な心”を持つことができないことを何とかして証明したなら、私は自分の友人が機械であるかどうかを気にするだろうが、それは副次的な関心に過ぎない。彼が機械であったなら自由な心を持つことはないという仮説ゆえである。私の論点は、価値の源は“自由な心を持つこと”あるいは“人であること”のみであって、何が人を人たらしめるかという正確な理論ではないということだ。それゆえに私は、物理的ないし形而上的な正しい心の評価に関する無知や欺瞞は、心を持つことの価値に疑念を投げかけるものではないと主張しよう。他者の心に関する懐疑主義 -- 他者の心は実在するのか、そして我々はいかにしてそれを見定めることができるのかという問い -- には、私は全く触れていない。私は、作品が我々に告げる真実を当然のものとして受け入れよう。すなわち、他者の心は存在するのだ。他者の心の問題は、先述の唯我論のようにマトリックスの内外で同等の意味を持つ。
18. 本エッセイの初期稿に関するクリス・グラウおよびビル・ヴァシリオウの論考に謝意を表する。