東は東、西は西:
ファースト・マトリックス論考
リチャード・ハンリー

ファースト・マトリックスが、誰も苦しまず、誰もが幸福になる完璧な人間世界として設計されたことを知っていたかね? 大失敗だったよ。
エージェント・スミス(モーフィアスに語った言葉)

そして神は、人々の目から全ての涙をぬぐい去るだろう。もはや死はなく、悲しみも、叫びも、またいかなる苦痛もない。先のものが過ぎ去ったからである。
ヨハネの黙示録:第21章第4節、欽定版新約聖書

地獄とは -- 他の人々のことだ。
ガルサン(サルトル「出口なし」より)

俺たちの衝動を否定するってことは、俺たちが人間である根本のところを否定するってことだぜ。
マウス(ネオに語った言葉)

サイファーはマトリックスを選択するが、おそらくそれは、思うほど無茶な話でもないのだろう。もし現実の人生の先行きが暗ければ、明らかに次善のものでしかないマトリックスでさえ、総体的にはより良い選択肢なのかも知れない。1 だが、あなたや私のような個人にとっての最善の実存とは何だろう? 哲学と宗教は共にその答えを追い求めてきたが、『マトリックス』はそれを興味深い形で提示する。可能性としての“現実の”実存は、いかなる可能性としてのマトリックスにも優るものだろうか? それとも可能性としてのマトリックスは、いかなる可能性としての現実にも優るものだろうか? 私はマーク・トウェインの助けを借りて、最善の実存の重要な一概念であるキリスト教の天国とは、要するにマトリックスなのだという議論を提起しようと思う。私の論争的アプローチの眼目はキリスト教批判ではなく、むしろ究極的価値の本質という問題により明確に焦点を合わせることにある。

マトリックスとは何か? モーフィアスはネオに対して、それが「コンピュータによって創り出された夢の世界」であり、「神経系統の双方向式シミュレーション」なのだと説明する。つまりは仮想環境である。2 エージェント・スミスはサイファーに対して、マトリックスに永久復帰しても自分がその中にいることは決して思い出さないと請け合う。これがマトリックスに必須の特性であり、一方コンピュータに創り出されたものであることはそうでないと考えれば、解説も簡単だ。作品で描かれるマトリックスは複合的な事例である。なぜなら、批判分子たちはそれが現実だと惑わされることなく、そこに入ることができるからだ。ここで“純然たる”マトリックスでは誰もが暗愚であり、それを“本物”だと信じるものと規定しよう。以下においては、純然たるマトリックスを中心に論じていく(また作品で描かれるマトリックスについては、人々の暗愚を条件とする)。異なる複数のマトリックスを論じることになるので、『マトリックス』で描かれるものの名称が必要だ。エージェント・スミスがファースト・マトリックスに言及しているので、映画に登場するものを“セカンド・マトリックス”と呼ぶことにしよう。

さて、マトリックスとは、地球規模の系統的偽装を伴った双方向式の仮想環境である。ただし仮想環境においては、二つのレベルの“双方向性”が存在する。“仮想の双方向性”は、環境があなたの入力を許可し、またそれに反応するものである。その意味では、現在の仮想環境はあまり双方向的ではないが、セカンド・マトリックスはそうなのだ。だからこそ -- 少なくとも暗愚の人々には -- 極めて現実的なものに思えるのである(批判分子たちにとってはセカンド・マトリックスは、少なくとももっと四角四面な外界に比べて、現実と思うには仮想の双方向性や支配の可能性の度合があまりにも強過ぎる)。“現実の双方向性”は、やはり“仮想の交流”に参加する他者との交流の潜在性であり、この潜在性の実現したものが“現実の交流”である。可能性としての二つのマトリックスを比較してみよう。セカンド・マトリックスは全住民が共有するものであり、人間同士の現実の交流 -- これを人的交流と呼ぼう -- を特徴とする。一方、人的交流を完全に欠くのが個体用マトリックスである。

住民共有型マトリックスは、人的交流の度合いによって様々に異なる。セカンド・マトリックスでは数十億の人間が環境を共有しており、エージェントたちの存在を無視するなら完全な住民共有型だ。というのも、ここでの仮想人間は、全員が“化身”すなわち現実の人間の仮想人格なのだ。これに対してマウスが創ったマトリックス訓練プログラムでは、赤いドレスの女などの仮想人間は化身ではなく“幻影”であり、この場面での人的交流はネオとモーフィアスの間に限られる。3 だがその一方で、モーフィアスとネオがテレビを観る完全住民共有型の“コンストラクト”(ローディング・プログラム)は、交流すべき他の仮想人間を内部に持たない。またこれは訓練プログラムとは異なり、世界を思わせるほど十分な“大きさ”も持っていない。世界を思わせるほど十分に大きく、また人的交流がほぼ必然であるほど多数の参加者を持つ完全な住民共有型のマトリックスを、“混み合った”マトリックスと呼ぼう(セカンド・マトリックスは、ほぼ混み合っている。もし批判分子を追放したなら、エージェントたちは不要となり、混み合ったものとなるだろう)。

次に、人間の実存に関する(明らかに網羅的ではないものの)三つの可能性を、それが肉体を含むものと仮定して比較してみよう。一番目は、他の人々が居住する“本物”である。例えば、あなたが主観的に別の人間との性交を経験すると、別の人間はその交わりを別の主観的視点から共有する。なぜなら、あなたはその相手と実際に身体的な性交を持つからである。性交以外の交わりについても同じことが言える。もし私がマーク・トウェインと(おそらくは彼が書いた時間旅行によって)出会うことになれば、トウェインと私は共に出会いの経験を持つことになり、物理的にも心理的にも実際に会うのである。二番目は混み合ったマトリックスである。もしあなたが(同一種間で!)性交を経験するなら、マトリックスに束縛された別の人間は、別の主観的視点からその性交を共有する。身体的な性交は勿論存在しないが、心理的な性交は存在するのだ。もし私がトウェインとの出会いを経験するなら、彼(あるいはそれ以外の人間)は、トウェインに会っている私に会っている経験を持ち、少なくとも心の出会いは存在するのである。三番目は“見たところ”混み合った個体用マトリックスである。もしあなたが性交を経験しても、他の人間は誰もあなたとの双方向の性体験を持ちはしない。これは赤いドレスの女を楽しむというマウスの誘いに応じるようなものだが、“彼女”が幻影であることにあなたが気づかない点で異なる。私がトウェインと出会うにしても、そこに他者との交わりは存在せず、またトウェインもそれ以外の人間も、トウェインに会っている私に会っている経験を持つ必要はないのである。

我々はごく普通に、“本物”にはマトリックスにない何らかの価値が存在することを直観する。あなたの現在の状態を考えてみよう。今この瞬間、あなたはマトリックスの中にいて、それが実際にはそうでない時間と場所であり、実際には起こっていない物理的な出来事が起こっていて……等々と考えているか、あるいはあなたはその中にはおらず、実際にその時間であり、その場所であり……等々のいずれかなのである。我々の多くは、自分が今現在マトリックスの中にいないことを願うが、つまりこれは他の物事が同じ(すなわち、それらの経験が主観的特性において同一である)なら、我々は“本物”の方を望ましく思うということだ。私の勘では、あなたはまた、もし自分の現在の実存が“本物”でなければ、それが少なくとも混み合ったマトリックスへの参加であることを願うだろう。“本物”の中にいることは、二つの紛れもなく明白な価値を特徴とする。すなわち、あなたの確信は真実により密接に連関しており、またあなたは他の人々と実際に交流を持つのだ。真実との連関という点で、混み合ったマトリックスは“本物”には劣るものの個体用マトリックスには優り、そしてなおも他者との数多くの交流を提供する。4 セックスに関しては、あなたには実際に他人とセックスしたという確かな感覚が存在するものの、全体としての真実には無知である。5

真実との連関が我々にとってそれほど重要であるなら、両方の実存の妙所を併せればいいのではないか? 偽りの一切ない仮想環境を持ってみてはどうだろう? サイファーはマトリックスの何たるかを知り、その知識を持ったまま、マトリックスの中に一時的に戻ることができる(また、実際にそうする)。だが永久滞在に際しては、彼は無知であることを選択する。「無知は至福」というわけだ。思うに、自分が“本物”の中にいないという知識は、そこでの経験を楽しむ能力を損ない、そのため一挙両得とはいかないのだ。6 この点でサイファーは、直観的に我々と何ら異なるところがない。典型的な男性は、赤いドレスの女との性交経験を“本物”だと考える方が、より大きな満足感を得られるだろう。これに関連して、次にファースト・マトリックスを見ていく。

I. ファースト・マトリックスとは何か?

題辞としたエージェント・スミスの言葉は、ファースト・マトリックスがセカンド同様、いくらかは混み合ったものだったことを示唆する。7 エージェント・スミスは「大失敗」についてこう語る:


我々が、お前たちの完璧な世界を描写するプログラミング言語を持っていなかったのだと信じる者もいるが、私は人類というものは、自らの現実を惨めさと苦しみによって定義する種なのだと信じている。お前たちの原始的な大脳にとっては、完璧な世界とは絶えず目覚めようともがき続けねばならない夢だったのだよ。

最初の発言が示唆するものは非常に興味深い。表情のない話し振りからは、それがマトリックスを設計した機械たちの欠陥を指すものなのか、あるいは我々の -- 我々が抱く完璧な世界という概念の欠陥を指すものなのかを判断するのは難しい。その一方でエージェント・スミスの論旨は、有神論における悪の問題という人類の思想的伝統と関連するように思われる。もし完璧な善である神が存在するなら、なぜ悪は存在するのか? なぜ世界には、様々な窮境や危険が満ち溢れているのだろう? 一般的な解答は、悪は必要だというものである。一定の善が存在するためには、悪が存在しなくてはならないというのだ。例えば、しばしば主張されるのが、幸福は苦しみを必要とするというものである。ただし、これには議論の余地がある。例え、我々が最大の幸福を得ることのできない生物であるにせよ、これでは我々を全く創らず、代わりにもっと適切に創ることの理由である。それに我々の幸福は、それほどたくさんの苦しみを必要とするのだろうか? 更に深く見ていくなら、確かに勇気や寛容といった美徳が、苦しみの存在を必要とすることは明白であるように思われる。だが臆病や無慈悲といった悪徳もまた、苦しみを抜きにしては存在し得ない。これらもまた必要悪なのだろうか?

この問いに対する最も弁護の余地のある有神論的解答は、神は創造する世界に自由な人々を存在させるか、あるいはさせないかという選択肢を持っていたのだ、という極めて微妙な“そうではない、ただし”である。自由意志は卓越した善なのだから、この選択は簡単だ。しかし、因果的非決定論が必要な自由論的自由意志を前提とすれば、神は世界を創造してみるまでは、結果的に可能性としてのどの世界が発生するのかを知ることはできなかったのである。8 運が良ければ、神は全ての自由な人々が美徳のみを持ち、悪徳の存在しない世界を創造していたのかも知れない。だがこれは、純粋に不道徳な世界と同じく到底ありそうもない話で、ほとんどの人間が美徳と悪徳を併せ持つ混在世界が生まれたのは当然である。ここで見えてくるのは、人間を包含する世界は、窮境(自然悪)を伴った正真正銘の自由選択を提供する世界であり、従っておそらくは罪(道徳悪)をも包含するだろうという図式である。これを自由意志神義論と呼ぼう。自由意志が因果的非決定論を必要とする自由論的自由意志だとするその仮定は、キリスト教の正統な信仰であり、私はこれを議論のために認めることにする。

神義論の詳細を埋めていけば、意志それ自体に焦点が合わさることになる。我々の行動は、突き詰めれば我々が欲するもの、とりわけ我々の非派生的な欲望によって説明される。9 窮境の存在する世界において、これらの欲望が全て充足されることはあり得ない。事実、個々人の間では彼らが欲するものをめぐって、しばしば軋轢が生じることになる。ある人間が自分の欲するものを得るということは、他の誰かがそうでないことを意味するのだ(思うに、神は相反する欲望を取り替えたり、あるいはそれらを一切消去することで、自由意志を排除せずに意志の一致を図ることができないのだろう)。実際、世界における他者の存在とは、道徳悪の源であることに加えて、苦しみの源である“窮境”の一部なのだ。それも、他者があなたと資源を競い合うからというだけではなく、性交の例が示す通り、ときには他者こそが資源なのである。もしあなたが誰かと猛烈にセックスをしたいのに、あなたとは猛烈にしたくないという人間しかいなければ、そのときは誰かが苦しむことになる。

もし自由意志神義論が正しければ、神が支配できるのは人間以外の環境に限られる。個々の人間は、他のあらゆる個人の環境の一部であり、従って自由論的自由意志を持つ複数の人間を一緒にするや否や、当然のように愁嘆場が演じられることになるのだ。人が互いに与える影響を極小化することは可能だが、それには彼らの交流を(例えば一人一人を別々の惑星に置くことによって)極小化するしかない。その場合でさえ、人が交流を(生殖行為などの我々が欲するものに達する手段として、そしておそらくはそれ自体をさえ求めて)欲する限り、単なる隔離は問題の解決とはならない。

ファースト・マトリックスの創造者たちは、マトリックスに束縛された人間たちのために、比較的良質の実存を作ろうと試みた(機械たちが慈悲深かったのだと考える必要はない。おそらく生体電気=核融合反応プロセスは、人間たちが幸福であるほど効率的なのだ)。その過程で、創造者たる機械たちはいくつかの神の問題に直面した。彼らの創造力はいくつかの点で神のそれに劣っていただろうが、一方で制約も少なかった。何しろ、神は嘘をつかないのだから。10 ファースト・マトリックスは、なぜ大失敗だったのだろう? もし機械たちが、人の苦しみのない実存を作ろうとしていたのであれば、おそらく彼らは誤った設計を試みたのだ。すなわち、他の点では典型的な人々が居住する混み合ったマトリックスである。例え機械たちが幾多の窮境(火山の噴火や、人喰いザメといった経験)を排除したとしても、同じ仮想環境にプラグ接続された他者との交流が存在する限りは、性交の事例からも明らかなように誰かが苦しむことになるのだ。この試みは“誰も苦しまない”マトリックスを作りはしないし、そのような示唆は、エージェント・スミスの「誰もプログラミングを受け入れようとしなかった」という言に不幸にも一致する。これは切り捨てることにしよう。

そうなると、二つの基本的な選択が残されることになる。すなわち機械たちがファースト・マトリックス内部の人々の本質を(例えば全ての意志の一致を図ることで)大幅に変更したか、あるいは個々の人間のために個体用マトリックスを創造したかである。個体用マトリックスの利点は、仮想環境を完全に個の欲望に合わせて調整できることだ。おそらくマトリックスは、人間の脳から欲望の内容を“読み取る”ことで、多少の予想を加えながら、発展と変化を続ける欲望の充足に可能な限りプログラムを合わせるのだ。

おそらく個体用マトリックス群は、機械たちの実用的資源を超えるものであっただろう。だが彼らがこのような手段を取ることは、原則としては明らかに可能なので、そうではなかったのだと仮定しておく。しかしながら、もしキリスト教徒の言う通りに我々の意志が未決定のものであるなら、我々の欲望を完全に予期することは不可能である。我々の欲望の発展と、それを満足させるマトリックスの能力との間に隔たりが生じることは避けられず、よって何らかの苦しみは必然なのだ。これはエージェント・スミスの言を部分的には説明するものの、またしても「誰もそのプログラミングを受け入れようとしなかった」理由の説明とはなっていない。

彼の発言の説明として考えられるのは、もはや二つのみである。すなわち、人間が生来プログラミングによって変更され得るものではなかったか、あるいは、未変更の人間が当該仮想環境を受け入れることは心理的に不可能だったかである。エージェント・スミスの論旨は、後者であるように思われる。“完璧な世界”は信じられないほど素晴らしい話であり、事実、信じられなかったというわけだ。11 我々人間にとって、苦しみのない幸せな実存とは取得不可能なものでしかないのだろうか? そんなことはない、というのが一般的なキリスト教徒の考え方だ。彼らによれば、そのような実存が我々を待ち受ける場所こそが“天国”なのである。

II. 天国とは何か?

キリスト教による天国の概念は、確固たる教理にはほど遠い(例えば、黄金を敷き詰めた街路は文字通り存在するのか、それともこれは、何か想像し難いほど素晴らしい状態の隠喩に過ぎないのだろうか?)。それにもかかわらず、天国では人間の状態がこの時この場所でのものとはかなり違うことが、それなりの権威をもって断定されている。“並々ならぬ喜び”(欽定版聖書に4度登場する表現)は勿論、苦しみの不在も認められているのだが(題辞を見よ)、我々はそこで具体的に何をするのだろう? この点に関するいくつかの一般的な主張には、困惑せざるを得ない。マーク・トウェインの「地球からの手紙」では、天国を追放されたサタンが、人間の信仰について仲間の天使たちに次のように報告する:

例えば、こういうことがある。人間が天国を想像するとき、彼のあらゆる喜びの中でも最高のもの、彼の種のあらゆる個人の心の中で -- そして我々の心の中でも -- 何よりも真っ先に浮かんでくる一つの法悦、すなわち性交は、そこから完全に除外されてしまっているのだよ。

……人間の天国は、連中自身にそっくりだ。奇妙で興味深く、驚異であり、そして醜悪。誓ってもいいが、そこには彼が本心から尊ぶものは何一つ存在しないのだ。あるのは、彼がこの地上では無関心も同然なのに、天国では好きになるのだと思い込んでいる戯れ事ばかりなんだよ。好奇心をそそられないか? 興味深いと思うだろう? 私が誇張しているなんて思うなよ、そうじゃないんだから。詳しく説明しよう。

ほとんどの人間は歌を歌ったりはしないし、歌えもしない。他の人間の歌が二時間以上も続けば、たいていの人間はどこかへ行ってしまう。……人間の天国では、誰もが歌うんだ! 地上では歌わなかった人間が、そこでは歌うんだよ。地上では歌えなかった人間が、そこでは歌えるんだ。この万人による合唱は時々のものではなく、時折のものでもなく、一定の間隔で静寂に取って替わられることもない -- それは延々と続くのだよ。それは十二時間にもわたって終日続き、そして毎日続くのだ。しかも誰もがその場に留まるのだよ、地上だとそこは二時間でもぬけの殻になるのに……

サタンのリストは長く、そしてしばしば傑作である:


私が最初に述べた驚くべき事実を思い出して欲しい。すなわち人間は神々と同様に、性交を当然のように他のあらゆる喜びのはるか上位に据えながら、それを自分の天国から除外してしまったという事実だ! 人間はそのことを考えるだけで興奮し、いざ実行ともなればもう無我夢中だ。その状態においては、自分の人生も名声も何もかも – 彼の奇矯なる天国自体さえも -- 二の次で、後はひたすらその痺れるような絶頂に向かって突き進むばかり。若者から中年まで全ての男女は、他のあらゆる快楽を一緒にしたものよりも交わりを重んじるのだ。ところが、実際には私が述べてきた通り -- 彼らの天国にそれは存在せず、祈りがそれに取って替わるのだ。

彼の観察の主要部分をまとめると:(1)人間は、自分が天国でこの上なく幸せになるものと考えている;(2)人間は、地上では喜びの極みと見なす活動を、天国においては一切追求しない;(3)人間が自分が天国で追求するだろうと考える活動は、彼がこの地上では極力避けるものである。価値が一貫しないこの状況を“トウェインの当惑 ”と呼ぶことにしよう。マウスの言葉を借りるなら、我々は自分自身の衝動を否定することで至福を得られると考えているようだ。サタンは、天国には「(人間)が本心から尊ぶものは何一つ存在しないのだ」として、この当惑を幾分誇張している。実際には人間は例えば、自分が天国でも喜びを重んじ、苦しみには価値を見出さないと考えている。サタンの趣意は、人間は天国では自分の欲望が全く異なったものになると考えているらしい、ということだ。現在は全く欲しないものを必死に求め、現在は必死に欲するものを一切求めないというのである。

人間は、天国では自分の意志が異なったものになると考えているのだろうか? それは場合による。心理学的快楽主義は、人間には実際のところ二つの非派生的な欲望しかないと考える。快楽の獲得と苦痛の回避である。これが真実なら、何が快楽をもたらし、何が苦痛を遠ざけるのかという自分の確信を変えるだけでは、人間の意志は変わらない。もし心理学的快楽主義が真実でなければ(そしてキリスト教徒は、賢明にも真実ではないと考えているようだが)、人間は天国で自分の意志が変更されることを予期するという主張(サタンの主張ではあるが)が可能となる。

サタンに反対の立場から、少なくともセックスに関してはそのような衝動は否定されるべきものであるというのがキリスト教の立場であり、また欲求充足の執拗なる追求は、意志の脆弱性の問題として教徒個人の中に存在するのであり、教会憲章に内在するものではないのだと論じることができる。またそうした衝動に屈することは、実際には苦しみを招くのだと論じることも可能だろう。例えば既婚男性の浮気といった場合において、彼の罪悪感はおそらく完全なる享楽の妨げとなるだろう。天国には婚姻が存在しない(と、イエスは語る -- 例えば、マタイ福音書の第22章第30節を見よ)のだから、心理的に“安全”な性交相手がいないとすると、あなたはそれを行うことに必然的に罪悪感を持つだろう。だとすれば、苦しみの排除にはセックスの排除が不可欠となる(勿論、サタンとマウスは、これが婚外セックスは悪だという信条を前提としており、それは天国では誰もが喜んで捨て去る観念なのだと反論するに違いない。また、その考えには一理ある。だが問題は、それが真実であるか否かではなく、典型的なキリスト教徒が何を信じるかということなのだ)。

そこで何をするのかという問題はさて置いて、キリスト教の説く天国の信奉者たちは、一般に以下の四つの論旨を掲げる:

(1) 人間は天国に行くことができる。より厳密には、全てが順当に行けば、肉体の死を乗り越えて天国へ向かうのはあなたである。
(2) 天国の人間は幸福を経験し、不幸は経験しない。
(3) 天国の人間は自由意志を持つ。
(4) 天国の人間は、天国の他の人間と交流する。

(1) については、詳しく論じる価値があるだろう。一般にキリスト教徒は、天国で自分の愛する人々を理解することを期待しているが、これには相手を覚えていることが必要であろう。12 よって彼らは、自分たちの地上での実存と天国での実存との間に、少なからぬ心理的連続性を期待しているようだ。神は嘘をつかないという要件もこれを保証するだろう。だがそのような心理的連続性は(2) にはうまくそぐわない。地上のキリスト教徒たちは概して、不信心者たちが天国に行かないという事実に心を痛める。だが彼らが天国の摩訶不思議に直面し、救われぬ者たちが“火と硫黄の燃える池”ではなく天国にいることを知ったなら、彼らはむしろ更に心を痛めるだろうと思われる。また、もし最愛の人々の誰かが天国に不在であったなら、それは大変な苦悶の原因となるだろう(この問題の別バージョンは、愛する人々の不在を寂しく思うことから生じる。あなたは彼らのために悲しいのではなく、彼らがそばにいない自分のために悲しいのだ。例え地上での配偶者とのセックスを懐かしむことはないとしても、彼らのことは懐かしむだろうと思われる)。

天国はまた、地上で知ることのなかった人々と出会う機会を提供するものと広く考えられている。だが、もし私が天国でトウェインに会うことを強く望むなら、彼がいない場合にはひどく失望するだろう(そしてそれが件の「手紙」のせいであったなら、立腹するだろう)。それに加えて、天国ではある種の真実を知り得るだろうと思われる。仮にあなたがマザー・テレサの崇拝者であり、一刻も早くそのことを本人に伝えたいのだとしよう。ところが、あなたは彼女が実は聖女などでなく -- それどころかその正反対の人間で、天国にさえいないことを知るのだ。あなたはあなた自身のためだけでなく、人類のために憤慨するだろう(あなたは人間の本質というものに対して、何とも冷笑的な姿勢で応じるかも知れない)。こうして見ると、天国とは幾多の苦しみの機会を提供する場所のようである。

こうした問題には三つの基本的な対処法がある。まず最初に、普遍救済説 -- 誰もが天国へ行くのだという教義 -- が真実だと仮定しよう。これが問題を解決するのは、天国に行くことについて、キリスト教徒がもはや何の資格も必要ないと考える場合に限られる(さもないと彼ら、とりわけマザー・テレサのように聖人然とした人々は、他の人間が“無料パス”を手にすることを不快に思うだろう)。第二に、神は天国に他の人間がいないという知識を抑圧することができる。だがこれはマトリックス的な偽装(非化身たちとの適切な仮想交流を提供するか、あるいは不在者に関する全ての記憶を削除する)を必要とし、天国は“本物”ではなくなる。第三には、おそらく我々の関心事 -- 我々の欲望 -- は変化し、もはや善良なるキリスト教徒は他人が苦しんでいるという事実を、例えそれが最愛の人々であろうと、気にしなくなるのだ(彼らはそれを楽しみさえするかも知れない)。だがこれを受け入れることは、トウェインの当惑の深刻なバージョンを提起する。

結局のところ (2) は以下のように修正する方が良いかも知れない:

(2*) 天国の人間は、可能な範囲内で最大限に幸せになる。

従って我々は、天国に一切の苦しみがないというのは無理だと認めても良いだろう。ただしこれには、ヨハネの黙示録を多くのキリスト教徒ほど文字通りに受け取らないことが必要だ。

私の知る限り (4) は完全に当然のものと思われている。天国の趣意の一つは(救済された)最愛の人々と再会することであり、また他の住人との“親交”を持つことである。だが (3) はどうなのか? 自由意志神義論によれば、自由意志は並外れた善であり、よって明らかに天国は自由意志を包含しなければならない。ところが天国は罪なき場所である。そして自由意志神義論によれば、罪とは世界における自由意志の存在によって説明されるものなのだ。 (3) を否定することは、トウェインの当惑を提起することにもなる。我々は現在、自分が自由論的自由意志を持っていると確信しており、それを強く欲し、それを失うという考えには気を挫かれる。もし神が嘘をつかず、また (3) が偽りであるとすれば、我々は天国で自分が自由意志を持っていないことに気づくだろう。だが察するに、我々はそれを気にしないのだ。忘我の喜びにあり、ただし無知ではないということであろう。

 ファースト・マトリックスの建造者たちと同じく、神は人間の天国を創造する上で、主に二つの選択肢を持つ。すなわち、天国での人間の本質を(例えば (3) に反して、そしておそらく (1) にさえ反して意志の一致を図ることで)大幅に変更するか、あるいは (4) に反して一人一人の人間を個体用マトリックスに入れるかである。 (4) を否定することの一つの利点は、個体用マトリックスが仮想人間との(仮想の)交流を十分に提供する限り、 (2) が真実となる最大のチャンスが生まれることである。そのような個体用マトリックスの人々は、自分たちが“本物”の中にいるものと考えるのだ。彼らは自分が一緒に天国にいて欲しい人間は全員そこにいて、そうでない人間は誰もいないものと考える。自分が他の全ての人々と非常にうまくやっていると考えるので、悲しみもなく、罪もなく、といった具合である。神は彼らが自由に欲するものを承知しており、もし可能ならば、その通りのものを提供するために個々の仮想環境を整えるのだ(それが不可能である場合には、彼らは“本物”の中にいることを自由に欲するので、この欠如は経験されず、よって苦しみの源とはならない)。

ファースト・マトリックスに関してそうであったように、自由意志論は一つの難しい問題を提起する。なぜならあなたは、自分の欲するものが未決定であるときに、神がそれを知ることは不可能だと考えるからだ。一部の中世キリスト教徒は、不変かつ遍在する神は、すでにその場所に在って何が起こるのかを目にすることで(因果的に未決定の)未来を知るのだと仮定して、自由意志と神の先見との適合性の問題を解決した。神があなたのすることを知っているのは、あなたがそれをするからであり、その逆ではない。よってあなたはそれを自由に行うのである。天国に時間が存在する限りにおいて、同様の解決はここでも適用できる。すなわち、神はあなたがいずれ欲するものを、未来に在って(言わば)あなたの心の中を覗くことで、あなたが欲する前に知るのである。13

(1)と(2*)を所定のものとする場合、(3)と(4)を共に主張することは可能だろうか? この可能性には論理的な余地が存在する。もし天国が創造サイコロの幸運の一振り -- 自由な人々が常に正しい選択をする世界 -- であれば、(3)が真実であると同時に天国に罪が存在しないことはあり得る。天国で罪を犯すのは自由だが、単にそうする者がいないというわけだ。ここで直ちに問題となるのは、実際にそのような偶然が起こるとは、とても考えられないことだ。おそらく我々は、この状況と神による創造のそれとの相違点に注意を喚起することができるだろう。すなわち、神は自由な個々人の行動を観察する機会を持っており、相応しい者たち -- 地上にいる間に実際に罪を犯さない人々 -- だけを迎え入れるのだ。だがこれでは、天国に行く人間はほとんどいないだろう。更に悪いのが、これは清廉なる人々が天国の永遠の中で決して罪を犯さないことを帰納的に裏付けはしても、それを保証するものでは全くないと思われることである。

決まって主張されるのが、天国で罪を犯すのは自由だが、ある意味誰にもその能力がないので、何も起こらないというものだ。ようやく神と共にあるときに罪を犯せる者などいない、というわけである。このことは二つの明確な問題を提起する。第一に、そのような無能が自由論的自由と両立するとは思われず、結局は(3)を偽りのものとして描き出すこと。第二に、もし人間が自由論的自由意志を持つことと、罪を犯す能力がないことの間に両立し得ないものがなければ、自由意志神義論は瓦解するように思われることだ。神は恩恵ばかりで不利益の存在しない天国を創造して、あとは知らん顔することもできたということになるのである。

罪の問題に加えて、我々は、互いに交流する全ての自由な人々が対立する欲望を一切持たない、といったことがどうして可能なのかという疑問を持つかも知れない。サタンが観察したように、それは我々の欲望が根本的に変わるということに違いない。だが、何がこれを保証するのだろうか? もしそのような変化が必然であるなら、自由論的自由は再び脅かされることになる。それに、欲望を根本的に変更された我々がともかくも自由であるのなら、そもそも神はなぜこの技を使って、地獄に堕ちた全ての魂を赦免しなかったのだろうか? おそらく我々はマウスの論点も考慮すべきなのだ。もし我々の欲望があまりにも根本的に変化するなら、我々はそれでもまだ(1)が主張するように人間なのだろうか?

III. 結論

ファースト・マトリックスの失敗に関する二つの説明は、おそらくどちらも正しいのだ。機械たちには我々の“完璧な世界”がプログラムできなかったのだ、という示唆を思い出して欲しい。おそらく我々の思考には一貫性が欠けているのだ。我々は、最善の実存とは人間が互いに交流し、かつ誰もが自由論的自由意志を持ち、かつ誰もが苦しまない場所であり、そして何者かが意図的にこれを手配するのだと考える。これが一貫しない概念であるなら、それを実現することは神にさえ不可能なのだ。

セカンド・マトリックスを創造する中で、機械たちは自由意志(これを我々は自由論的なものと想定する)および圧倒的な苦しみの可能性(実際問題として“必然性”)と結びついた交流を求めた。我々は今ならエージェント・スミスの言を説明することができる。もし我々が、最善の実存に関する我々の一貫しない概念要素に等級をつけるなら、人的交流と自由論的自由意志は苦しみの不在の上位になる。そして、それらは共に苦しみの存在を(ほぼ本質的に)必要とするので、我々は概ね真実のものとして「人類は惨めさと苦しみによって(最善の)現実を(も)定義する」のだと言うことができるのだ。ファースト・マトリックスは、交流する人間たちに苦しみのない実存を与える試みであった。だがこのプログラムは自由論的自由意志に反し、彼らの意志の根本的な修正を要求した。それゆえに「誰もそのプログラムを受け入れようとはしなかった」のである。マウスなら、それが人間の本質そのものを否定する試みだったと言うだろう。

もし“本物”が自由論的自由意志を包含するなら、セカンド・マトリックスもまたそうである。我々の欲望は、しばしばかなり満たされないものではあるが、結局のところ未決定のものである(人類がマトリックスから解放されるという感覚は、獄中でさえ享受できる自由論的自由意志とは一切関係ない)。セカンド・マトリックスはまた、居住者たちの意志の様々な偏差と、そこに提起される興味深い倫理的選択を特徴とする。例えばエージェント以外の仮想人間はそれぞれ化身であるが、映画の中の“正義の味方たち”は、エージェントとの闘いの最中に多くの人々を殺すことになる。マトリックスの本質を考えれば、これらの人々を協力者と見るのは難しい。よって彼らの死は、望ましい結果の相違を考えれば不可避であり、おそらくは許容できる付帯的損害と見なされるのだろう。全体として見れば、セカンド・マトリックスとは、神が世界の創造を通じて為したされるものに匹敵せんとする、機械たちの最善の試みなのである。14

我々人間が天国に目を向けるとき、我々の価値の序列は変化するように思われ、そしてトウェインの当惑が新たに生じる。天国では、苦しみの不在に対してより大きな比重が置かれる。神は人的交流を維持する一方で“本物”の中の苦しみを意図的に極小化することができるが、そのためには自由論的自由意志という代償を払わねばならない。だが天国がいかなる苦しみも包含しないとされること、そしてキリスト教の見解における自由論的自由意志の並外れた価値を考えれば、神の選択は明白だ。すなわち、天国とは個体用マトリックスなのである。15 神でない機械たちには“天国が他の人々でない”ことは分からなかったのだ。16 東は東、西は西、両者(twain)は終ぞ相見えず -- トウェイン(Twain)と私もまた、決して出会うことはないのである(天国では、ということだ。いざとなれば、件の“池”があるだろう)。

トウェインの当惑に関連して、一つの問題が生じる。天国以前の実存を考えるとき、我々は最善の“本物”を、最善のマトリックスよりも好むようだ。天国について考えるときには、我々は最善のマトリックスを、最善の“本物”よりも好むらしい。我々の思考におけるこの分裂は、『マトリックス』の二つの競合する未来像によって表現される。一方はマトリックスであり、もう一方は私が正しければ、皮肉にも天国にある神の聖都の名を持ち、地球の内部にあって、マトリックスにいない人々が居住する場所 -- ザイオンである。

リチャード・ハンリー

脚注:

1.  クリストファー・グラウのエッセイ「経験機械」を参照のこと。更に言えば、まずはグラウの全てのエッセイに目を通すことをお勧めする。

2.  これだけでは形而上学者は満足しないだろう。“マトリックス”はラテン語の“母親”に由来し、また本来の意味は“子宮”(旧約聖書ではこの意味で5回使われている)もしくは“妊婦”であった。いくつかの文脈においては、内部で物質を成長・発達させる一種の基質を意味する。この語源を思えば、マトリックスは惑わされた桶の中の人々を包含した具象物であり得たのかも知れない。より現代的な“マトリックス”の意味は、数学における“記号の方形型配列”である。おそらく“マトリックス”(明らかに、映画以前にウィリアム・ギブソンが「ニューロマンサー」で使った表現を借用したもの)は、我々が環境自体とは区別する仮想環境をコード化する記号の配列を示すのだ。だが、ネオが最終的に“マトリックスビジョン”とでも呼ぶべきものを介して目にするように、『マトリックス』からは環境そのものが記号配列なのだという印象を受ける。その具象世界的外観が、下位の知覚認識であるように思われるのだ(従ってよく知られるプラトンの洞窟の寓話同様、マトリックスは寓意的なものに思われる。ネオはマトリックスからの解放によって自らの本質について啓発され、最終的にはマトリックスの真の本質を知るのだ)。とは言え、ここで私が関心を持つのは事物の具象世界的外観なので、ネオの可能性については無視することにしよう。

3. 私は“幻影”を次のような意味で使う:「単に特定の事物の形状または外観を持ち、その実質ないし正しい特性を持たない何らかのもの。何かの単なる形像、まことしやかな模造品ないし類似物」(オクスフォード英語辞典)。これはまた『マトリックス』に影響を与えると同時に作品でも使われた「シミュラークルとシミュレーション」の著者、ボードリヤールへの会釈でもある。拙文「ボードリヤールとマトリックス」を参照頂きたい。

4.  興味深い質問がある。より良いのはどちらだろう? セカンド・マトリックスか、それともあなたが決してその真の本質に気づくことのない、個人を欺くための非仮想環境 -- つまり“トゥルーマン・ショー”-- か? 後者は、ある意味でより真実に近い人的交流を持つ。なぜなら、あなたは実際に身体的に交流するからである。だが他の人々が偽装への自発的参加者であるという意味において、この交流は真実にもとる。考えてみるべきもう一つの事例は、人間以外の参加者(犬とか)との交流を認める個体用マトリックスだ。更に別の事例は、現実の交流の現象さえ持たない個体用マトリックスである。これを孤独なマトリックスと呼ぼう。皆さんがどう思うかは知らないが、私には孤独なマトリックスよりは、サルトルの思い描く地獄の方が好ましい。

5. セカンド・マトリックスは、いくつかの点で真実と不必要に連関しているのかも知れない。例えば人の仮想身体は、おおむね実際の身体と同じものとして描かれる(ただしこれはモーフィアスがネオに語るように、単なる“残留自己像”かも知れない。もしサイファーがマトリックスにロナルド・レーガンとして戻されたなら、それは人の化身が著しく異なるものであり得るという明白な証拠になっただろう)。この連関を断つなら、興味深い別種の人的交流が可能となる。例えばあなたはそれと知らぬまま、実は同性である(知らない)他人と異性愛の行為を経験することができるのだ。

6. キリスト教徒であれば、例え神が存在しなくても、より幸福であると論じられることがある。キリスト教の信仰を持ちやすいのが、セカンド・マトリックスの外部よりは内部なのだとすれば、それはサイファーがそこに戻るもう一つの実用的理由となっただろう。

7.  エージェント・スミスは真実を語っているのだろうか? 私には何とも言えない。彼はザイオンのメインフレーム・コンピュータへのアクセスコードを入手するために、モーフィアスの心の中への“ハッキング”を試みている。従って物語を解釈する上で、我々は彼の全ての言葉を -- つまりは、ファースト・マトリックスの実在そのものさえも -- 割り引いて聞くべきである。ただし議論を進めるために、彼が真実を語っていると見なすことは可能である。

8. 我々はここでの目的のために、自由論的自由意志の何たるかを完全に示す必要はない。重要なのは、因果的非決定論がその必要条件だということだ。因果的非決定論とは、因果的決定論(あらゆる出来事は事前の出来事によって因果的に完全決定される)の否定である。有用かつ一般的な説明は、現在または未来において起こることの全てが、原則として予言可能かどうかを問うことである。決定論が真実ならそうであり、非決定論が真実ならそうではない(未来を予言以外の手段によって知り得るか否かは、また別の問題である -- 注11を参照のこと)。我々が自由論的自由意志を持っているのだとする考えを、自由意志論と呼ぶ。

9. M我々の欲望の多くは、他の欲望および確信から派生する。例えば、ラルフが祖母にキスすることを欲する理由が、彼が祖母の遺産を欲し、それを相続するには祖母にキスすることが必要だと信じているからに過ぎないといった場合である。可愛い女の子にキスしたいというラルフの欲望のように、非派生的な欲望が確信と無関係であることは重要だ。それは言わば、それ自体のために求められるのであり、また我々が“意志”と呼ぶものを構成するように思われる。

10. これは神学による“本物”の保証だろうか? 勿論キリスト教徒はこれを否定することができる。自由意志神義論を前提として、機械たちが自由論的自由意志を持っているのだとすれば、マトリックスの存在は神が嘘をつかないことと矛盾しないものと思われる。そして、もし彼らが自由論的自由意志を持っていなければ、人間の自由意志の産物である限り、彼らは神が意図して創造した環境の一部ではない。

11. 私はウィリアム・ギブソンの「カウント・ゼロ」の一節を思い出す --「彼は両目を開くと、それをソケットから抜いて、汗ばんだ手に握りしめた。まるで悪夢から醒めるかのようだった。それも心の中の恐怖が単純な恐ろしい形を成して、こちらに悲鳴を上げさせるといった類いのものではなく -- もっと果てしなく不快な、全ては完璧で恐ろしく正常なのに、全てが徹底して間違っているという夢だ」

12. 人々は(“マトリックス身体”が実際の身体に似ているらしいのと同じく)自分たちの身体が、天国でも地上のそれと似ていることを期待するようだ。おそらくは互いを認識するためなのだが、これは無用なことに思われる。共有の記憶がその務めを果たすだろう。

13. もし神が自らの行為によって“ずる”することが可能なら、これは実に興味深い。神は未来の有り様から、自分がいずれ行うことを知っているからである。これは予言者がネオが花瓶を割ることについて持ち出したのと同じ、運命論的難問を提起する。だが神は特殊な事例である。不変の存在としての神が、未来の知識に基づいて行動することは許されず、また“彼がそうしたのは、彼がそうしたからだ”では形而上学的にほとんど意味をなさない。

14. 典型的なキリスト教徒は、自分が肉体とは別個の霊魂ないし魂であって、肉体は人的交流の手段に過ぎないと信じるデカルト派の二元論者である。だとすれば、大雑把に言って、我々の肉体は、多かれ少なかれ“混み合った”物理的環境における現実の我々の“化身”なのだ。この点でセカンド・マトリックスは、キリスト教における創造物のほぼ正反対である。

15. おそらくキリスト教徒たちは、この思いがけぬ事実をずっと知っていたのだろう。ルカによる福音書の第10章第20節では、イエスが彼の弟子たちに「……あなた方の名前が天国に記されていることを喜びなさい」と説く。ラテン語では“マトリックス”は名簿ないし登録簿(それ以外にも英語の動詞 matriculate(入学する、入会する)の語源である matricula )を意味した。意図された意味が失われることもあり得る -- 善悪の知識の木の果実が林檎だったとする概念は、“悪”と“林檎の木”の両方を意味するラテン語の“malum”をめぐる混乱に由来するとも言われている。これと同じように、翻訳によって失われたイエスのメッセージこそ、おそらくは“天国とはマトリックスである”だったのだ!

16. 人間という意味での“人々”である。これに対しては、接触する人間は少なくとも一人は存在しているという反論が出るかも知れない。つまり神である。神の欲望が人のそれと両立すると考えれば、これは議論に影響することもないので、私は容認しよう(同じく、天使たちとの現実の交流も何ら問題とはならない)。更にまた興味深いのが“プログラム”が極めて精巧なものでない限り、人は最大限の幸福を得ることはできないという示唆であり、それに続いて、我々は個体用マトリックスが仮想の人々を包含するものと見なすべきだという反論が出るかも知れない。それは例えば、天国にセックスが存在するなら架空の性的パートナー(たち)であり、彼らはおそらくあなたが実際に交流する人々なのである(例えばエージェント・スミスのセカンド・マトリックスに対する激しい嫌悪感は、個性の証拠かも知れない)。もしこれらの仮想の人々が自由論的自由意志を持つのであれば、彼らともまた、最終的に誰かが苦しむことなくして交流することはできない。よって我々は、キリスト教の天国は一貫しない概念であるという更なる議論を持つことになるだろう。