現実の価値:
サイファーと経験機械

サイファー:
俺はな、このステーキが存在しないことは知ってるんだよ。口に入れると、マトリックスが俺の脳味噌に、これが肉汁たっぷりで最高に美味いと教えてくれるんだってこともな。9年かかって俺が何を理解したか、アンタ分かるか?

サイファー:
無知の至福さ。

エージェント・スミス:
では取引成立だな?

サイファー:
俺は全部忘れるぞ。全部だ! いいな? それから俺は金持ちになりたいんだ、誰か重要な人間にな。俳優とかよ。できるんだろう、えっ?

エージェント・スミス:
何なりと君の望むままだとも、ミスター・レーガン。


サイファーは善良な男ではない。だが、彼は理不尽な男だろうか?  彼がマトリックスに再挿入されたいと望むのは、本当に正しいことなのだろうか? 彼の選択を否定したい人間は多いが、それが間違いだという理由を挙げるのは容易な作業ではない。詰まるところ、彼の経験が好ましいものになるのなら、それがマトリックスの外で待つ窮乏生活に劣ることなどあるだろうか? 経験の良否以上に重要なものとは何だろう? 思い出して欲しい -- 内部に戻って幻想の人生を生きる彼は、自分が取引をしたことさえ知らないのだ。知らないことで苦しむことなどあり得ない、そうだろう?

それ自体の中に価値を持つのは、快感を得ることだけなのだろうか? 最終的に重要であり得るのは意識される経験だけなのかという問いは、現在幾人かの哲学者たちが深く掘り下げて探究している。この問題を論ずる過程において、ロバート・ノージックは1971年の著書 「アナーキー・国家・ユートピア」で、今や初級哲学の講義に欠かせないものとなった“思考実験”を発表した。これは“経験機械”として知られるものである。

「あなたが望むどんな経験でも与えてくれる、経験機械が存在したと仮定しよう。とても優秀な神経心理学者たちはあなたの脳を刺激して、あなたが偉大な小説を書いている、あるいは新しい友達を見つけようとしている、あるいは面白い本を読んでいると思わせたり、感じさせたりする。あなたはその間ずっと、脳に電極をつながれたまま水槽に浮かんでいるのだ。人生の願望をあらかじめプログラムするこの機械に、あなたは生涯プラグ接続しておくべきだろうか……? 勿論、水槽の中のあなたは自分がそこにいることを知らず、全ては実際のことと考えているのだ。他の人間もプラグ接続によって望みの経験を得られるので、彼らの相手をするためにプラグを外したままでいる必要はない(誰もがプラグ接続したら機械の維持管理は誰が行うのか、といった問題は無視すること)。あなたはプラグ接続するだろうか? 自分の人生を内部でどう感じるかということ以外に、我々には何か大切なものがあるだろうか?」(p. 43)

続いてノージックは、例えば実際に何かをすることと、単にその経験を得ることを対比するなどして、我々には他にも重要な事柄があるのだと論じる。彼はまた、我々がある種の人間であること(そしてそうなること)に価値を見出す点を指摘する。善人である経験をしても意味がないのであって、実際に善人でありたいというわけだ。最後にノージックは、我々は現実との接触それ自体に価値を見るのだと論じる。そのような接触が好ましい経験を通じてもたらすであろう種々の恩恵とは関係なく、我々は自分が本物を経験していることを知りたいのだ。つまりノージックは、我々が自分の人生の作者であり、その人生が世界との交流を伴うことは、大半の者にとって重要 -- しばしば極めて重要 -- だと考えるだ。更にノージックは、ほとんどの人間がそのような経験機械に入ることを選択しないであろう事実は、彼らがこうした他の事柄に価値を見出すことの確かな証拠だと考える。彼はこう述べている --「まず経験機械を想像し、自分たちがそれを使わないのだと理解することで、我々は経験の他にも何事かが大切であることを学ぶのである」(p. 44)

経験機械に関するノージックの説明は漠然としているが、マトリックスのシミュレーション世界とは少なくとも一つの重大な相違点があるようだ。ノージックの示唆するところでは、経験機械につながれた人間は自ら働きかけることができない -- 彼らはあらかじめプログラムされた経験の消極的な受容者と化すのだ。この自由意志の明白なる喪失は多くの人々にとって不安なものであり、この問題に対する人々の反応を歪め、彼らが現実との接触それ自体に価値を見出すか否かという点を曖昧にするかも知れない。マトリックスは、内部の人間が自由意志と意思決定能力を保持できるように設計されているらしく、そのことでノージックの経験機械よりもはるかに魅力的な選択肢となっている。

だが、ノージックの物語における不安部分は自由の喪失ばかりではない。彼が指摘するように、我々には現実世界との接触の喪失もまた悲しむべきものであるようだ。例え完全な仮想世界の中で自由意志を認める改良型経験機械が提供されたとしても、多くの人間はなお、そこへ永久入場することは価値あるものの喪失を伴うとして反対するだろう。

サイファーとその哲学的同志たちが、こうした意見に動じることはなさそうだ。もしほとんどの人々が“現実”に執着して、経験機械への永久入場というオファーを拒絶したらどうなるのか? 彼らは間違っているかも知れないし、そうした反応から明らかになるのは、彼らが迷信深いこと、あるいは不合理であること、さもなければ混乱していることだけかも知れない。おそらく彼らは機械の故障を心配しているか、あるいは機械の中ではもはや入場を決めた自らの選択を自覚しないことを忘れてばかりいるのだ。

おそらくプラグ接続をためらう人々は、彼らが現実世界での活動に価値を見出すのは、それが通常自分たちがそれ自体に価値を見出す好ましい経験を取得するための、最も確かな方法だからに過ぎないことを理解していないのだ。換言するなら、我々の自由意志や我々の現実と交流する能力は、おそらくその先にある本当に重要な目的 -- 好ましく意識される経験へのアクセス -- に達するための手段なのだ。逆に、現実と自由それ自体が価値を持つ(ときに哲学者たちが、非派生的ないし内在的価値と呼ぶもの)と考えるのは、まさに馬の前に荷車をつなぐようなものである。詰まるところ、サイファーならこう応じるだろう -- もし自由な判断力や現実世界に留まる力が、我々に快感を認めないのなら、それらの何がそんなに素晴らしいのか、と。 

こうした異論の数々に挑むのが、ピーター・アンガーの“経験誘導因子”の議論である。アンガーは、このサイファー的論法が考え方によっては強く心を引きつけるものであることを認めつつも、それは我々が抵抗すべき誘惑なのだと論じる。サイファーの価値観は、あまりにも安易かつ単純なのである。我々は、本当に大切なのは意識される経験のみであると考えがちだ。その理由の一つは、我々が価値とはこういうものだという特定のイメージに捕われるあまり、実際の価値に注意を払わなくなることである。我々は自分たちの価値の繊細さや複雑さを見失い、己の意識に作用しない何事かの大切さを理解しなくなってしまうのだ。だがもし立ち止まって何が本当に大切なのかを見つめ直すなら、我々はサイファーの主張とは相容れない驚くほど日常的な事例を見つけることになる。

「生命保険を考えてみよう。確かに契約者たちの中には、例え扶養家族より先に死んでも、自分は愛しい家族を天国から見守るのだと強く信じる人がいるかも知れない。だが他の契約者たちには、それほどの大きな信仰心はなく……それでも我々は全員が保険料を支払うのである。私の場合であれば、それは例え自分では経験せずとも、扶養家族の暮らし向きが悪くなるよりは良くなることを望むからだ。無論、私のこの心配は合理的なものである」(「アイデンティティ、意識、そして価値」p. 301)

アンガーが続けて指摘するように、生命保険購入の事例を全て、単に家族に与える好印象から(存命中に)利得しようとする人間の場合に当てはめるのは不自然に思える。多くの場合において「我々を動かすのは勿論扶養家族の将来への大いなる関心であり、自分が家族の将来を経験するか否かではない」(p. 302)ことを否定するのは馬鹿げているだろう。これはそうした関心の合理性を立証するものではないが、我々が自分で意識する経験以外のものに内在する価値を見出す出来事が、最初に考えるより広範囲に及ぶかも知れないことを示す(他の事例としては、我々がだまされたり嘘をつかれたりしないことに据える価値がある -- この価値の重要性は、いつか自分が嘘やごまかしに気づくかも知れないという懸念によっても、完全には枯渇しないように思われる)。

我々の多くは様々な事柄に関心を持つが、それはそこから得られる経験を勘案してのことではない。自分たちが好ましく意識される経験以外のものに価値を見出すことを理解すれば、我々は少なくともサイファーとその一派が、こうした価値の妥当性をあまりにも性急に退けていないかという疑念を持つだろう。詰まるところ、ひとたび我々が自分たちのそれ以外の非派生的な関心がいかに広く行き渡り、かつありふれたものであるかを理解すれば、意識される経験がそれ自体に価値を持つ唯一のものだとする主張は、かなり奇異に見えてくるだろう。生命保険の購入が合理的だと思えるのなら、なぜ私の(何らかの架空のシミュレーションではなく)現実を経験したいという願望が、同様に合理的であってはいけないのか? おそらく我々の根本的価値に関する最良の合理性テストは、それらが実際にひとまとめにされたときに、矛盾なく一貫した愛着と関心のネットワークを形成するかどうかであろう(互いに鑑みて、また世界と自分たちに関する我々の確信に鑑みて、それらは理にかなったものであるか?)。現実世界との交流に価値を見出すことが、こうしたテストに明らかに失敗するものだとは考えられない。

勿論、私が現実世界での人生に据える価値が、私のそれ以外の価値や確信と完全に一致することを指摘したところで、サイファーの擁護者が黙っているはずもない。彼は直ちに全ての価値が一致するからといって、それが全て正しいことにはならないと反論するだろう。つまり私が持っているのは、見事に首尾一貫していながら、極めて理不尽な価値ばかりというわけだ!

だが私が更に根本的価値の正当化を追求することは、実は見当違いであるのかも知れない。ルートウィヒ・ウィトゲンシュタインの名言通り、弁明はどこかで終わらなければならないのだ。おそらくこの正当化の要求に対する正しい返答は、サイファーに対しても同じ要求が可能であると指摘することなのだ、「意識される好ましい経験に対するあなたの排他的な関心を正当化するものは一体何なのか?」と。そんなものがあるようには思えない -- もしそのような関心が正当化されるとすれば、それはどこか自己弁護であるに違いなく、だがもしそれが可能なら、どうして我々の他人に対する関心や、現実世界で生きることへの願望も自己弁護であってはいけないのか? もしそれらもまた自己弁護であり得るのなら、おそらく我々が体験しないことは我々にとって大切なものであり、おそらく我々の知らないことが我々を苦しめることもあり得るのだ……

クリストファー・グラウ

参考文献:

Johnston, Mark. "Reasons and Reductionism," Philosopical Review, 1992.

Nagel, Thomas. "Death," Nous, 1970.

Nozick, Robert. Anarchy, State, and Utopia, Basic Books, 1971.

Unger, Peter, Identity, Consciousness, and Value, Oxford, 1990.