『マトリックス』の素晴らしき新世界
ヒューバート・ドレイファス/スティーブン・ドレイファス


『マトリックス』1 はいくつかの馴染み深い哲学的問題を、実に興味深い新たな形で提起するため、全国の学生がこれを自分たちの哲学教授に宿題として課すという驚くべきどんでん返しが起きている。宿題を終えた我々としては、作品に関するクリストファー・グラウの三つのエッセイが提起する二つの問いを探究してみたい。グラウは『マトリックス』がルネ・デカルトの不安を脚色したものだと指摘する。我々のこれまでの経験は、全て我々自身の内的精神状態であり、ひょっとすると我々は悪しき霊が創造した幻想の中に生きているのかも知れないという不安である。その場合、現実に関する我々の確信の大半は偽りということになる。そこでグラウは、苦痛に満ちた現実と直面する代わりに、好ましい経験の幻想世界で生きるというサイファーの選択の合理性を問うのである。

『マトリックス』で語られる我々の状況は、他の選択肢が示唆するものよりはるかにおぞましい。この作品はまさに、我々は桶の中の脳であって現実世界と(そういうものが存在するとしても)直に接触することはできないのだという、デカルトの驚くべき主張を例証するものである。つまり“現実の砂漠”からマトリックス世界に戻ることを選択するサイファーは、単に二つの体系的外観の間で選択を行っているに過ぎないのだ。我々はこのおぞましい考えに対抗するために、経験や幻想、そして我々の現実世界との接触の意味を再考しなくてはならない。そうしてこそ初めて、我々は心地良い幻想世界に生きるよりも、真実と向き合う方が道徳的だと思える理由に関するグラウの問いを論じることができるのだ。

I. 内なるものの神話

デカルトのおかげで、我々現代人は次のような問いに向かい合わねばならない -- 公の外部世界にある事物や人々を知るために、我々はどうすれば自分たちの個人的な内的経験の外に出ることができるのだろうか? 今でこそ重要だと思えるものの、これまでは必ずしも真面目に取り上げられてこなかった問いである。ホメロスの時代のギリシア人たちは、人は言及に値する私生活を持たないと考え、自分たちの感情を全て公に表現した。ホメロスは、オデュッセウスが瞬きもせずに心の中で泣くことを、彼の極めて巧妙な策略の一つだと見なした。2 その1000年後、人々はなおも内的生活の重要性を理解しておらず、聖アウグスティヌスは、彼らにそれを納得させるために奮闘しなければならなかった。彼は例えば、人は大声で音読する必要がないという事実への注意を促した。『告白』において、彼は聖アンブロシウスが行った黙読の素晴らしさを指摘する --「彼が読むとき、彼の両眼はその頁を見つめ、彼の胸はその意味を探究し、だが彼の声に音はなく、彼の舌に動きはなかった」3 我々一人一人が、自分の個人的思考と感情から成る内的生活を持っているという考え方は、デカルトが心の内容とそれ以外の現実との近代的区別を発表した17世紀初めまでは、なかなか根付かなかった。デカルトは自らの書簡の一つにおいて、「私は自分の内にある認識の仲介を得ない限り、私の外のいかなる知識をも持てないことを確信した」と言明したのである。4

デカルトによれば、我々が直接経験できるのは自分自身の心の内容だけであり、世界に対する我々のアクセスは常に間接的なものだ。更にデカルトは幻肢を体験する人々の記録を用いることで、直接的だと思われる我々の身体経験にさえ疑問を唱える。彼は次のように書く:

私は腕ないし脚を失った人々から、彼らが今でも時折失った部位に痛みを感じると思うことを教えられ -- 従って私自身が耐え忍んだ痛みが、実際にそれを感じたと思った腕や脚のものなのかどうか、十分に確信を持ち得ないと考える根拠を得たのだ。5

デカルトは、客観的な外部世界というものは -- 我々の身体を含めて -- 存在しないかも知れないとの結論を下す。我々に確信できるのは、我々の主観による内的生活のみなのだ。

このデカルトの結論は、その後三世紀に渡って、西欧の思想家たちに自明のものとして受け入れられた。デカルトの次世代にあたるゴットフリート・ライブニッツは、我々一人一人を窓のない“モナド”だと仮定した。6 モナドは自己充足的な経験世界であり、物体ないし具現化された他の人々からの入力を得ない。なぜなら、そのようなものが存在しないからである。むしろ時間と共に発展する各モナドの内容が、神の手で他の全てのモナドの内容と同期して、共有された現実世界という幻想を創り出すのだ。それから一世代を経て、イマヌエル・カントは、人間が知り得るのは現実そのものではなく、彼ら自身の心的表示に過ぎないと論じた。ただしこれらの表示は共通原因を持つため、これらの経験はあらゆる他者の心的表示と調和して、彼が現象界と呼ぶものを作り出すのである。7 20世紀初頭、現象学の創始者であるエドムント・フッサールは、更に唯我論的であった。彼はデカルトと同様に、人は世界と他者の心とを一括りにできると主張した。なぜなら世界や他者の心が存在しようとしまいと、我々に直接与えられるものは、我々自身の“超越論的意識”の内容のみだからだというのである。8 近年になって哲学者たちは、このデカルトの強い確信にようやく異議を唱え始めている。

1920年代になって、ドイツのマルティン・ハイデッガー9 やフランスのモーリス・メルロ=ポンティ10 といった実存現象学者たちは、フッサールに反対する立場から、世界との接触や自分自身の身体さえもが内的な精神内容の仲介によるものだとするデカルトの見解に論戦を挑んだ。彼らは、もし人が自分の経験に十分な注意を払うなら、我々が思うよりも基本的な関与レベルにおいて、自分たちの世界を構成する事物や人々と直接関係していることを理解するだろうと指摘した。

現在この見解の代表的提唱者であるチャールズ・テイラーは、次のように説明する:

この都市、この家を歩き回る私の能力は、この都市とこの家を歩き回ることでのみ現れる。我々には、ある物の写真とその物とを正しく区別することはできるが、その物に対処することとその物とについてはその限りでない。何か我々が確信するもの -- 例えばフットボール用のボール -- に意識を集中させるように求めることは、その物自体がない場合でも不自然なことではないだろう。だがそれがフットボールの試合ということになれば、そうした提案は理不尽なものとなる。試合における行為は、その対象なくして行うことはできない。それらの行為は対象を含むのである。11

一般的に、対象物と無関係に存在し得る心的内容とは異なり、私の対処能力は、私が対処するものなくしては、実現することも、心に抱くことさえもできないのである。

これは、我々が間違いを犯すことがないという意味ではない。都市やボールの存在なくして、どうやって都市を歩き回ったりフットボールをしたりすることができるのかを想像するのは困難だが、ファサードを家屋と間違える場合のように、暫しの誤解はあり得るのだ。適切な対処に失敗した際には、自分が遭遇したと思ったものを遡及的に取り消し、対処するつもりでいた家屋ではなくファサードに応じるために(それ自身矯正可能な)新たな準備を整えるのである。

II. 桶の中の脳

このようにデカルトに始まった内/外の区別は、一つの考え方としてのみ妥当性を持つようだ。複雑かつ巧みな対処法の基本レベルにおいては、人はメルロ=ポンティが呼ぶところの世界を向いた空虚な頭に過ぎないのである。だがこれは『マトリックス』が時代遅れないし誤りであることを示すものでは全くない。それどころか『マトリックス』は、我々は自分の心の外には出られないのだと主張する哲学者たちの一歩先を進んでいるようだ。この作品は、デカルトが先鞭をつけながらも発展させることのなかった、より説得力のある状況を示唆する。すなわち、我々は自分の脳の外には出られないのだという状況である。

デカルトが17世紀に、内なる精神の優越を宣言したのは偶然ではなかった。当時は望遠鏡や顕微鏡といった道具が、人間の知覚能力を拡張しつつあった。それと同時に感覚器官自体が、脳に情報を伝える変換器として理解され始めていたのである。デカルトは、目がいかにして外部世界の光エネルギーに反応し、“視神経の細線維”を用いることでその情報を脳に伝えるかを解説して、この研究の草分けとなった。12 更にデカルトは幻肢現象を用いることで、他の神経が身体に関する情報を脳へ運び、そこからその情報が心に伝えられるのだと論じている。

これに続く結論はおそらく、我々一人一人は頭蓋という桶の中の脳であるから、13 世界どころか自分の身体とさえも直には接触できないのだというものであっただろう。よって、例えハイデッガーやメルロ=ポンティやテイラーといった現象学者たちが、我々は自分の内的経験に閉じ込められていないとする点で正しいと思われても、我々の神経系統を行き交う衝動が、脳の発する行動衝動と脳に入ってくる知覚衝動との複雑な帰還ループを模倣する限り、我々は世界の中で事物と直に取り組む経験を持つのだと仮定することは、なおも説得力を持つように思われる。だが桶の中の脳の場合には交流すべき家も都市もなく、それどころか本当の世界さえなく、従って結局のところ、我々は自分たちの内的経験に閉じ込められるのだ。モーフィアスは“コンストラクト”の中でネオに言う:

君はどうやって“現実”を定義するんだね? もし君が自分で感じることのできるもの、君が匂いを嗅いだり、味わったり、見たりすることのできるものの話をしているのなら、そのときは“現実”とは君の脳が解釈した電気的信号に過ぎない……

だがこのデカルト的結論は誤りである。内的な電気衝動は、人が感じたり味わったりできるものの原因基盤ではあるが、我々はそれ自体を感じたり味わったりするわけではない。例え私が幻肢を体験しているに過ぎないとしても、私の痛みは脳にではなく、幻想の手にあるのだ。現象学者が主張できること、また主張すべきことは、外部の桶の中に身体があり、その身体の中に原因基盤が存在するマトリックス世界では、コンピュータからの入力を脳に得て行動出力で応じるマトリックス人間たちは、知覚される現実に直接対処しているのであって、その現実は内的なものではないという点である。マトリックス世界においてさえ、人々は直接座ることで椅子に対処し、打撃技術を伸すためには野球のボールを必要とするのだ。従ってマトリックス内部であっても、対処するということは、デカルトからフッサールへと論じられてきた心と外部世界との関係をめぐるいかなる内的/外的見解よりも直接的なものなのである。

だがマトリックス構造の中の脳は、例えば、現実の身体は桶の中でありながら、マトリックス身体こそが現実のものであるといった数多くの偽りの確信を持つのではないか? そうではない。もし普通のマトリックス居住者が怪我をした足に痛みを感じるなら、その痛みは彼のマトリックス足のものであって、桶の中にある足のものではない。桶の足は怪我をしていないし、彼はその足のことを知りもしないのだ。我々の経験が、頭蓋桶の脳内における神経活動だと考えるのは誤りである。確かに我々の頭蓋内には脳があり、その脳は我々の経験の原因基盤を提供する。だが我々は我々の脳ではない。それと同様に、マトリックス世界の人間は桶の中の脳ではない。彼らはマトリックス世界で生まれ育った人間であり、マトリックス身体での経験やその使用を通じて、その身体を自らのものとしているのだ。彼らには想像もできないもう一つの身体が、彼らの経験の原因基盤となる脳をその頭蓋内に持っていようとも、そのことに変わりはない。

詰まるところ、マトリックスに生きる人々は、マトリックス内部で起こることより他に経験の源を持たない。従ってマトリックス内の人間は、桶に閉じ込められた自分の身体や脳には何の確信も持っておらず、また持つこともできない。その人にとっては、脳は経験の単なる不可知の原因基盤に過ぎないのだ。マトリックス居住者が見たり動かしたりする身体は、彼がマトリックス世界で所有するそれのみである。従ってAIプログラマたちは、彼に桶の中の身体とは全く違うマトリックス身体を与えることもできたはずだ。詰まるところ、桶の中の脳は赤ん坊の脳として人生を始めたのだから、AIプログラマたちからどんな内容を与えられていても不思議ではない。成長すれば背の低い太った大人になる白人の赤ん坊が、背の高いアフリカ系アメリカ人のマトリックス身体を与えられていたかも知れないのである。14

だが、少なくともまだ一つの問題が存在する。自分たちが知覚する身体の所有と使用、それに椅子や都市や世界に関するマトリックス人たちの確信は、おそらくは共有された信頼できるものであり、その意味では真実である。だが原因に関する彼らの確信はどうだろうか? 彼らは病原菌が病気の原因となり、太陽が物体の暖まる原因となり、重力が物体の落下する原因となること等々を、我々同様に信じている。これらの確信は、全て偽りのものではないのか? それは彼らが因果性をどう理解するかによる。通常人々は因果性の本質について明確な確信を持ってはいない。むしろ彼らは、自分たちの経験の原因となる共通世界の内容に対処する共通感覚を、当然のものとして受け入れるに過ぎないのだ。思索に耽るのでもない限り、彼らは世界が本物であるとか、幻想であるとかいったことを信じたりはしない。彼らは単にそれを頼りとして、物事に上手く対処できるように一貫した行動を取るのみである。しかしながら、もし彼らが哲学者として、我々の世界に物事を起こさせる因果性の力を伴った物理的宇宙の存在を信じるなら、彼らは間違っている。だが、もし彼らが我々の因果性への確信を、デビッド・ヒュームに倣って、経験の普遍的結合に対する反応に過ぎないと主張するなら -- あるいはカントに倣って、経験の普遍法則に関する断定だと主張するなら、原因に関する彼らの確信は、マトリックス世界における因果関係の真実となるだろう。15

カントは、我々は公の客観的世界を経験し、そして科学は我々が法則と呼ぶ規則によってこれらの現象を関連させ、だが我々は自分が知覚する現象の因果的根拠を知ることができないのだと主張する。厳密にはカントによれば、我々は世界を空間と時間において経験するが、“物自体”は空間と時間の中にはない。よってカントは、我々には客観の現象界やそれらの法の如き関係を知ることはできるが、これらの現象の根拠である物自体を知ることはできないのだと言う。

カントによれば、マトリックス人たちは我々と同じ認識論的立場にある。よって、もしマトリックス世界にカント学徒がいたならば、彼らの確信の大半は真実となるだろう。彼らは自分たちが諸現象の同期システムを経験していることを理解し、また、自分たちがこれらの現象の根拠である物自体を知り得ないこと、つまり、世界と宇宙に関する自分たちの共通経験の基盤を知り得ないことを理解するだろう。カント学徒は、世界について我々が共有して確かめた確信、そして宇宙について科学者たちが確立した確信が現象に関するものであり、物自体には一致せず、またできないからといって、偽りであるとは主張しない。そしてカント学徒が、そして実際のところマトリックス内部の誰もが、物自体について知っていると主張しない限りは、彼らの確信の多くは真実なのだ。

それにもかかわらず、マトリックス哲学は明らかに、我々が物自体を決して知り得ないとするカント学派の見解には同意しない。『マトリックス』では、人は現実を知ることが可能なのだ。桶から身体を排出されてホバークラフトに乗り込んだことで、ネオは現実に関するより広い視野を持ち、自分のそれまでの理解が限られたものだったことを知る。だがそれは、彼がマトリックスの中では自分の身体や世界に関して偽りの確信を数多く持っていたという意味ではない。彼はこれらの哲学的問題を、全く考えてもいなかったのだ。だが一旦外に出ると、彼はそれまで桶に封じ込められていた自分の身体について、新たな真の確信を数多く持つことになる。彼がマトリックスの中では持っておらず、また持つことができなかったであろう確信である。16 実存現象学者たちは、我々はときに特定の物事に関して間違いを犯し、それに対処するための心構えを遡及的に撤回しなければならないことを認めてきた。だがメルロ=ポンティとテイラーが付言するように、我々がそれを行うのは、現実との新しくより良い自明の接触に関してのみである。同様に『マトリックス』版の桶の中の脳的状況において、現実世界として経験するものの中に引き込まれている桶の中の人々は、それまで当然のものとして受け入れていた自分たちの経験基盤の大半が間違いだったことを知り得る。例えば彼らは、何百万年も続いてきたものと思っていた世界が、実は最近構築されたばかりのコンピュータ・プログラムだったことを理解することができるのだ。

勿論、物事はそれほど単純ではない。ネオの現在の確信は、依然として全て偽りかも知れないのだ。詰まるところ、彼の経験を支えているのは桶の中の頭蓋骨の中の脳であり、AIプログラマたちは現在その脳に、マトリックスを出てホバークラフトに乗り込むという経験を食ませているのかも知れないわけだ。桶の中の脳ファンタジーの想像可能性を考えるなら、我々が最も確信を持てるのは我々の対処経験が、我々は自分たちの対処から独立した境界条件に直に接しているのだと明らかにすることである。我々が成功裡に対処するには、この境界条件に同期しなければならない。このように、我々の対処経験はこれらの境界条件の因果性の力に敏感である。これらの独立した因果条件が、科学によって発見された独立した物理的宇宙の構造を持っているのかどうか、あるいは科学によって発見された境界条件および因果構造が、いずれもカントが仮定したように現象の根拠である不可知の物自体の結果であるのかどうか、あるいはあらゆる現象の原因がコンピュータであるのかどうかといったことは、我々が我々の世界の内部からは決して知り得ないことだ。だがネオはひとたびホバークラフトに乗り込むと、夢から醒めるかのように、自分の現在の現実理解が以前のそれを打ち消し、それに取って代わることを知るのである。

III. 新たなる素晴らしき新世界

我々は今、サイファーの問いを理解し、それに答えようと試みる立場にあ る -- 満ち足りた幻想よりも、戦争が作り出した悲惨な世界で生きるのはなぜか? いくつかの答えは、全く的外れなものとなるだろう。これは、人は幻想に生きるよりも真実と向き合うべきなのかといった問題ではないように思われる。実際、平均的なマトリックス人が抱く確信の大半は真実なのだ。彼らが椅子に座ればそれは彼らの身体を支え、彼らが家の中に入れば屋内を目にし、彼らは身体に怪我をすることもあり、彼らは定まった行動によってのみ対処することができるのである。彼らが自らの行動において、何か自分たちから独立したものに対処していて、他者もまたそれに対処しているのだという彼らの基本的な理解さえもが正当なものなのだ。我々が見てきたように、カントは例えこれが現象界であるとしても、我々の確信の多くはなおも真実であると論じた。同様に、マトリックス世界に生きることが、我々の日常世界に生きることよりも倫理的に劣っているようには思われない。マトリックス人は本物の人々と付き合い、自分の行動を選択する自由もある。サイファーのように自分本位に友を裏切ることも、トリニティのように友に誠実であることも、また愛する人々の幸せな未来のために備えることもできる。論じられるようないかなる懸念も -- そんなものがあるとしても -- 我々にマトリックス世界の悪を考えさせるものとは思われないのだ。

マトリックスに生きることの問題を理解するために、我々はマトリックス世界の力の源を理解しなければならない。その一部はコンピュータからの入出力が、脳の感覚運動系統への直接接続によってなされることから生まれる。我々はある行動を経験するとき -- 例えば家の中を歩く場合、屋内を見るという相関する経験をコンピュータから与えられる。この相関が、我々が信じるものに影響されない強力な知覚効果を作り出すのだ。それは据え付けの席に座っている観客が、スケートボードのバランスを取ろうと身体を動かしてしまうアイマックス映画の大画面幻想や、そうでないと知りつつも大きく見えてしまう地平線上の月と同じである。

桶の中の脳の知覚系統への入力は、我々がそれを現実だと信じようと信じまいと知覚の世界を作り出す。だが我々の知覚系統には因果性が組み込まれていないため、ひとたびマトリックス世界の因果性が虚像に過ぎないことを理解すれば、マトリックスの因果法則を打ち破ることができるのだ。映画が終わる頃には、ネオは空を飛ぶことも、もし望むならスプーンを曲げることも可能となる。17 マトリックス世界を統治する因果律について、モーフィアスはネオに言う --「全ては君の心の内のことなのだよ」

もし現象を統治する因果法則を信じなければ、その人間は因果関係から自由である。幻想への不信は、どういうわけかその人間が望む経験の供与をコンピュータに強いるのだ。簡単な例を挙げると、スプーンの存在を信じない人間の脳がスプーンを曲げるという行為の神経出力を発すると、それはスプーンが曲がるという視覚入力の返送をコンピュータに強いる。これがモーフィアスの言う「規則を曲げる」の文字通りの事例である。同様に、もし銃弾を止められると信じるなら、その人間は自分がそれを止めた場所に銃弾を予期し、そしてコンピュータは従順にそれを表示するのだ。従ってマトリックス世界が幻想であることを学んでからのネオに、物事が直接異なって見えるわけではない。彼の脳への衝動は、今でも彼が見るものを支配しているのだ。18 だが、彼はそれまでできなかった(銃弾を止めるといった)行為を選択することが可能であり、それは彼が見るもの(止まる銃弾)にも影響する。この因果性の停止がどう作用するのかについては、映画では説明されていない。

では人々を存在すらしない因果宇宙の仮の束縛に従わせ続ける、マトリックス世界の邪悪な力の源とは何なのだろうか? もしそれが、単に彼らが自分たちの知覚世界における感覚運動の相関に閉じ込められているだけのことでないとすれば、一体どういう類いの支配なのだろうか? それはマトリックス人の知力に対する何らかの支配でなければならない。映画の初めの方で明かされるように、彼らの知力は感覚運動の相関によるコンピュータの直接支配からは自由なのだ。19 よって、この支配は何らかのマインド・コントロールであるに違いない。

どうやらマトリックスは、すでに日常世界で稼働しているある種のマインド・コントロールに便乗するようだ。我々は、人々がマトリックス世界の支配権を得られないのは、物事がいかに作用するかという常識的見解、例えば転落すれば怪我をするといったことを、当然のものとして受け入れてしまっているからだと教えられる。更に一般的に言えば、人々を従順であり続けさせるものは、平均的な人間が信じるものを信じ、することとしないこと(フォークを使って豆を食べる、食卓に食べものを放らない、外には窓でなくドアから出る、等々)をし続ける(そして、しないことを続ける)という彼らの性向である。その結果としてもたらされる体制順応主義を、ハイデッガーは、自らを“世人”(the one/Das Man)に取って代わらせるものだと表現する。20 またオルダス・ハックスリーも『すばらしい新世界』で、洗脳された大衆による体制順応を嘆いた。

従って『マトリックス』を、ニーチェが群衆心理と呼ぶものへの攻撃と見ることができる。ニーチェは、通常人間は共通の社会規範に従うように社会化され、違った考え方をするのは困難だと指摘する。彼が述べるように「人が存在する限り、人の集団(氏族、地域社会、部族、民族、国家、教会)もまた存在し、そして服従する大多数の人々が常に存在するのだ……そこで、人々の間で服従ほど十分かつ長年に渡って行使され、培われてきたものがないことを考えると、それに対する欲求が、今や平均的な人々に本有のものだと仮定するのが妥当かも知れない」21

だとすれば、この作品における目覚めとは、人が当然のものとして受け入れるように育成されてきた規範から、自分自身を解放することに等しい。だがそれはどうすれば可能なのか? ハイデッガーは、順応に優るものが人生に存在することは、誰もがうすうす感じ取るものだと主張する。モーフィアスがネオに言うように(「それは君の心の棘のようなものだ」)、人々はこの世界に何事かが欠如していることに気づいているのだ。だがその大多数は、自分たちの体制順応世界に重要なものが欠けているという考えを避ける。ハイデッガーによれば、誰かを群衆から抜け出させるには不安発作、すなわち当然と思われた通常の物の見方ややり方が何の根拠も持たない経験が必要である。ハイデッガーの不安が、我々が日常世界で目にするそれと異なったものであることは理解しておかねばならない。それは世界に対する奇異感なのだ。だとすれば、ネオの人生に浸透していくように思われる、ほとんど表現不可能な不安の何と相応しいことか。それはシステムを打倒して自由になるプロセスに着手することを、彼に促す不安なのだ。最後にネオは劇化された不安発作を起こす。当然のものとして受け入れてきた世界が、人類をエネルギー資源に変えるためのコンピュータ・シミュレーションなのだと聞かされると、彼は床に倒れて嘔吐するのである。

IV. 本当の素晴らしき新世界

作品中の夢に関する全ての会話に対して、人によっては当然の反感を持つかも知れない。例え文字通りのものではないにせよ、ハイデッガーが鎮められた世人の実存の生活と呼ぶものへの単なる言及にしては、宗教的隠喩が強過ぎるという意味においてである。また目覚めることには、非体制順応者になること以上の意味があるように思われる。とどのつまりが、コリン・マッギンが集めたネオに関するキリストの言及の数々である。22 ネオが一種の救世主として意図されていることには疑いの余地はない。だがそれはどういう救世主なのだろうか?

『マトリックス』をグノーシス主義、仏教、あるいはプラトン哲学/キリスト教の寓話と考えることは魅力的だ。その中で我々は、現実だと思っていたものが夢であることを知り、現象の世界からある種のより高度な精神的現実へと覚醒するのである。この解釈において、ネオは人々をプラトンの洞窟、マーヤーのヴェール、あるいは世界の闇といった幻想から、肉体を離れたより高度な人生に導く。だが、こうした連想は全て間違いなのだ! 確かに、マトリックスの体制順応的世界は、人工知能たちの鼓舞する一種の精神安定幻想であり、我々はネオのようにマトリックスの調和を乱す者が、エージェントたちに処理されることを知っている。我々はまた、ネオが人々をこの世界の外に導くことを期待する。だからといって、必滅の身体が我々の仮の姿であり、この脆弱な身体を永遠の生命と引き換えに捨てることこそが救済なのだ、という話にはならないのである。

この作品における救済は、伝統的な宗教的見解の全くの正反対を意味する。確かにマトリックスを看破する者たちは、その飛翔能力が例証するように、肉体を持つことによる制限のいくつかを克服することができる。23 だが、その飛翔が為されるのはマトリックス世界の中である。ネオが“目覚め”た場所であり、やがては彼が全人類を導くのであろう現実世界には、もはや飛翔は存在しないのだ。人々は脆弱な現世の身体を持ち、寒さや貧しい食事、そして死に苦しむことになる。作品の最後で、ネオはあたかも死を免れたかのように見えるかも知れない。だが彼のホバークラフトでの“復活”は、神々しい奇跡の愛が死を克服する世界に到るものではなく、それどころか彼は現世の医療行為 -- 言うなら愛情のこもった心肺機能蘇生法 -- によって、完全に物理学と化学の束縛の範囲内で救われたのである。従って彼は脆弱な身体を持ち続け、いつかは本物の死を迎えねばならない。彼が克服したのは死ではなく、おそらくは群衆が持つ死への恐怖なのであり、結果として、ハイデッガーが通常人間の自由に対する最も深刻な制約と呼ぶものを乗り越えたのである。

だがもし一般の人間が受け入れる規則を曲げることの意味が、スプーンを曲げ、空を飛び、銃弾を止める力に過ぎないとすれば、それはいかなる救済とも思われない。創造は、単なる破壊以上のものを意味しなければならないのだ。24 我々はネオによって解放された人々が、日常の脆弱性や苦悩を受け入れることと引き換えに、新たなより良い人生へと再生することを予期する。だがそれはどんな人生だろう? 安全かつ平穏なマトリックスに留まる代わりに危険な現実に直面することが、それぞれの経験の質に関係なく賞賛に値するのはなぜか? それを説明するために、我々は人間性の何たるかを知らねばならない。それによって我々は、人間に必要でありながら、マトリックス世界が供給できずにいるものを理解することが可能となるのだ。

だが我々の多元世界には多数の異文化が存在し、それぞれが人間性に関して固有の理解を持っている。我々自身の文化にしても、人間性や自然界の新たな解釈によって多様な世界が創造され、それが人間や事物の定義を変えるのを経験している。ホメロスの世界で重んじられたのは、英雄になることや精巧で美しい工芸品を集めることであったし、ヘブライ世界では、人は神の律法に従って、その他のあらゆる神の創造物を統治しなければならなかった。キリスト教世界においては、人の目標は欲望を浄めることであり、天の教えによって神の御心を知ることであった。そしてデカルトやカントの登場によって、近代世界の人々は、客観と自分自身の内的生活を系統化して支配する自律的かつ自制的な主観となった。一方、現在のポストモダンの世界において、多くの人々はサイファーのように自分たちの個人的経験の質を極限まで高め、自らを資源として扱うことで、その可能性を最大限に生かそうとする利己的快楽主義者である。

だがこれはサルトルの言としてもよく知られるように、人間性など存在しないことを明らかにしているのではないだろうか? ここで重要な務めを果たすのがハイデッガーである。西欧の歴史が示唆するように、我々の本質とは新世界を開拓することによって、現在自分たちの本質として理解されているものを変えることが可能だということである。おそらく人間は本質的に世界の開示者なのだ。従って、人間にとって凡庸からの脱却以上に必要なものを決定するためには、我々はマトリックスに欠けているのが、あらかじめプログラムされた形式的現実を超えて新世界を開く可能性なのだとするハイデッガー的論点に向かわねばならないようだ。つまり単に現在のゲームの規則を破るのではなく、新たなゲームを発明するのだ。ニーチェは「我々は本来の我々となるべきなのだ。すなわち新しく、独特で、比類なく、自らを律し、自らを創造する人間である」と言う。25 キリストは我々を行動ではなく、欲望の観点から定義することで新世界を創造した。デカルトは内的なものとしての精神を創案して、結果近代世界の開示を助けた。また劇的な度合は劣るものの、マーティン・ルーサー・キングJr. はアメリカ黒人のために新世界を開いた。26 新世界を開拓するそのような自由こそが、まさにマトリックス世界に欠けているものなのだ。我々の可能性に対する制限感を、ネオは心の棘として経験する。映画の終わりに、彼は人工知能に対してこう言う --「お前たちが恐れていることは分かっている……変化をな」27

ハイデッガーは、新世界を開示する我々の自由は、人間としての特別な自由であり、またこの自由は、あらかじめ定まった先在世界群があり得ないことを意味するものと考える。それぞれの世界は、開示されてこそ初めて存在するのだ。従ってコンピュータが人間による開示以前に、存在し得る全ての世界の創造を許可する感覚運動の接続を作り出すとの考えは、理に適わない。人工知能たちには、例え自ら望もうとも、そのような根本的に開かれた世界をプログラムすることは不可能なのだ。事実“プログラムされた創造性”は矛盾語法である。

世界の開示者であることが我々の本質ならば、それによって我々が新世界を開くときに感じる特別な喜びを説明することができる。ひとたび世界の開示を経験すれば、例えステーキや高級ワインを楽しめずとも、我々はマトリックス世界ではなく現実世界に生きることの素晴らしさを理解するのだ。真の救済とは、世界を超越してマトリックス・プログラムによる制限を排除することから生まれる。我々にとって最終的に大切なのは、我々の確信の多くが真実か否かということでも、我々が危険な現実に向き合えるほど勇敢かどうかということでもなく、我々が定まった標準活動の世界に閉じ込められているのか、それとも世界と自分自身を変える自由を持っているのかということなのだ。

もしマトリックス人たちが、マトリックス・プログラムによって自分たちの経験の原因基盤に偽りの確信を持たされた犠牲者に過ぎなければ、ネオは彼らの確信が偽りであることを明らかにし、世界は現象だとするカントに同意するように教えることができただろう。だが、それでは彼らを解放することにならない -- 彼らが通常目にする可能性だけを見て不安を経験しないままである限り、解放はあり得ないのだ。ネオはそれ以上の、ハイデッガーが不安が行うのだとする働きをしなければならない。すなわちマトリックスの中の人々に、彼らが当然のものと考えている秩序には根拠がなく、創造的に変更できることを示さねばならないのだ。彼は言う --「俺はこの人々に見せよう、規則や支配のない世界、全てが可能な世界を」

映画が終わるまでに、救世主(the One)たるネオ(ハイデッガーに言わせれば "anti-one" であろう)は、マトリックスの中の人々に規則を曲げる自由を示すことで、わずかに彼らの体制順応主義からの解放を始めた。だが彼はまだ、いかに新世界を開くかを示すことで人々をマトリックスから解放するまでには至っていない。勿論、この作品には公開を控えた二本の続編がある。第三作が終わるまでにネオがザイオンにたどり着き、人々を本当に素晴らしい新世界へと導くことに、我々は希望を持つことにしよう。

ヒューバート・ドレイファス/スティーブン・ドレイファス

脚注

1.  この作品では、名称は概ね非常に上手く選択されている。“マトリックス”という単語が子宮と数値配列の両方に言及する点は、完璧に機能している。同様に‘ネオ’はネオファイト(新改宗者)であると同時に、世界を再興する者を意味している。これらの名称が実に適切なものであるため、‘モーフィアス’の名にも同様の適性を期待するところだが、それを見出すのは難しい。ギリシア神話のモーフィアス(モルフェウス)は夢の神であるが、映画のモーフィアスは人々を目覚めさせようとしているのだ。この名前に何らかの意味を持たせる唯一の方法は、このギリシアの神を夢の製造者としてではなく、夢を支配する力 -- 夢を与える力とそれを奪い去る力の両方 -- を持つ存在として考えることだ。

2.  「彼の心痛はいかばかりであったろう……だが、あたかもその両目が角か鉄で作られているかのように、彼は決して目をしばたたかせはしなかった……彼はこのような策を弄した。すなわち自らの意志によって、心の中で涙を流したのである」
Homer, The Odyssey, trans. Robert Fitzgerald (New York: Vintage Classics, 1990), 360.

勿論、ホメロスの時代のギリシア人たちは、オデュッセウスがこの策を弄することについて何らかの個人感情を持ったに違いない。だが彼らは内なる精神は希有なものであり、また通常は些末なものだと考えたのだ。我々の知る限り、ホメロスはこれ以外に個人の感情について言及してはいない。一方で感情の公的表示や、神や怪物や未来の出来事に関する共通のヴィジョンは数多い。

3. Saint Augustine, Confessions, trans. R.S. Pine-Coffin (Penguin, l961), 114.

4.  Letter to Gibieuf of 19 January 1642; English in Descartes: Philosophical Letters, trans. Anthony Kenny (Oxford University Press 1970), 123.

5. René Descartes, "Meditations on First Philosophy - Meditations VI", in Essential Works of Descartes, trans. Lowell Bair (New York: Bantam Books, 1961), 98.

6. Gottfried Leibniz, The Monadology and Other Philosophical Writings (London: Oxford University Press), 1898. ライブニッツによれば、モナドは空間的部分を欠いた非物質的実体であり、その基本特性は内的な知覚および欲求の機能である。ライブニッツ曰く、モナドには窓がない。

7. Immanuel Kant, Critique of Pure Reason, trans. Norman Kemp Smith (New York: The Humanities Press, 1950).

8. Edmund Husserl, Cartesian Meditations: An Introduction to Phenomenology, trans. Dorion Cairns (The Hague: Martinus Nijhoff, 1960).

9. Martin Heidegger, Being and Time, trans. J. Macquarrie & E. Robinson (New York: Harper Collins, 1962) を参照せよ。

10. Maurice Merleau-Ponty, Phenomenology of Perception, trans. C. Smith (London: Routledge & Kegan Paul, 1962) を参照せよ。

11. Charles Taylor, "Overcoming Epistemology," Philosophical Arguments (Cambridge, MA: Harvard University Press, 1995), 12. 他にSamuel Todes, Body and World (Cambridge, MA: M.I.T. Press, 2001) を参照せよ。

12. René Descartes, "Dioptric," Descartes: Philosophical Writings, ed. and trans. Norman Kemp Smith (Modern Library, l958), 150.

13. この点は、ジョン・サールが明確に論じている --「我々一人一人は、まさしく桶の中の脳である。桶とは頭蓋骨であり、入って来る‘メッセージ’は神経系統への衝撃として入って来るのだ」Intentionality: An essay in the philosophy of mind (Cambridge University Press, 1983), 230.

14. 勿論、制限はある。マトリックスのプログラマたちは、人間に犬の身体を与えることはできない。またマトリックス世界において、女性の脳を男性の身体の原因基盤とすることも可能だとは思われない。桶の中の身体のホルモンが、マトリックス世界の身体の特性と一致しないのだ。

それでもAIプログラマたちにとっては、マトリックス世界でそれぞれの脳に(あらゆる生物学的制限の範囲内で)実際の身体と根本的に異なる身体の経験を与えることは、ホバークラフトによる人体救助を妨げる良い手段となる。仮に救助されたとしても、そのような人々は自分の全人生を経験してきた身体と、ホバークラフト艦内で自分を包み込んでいる見知らぬ身体とを一致させようとして、まず間違いなく正気を失うだろう。

15. 同様に、ウイルスやブラックホールといった実体に関する彼らの確信は、もし彼らが経験主義者たちのように、理論的実体は実験データに言及する便利な手段に過ぎないと考えたなら真実となるだろう。Bas van Frassen, The Scientific Image (Oxford: Clarendon Press, 1980) を参照せよ。


16. 勿論、実際には物事はそれほど単純ではない。ほとんどの人々は世界の現実に何の確信も持たず、世界を当然のものと見ているに過ぎない。だがネオは疑問を持つことを強いられ、自分が今現実に向き合っているのだと信じる。しかしネオの現在の確信も、未だ偽りであるかも知れない。彼は今でも、ホバークラフトに乗る経験を食まされた桶の中の脳であり得るのだ。桶の中の脳ファンタジーが想像可能であるとすれば、我々が最も確信を持てるのは我々の対処経験が、我々は自分たちの対処から独立した、我々が行動するためには同期しなければならない境界条件に直に接しているのだと明らかにすることである。それゆえに、我々の対処経験はこれらの境界条件の因果性の力に敏感である。これらの独立した因果条件が、科学によって発見された独立した物理的宇宙の構造を持っているのか、あるいは科学によって発見された境界条件と因果構造が、カントの仮定したように現象の根拠である不可知の物自体の結果であるのか、あるいはあらゆる現象の原因がコンピュータであるのかといったことさえもが、我々が自分たちの世界の中からは決して知り得ないものである。だがネオは夢から醒めるかのように、彼の現在の現実理解が以前のそれを打ち消し、それに取って代わることを知るのだ。

17. マトリックス幻想を信じないでいることは、因果性が関わってくる場合でさえ困難なのだが、ネオはそれを信じるのを止めることが可能だと学ぶ。この新たな現実理解は、映画の初めにはネオに語りかけるモーフィアスによって、そして映画の終わりにはネオによって、夢から醒めるようなものだと説明される。だが桶の中の脳は、文字通りに夢を見ているわけではない。その世界は、夢であるにはあまりにも整合的かつ間主観的なのだ。別の言い方をすれば、夢とは我々の中にある神経配線のねじれの結果であり、矛盾に満ちたものである。ただし夢を見ている我々は、通常それに気づかないのだ。夢とは、脳の知覚系統への入出力の系統的相関が、我々が目覚めているときの無矛盾で調和した経験を再現しようとして生み出すものではないのである。ホバークラフトの乗員がマトリックス世界に戻るとき、彼らのホバークラフトでの身体は眠るかのように見える。だが彼らは個人的な夢世界ではなく、もう一つの間主観的世界に入るのだ。その中での彼らは通常は目覚めているが、夢を見たり、その夢から目覚めることもできるようだ。エージェントたちに口を奪われた後のネオが、まさにそうである。

18. この主張には残念な例外が一つある。映画の終わりで、ネオは知覚幻想の背後にコンピュータ・プログラムを垣間見る。強烈な視覚効果ではあるが、我々が話していることが正しければ、これは理に適っていない。ネオがマトリックス世界にプラグ接続される際、もしコンピュータが今でも彼の脳に系統的な感覚運動の衝動を食ませているのであれば、彼は自分の視覚系統の中でプログラムが作り出す世界を見ることになるのだ。数字の羅列の光景が我々に気づかせるのは、ネオはもはやマトリックスの幻想を信じておらず、それがプログラムであることを理解し、だがそれでもなお、それを見続けるのだということである。

19. コンピュータ・プログラムであるエージェントたちに、この自由はない。エージェント・スミスがモーフィアスに向かって、自分がいかにマトリックス世界を嫌悪しているかを話すとき、これはスミスが自由に行動して、マトリックスの秩序維持という任務から逸脱しているようにも見える。これをスミスの取り調べのテクニック(‘善い警官と悪い警官’の善い警官役)として理解すれば、エージェントたちの限界との整合性は取れるだろう。つまり、スミスは衰弱したモーフィアスからザイオンへのアクセスコードを聞き出すために、自分が同情的であると信じさせようとしたのだという見方である。だがこの可能性は、映画の中では活かされていない。

20. 人類をマトリックスから救う“救世主(the One)”としてのネオと混同してはならない。ハイデッガーの論じる世人の力については、彼の「存在と時間」と、H. Dreyfus, Being-in-the-World: A Commentary on Heidegger's Being and Time, Division I (Cambridge, MA: The M.I.T Press, 1991), Chapter 8を参照せよ。

21. Friedrich Nietzsche, Beyond Good and Evil: Prelude to a Philosophy of the Future, trans. Walter Kaufman (New York: Vintage Books, 1966). # 199.

22.  コリン・マッギンのエッセイは、ここから参照できる。

23. 後退するよりも前進する方が容易で、前方にあるものだけにうまく対処でき、重力の中でバランスを取らなければならない等々の自分たちの身体を所定のものとして、我々は物語が理に適ったものであり続ける限りは、そのような身体に関わる現在の制約が、マトリックスではどこまで打破し得るものかを問うことができる。

これらの限界を試すために、フィルムメーカーたちは時折、周回する視点を使って我々を驚かせる。この視点から見るアクションは、常態からはほど遠い、恐ろしく分かりづらいものである。一方で彼らは、身体に関わる不変性の何が打破可能で、何が不可能かを発見するという挑戦に成功している。例えば、映画では重力は克服し得るものだ(ネオは空を飛べる)が、彼はあらゆる方向を均一に見ることはできないし、あらゆる方向に均一に対処することも、あるいは同時に複数の場所に存在することもできない。一人の人間が誰かを取り囲んだら、それはどのように見えるのであろうか? 

時間もまた、何事もなしには打破し得ない身体に関わる構造を持っている。時間を未来に向かって進み、過去を背後に置くものとして経験するあり方は、前方へ向かう我々の身体が我々を物体に接近させ、続いてそれを通過させるあり方に依存する(Todes, Body and World を参照せよ)。我々は誰かが敵を単に背後からではなく、過去から攻撃するといった場面を理解することができるだろうか? もし映画の中で、解放された人々が彼らの行動を統治するあらゆる身体的制約から自由であったら、我々は彼らがすることを理解できないだろうし、それは彼らにしても同じだ。我々が夢の中でしばしばそうであるように、彼らは自由になる代わりに混乱するだろう。

24. それでもなお、破壊はマトリックス世界における最善の策である。だからこそエージェント・スミスが言うように、存在する全ての規則を破ってきたハッカーであるネオは、救済者候補に相応しいのだ。

25.  F. Nietzsche, The Gay Science, (Vintage Books Edition, March 1974), # 335.

26. Charles Spinosa, Fernando Flores, and Hubert Dreyfus, Disclosing New Worlds: Entrepreneurship, Democratic Action, and the Cultivation of Solidarity, (Cambridge, MA: MIT Press, 1997) を参照せよ。

27. 映画の初めの方で、モーフィアスは「マトリックスとは何か? 支配だ。マトリックスは、我々人間を支配するために、コンピュータによって創り出された夢の世界なのだ」と話す。ジェームズ・プライヤーは自らのエッセイの最後で、AIプログラマたちがマトリックスの居住者に為すであろうことを思索し、果敢にもモーフィアスの主張の意味を了解しようと試みた。もし機械たちがそのどれか一つでも行っていたならば、プライヤーが次のような意見を述べる権利もあるだろう --「映画の中で、全ての人類は奴隷である。彼らは自分自身の人生を掌握していないのだ。それは自分の鎖に気づかない満ち足りた奴隷であるかも知れない。だが、奴隷には違いないのだ。彼らが自分自身の未来を形作る能力は、非常に限られたものである。(中略)マトリックスに生きることで最悪なのは、形而上学的なものでも認識論的なものでもない。最悪なのは政治的なものだ。すなわち、あなたが奴隷だという事実である」

だが私は、少なくともこれまでに『マトリックス』シリーズで起こっていることに関して、モーフィアスは間違っているのではないかと危惧する。もしあなたが奴隷であれば、あなたができることを支配する所有主がいなければならないし、あるいは「すばらしい新世界」のように、あなたがしたいと望むことさえ支配する所有主がいなければならない。もし自分がそのような世界にいることを知れば、あなたが自由を欲するのは当然である。だがマトリックス人たちの原因基盤を電池として使うことは、彼らの心的人生には影響を与えず、また彼らの決定や欲望や行為を制限することもない。プライヤーは、人工知能たちにはマトリックス人の計画を妨害することも、あるいは世界をリセットして1980年に戻す選択を行うことも可能であると正しく指摘する。だがモーフィアスが理解していない(そしてプライヤーが論じていない)のは、原因基盤を電池として使われることに、本質上隷属的なものは何もないという点である。つまり、マトリックス人の原因基盤は発電に“利用”されてはいても“支配”されてはいないのだ。彼らのマトリックスでの“奴隷化”は、我々と我々の利己的遺伝子との関係に似ている。我々のDNAが自己増殖のために我々を利用しているからといって、我々の世界が倫理的に間違っているなどと感じる人間は一人もいないだろう。同様に、マトリックス人につながっている身体が、単に彼らの人生の外側で何らかの目的に仕えているという事実は、マトリックスに生きることの問題点とはなり得ないのだ。

実際、AIコンピュータは極めて巧妙なやり方で、マトリックス居住者たちの未来をあらかじめ処理しているのだが、それは彼らが自分の世界で得られる可能性を制限することではない。問題となる制限は、脳への入力が通常の世界で物事が作用するあり方を模し、出力がマトリックス居住者たちの決定に属する限り、桶の中の脳であることとは何の関係もないのだ。問題は認識論的なものでも、形而上学的なものでも、あるいは(モーフィアスとプライヤーには申し訳ないが)政治的なものでもない。問題は、ハイデッガーが存在論的と呼ぶであろうものなのだ。それは現行世界における選択の自由ではなく、世界を変える自由に関わってくるものである。人工知能たちは、変化への恐れから慣例に従わない行動を全て抑圧し、またいかなる場合でも自らのプログラムには根本的自由を取り入れない。それによって -- コンピュータには理解できないが、かすかな恐れを抱かせる -- マトリックス人の最も本質的な人間としての能力、すなわち根本的に新しい世界を開くという我々の存在論的能力を抑圧しているのだ。