形而上学としてのマトリックス
デヴィッド・チャルマーズ
I. タンクの中の脳
『マトリックス』は、タンクの中の脳という、古い哲学的な寓話の一種を提示する。科学者の研究室の中で、タンクに入れられて浮かんでいる肉体から切り離された脳のことである。科学者は、通常の肉体につながった脳が受け取るのと同じ種類のインプットで刺激されるよう準備した。このために脳は、ある世界をシミュレートしたコンピュータにつながれている。シミュレーションは、脳がどのインプットを受けるかを決定する。脳がアウトプットを作り出すと、それはシミュレーションにフィードバックされる。この脳の内部状態は、肉体を欠いているという事実にもかかわらず、普通の脳と全く同じような状態である。脳の視点からすると、物事はあなたや私にとってと同じように見えている。

その脳は大きく欺かれているように見える。それは、この世界のあらゆる種類の虚偽を信じている。それは、自分が肉体を持っていると信じているが、実際は肉体を持ってはいない。それは、自分が陽光のもと、外を歩いていると信じているが、実際は暗い研究室の中にいる。それは、自分がある場所にいると信じているが、実際にはかなり異なる場所にいるかもしれない。ひょっとしたら、実際にはオーストラリア、あるいはさらにもっと離れた場所にいる時に、それはツーソンにいると考えているかもしれない。
[図中の脳の吹き出し:私はツーソンで陽光のもと、外を歩いている]
『マトリックス』の最初におけるネオの状況は、こんなようだった。彼は街に住んでいると思っていて、自分には髪が生えていると思っていて、今は1999年だと思っていて、外は晴れていると思っている。現実には、彼は宙に浮いていて、頭には髪が無くて、年は2199年、そして世界は戦争によって真っ暗になっていたのだ。上記のタンクの筋書きとは少し違う点がいくつかある:ネオの脳は体の中に位置しており、コンピュータのシミュレーションは科学者によってではなく、機械によって管理されているということだ。しかし、基本的な詳細はほぼ同じである。実質的には、ネオの脳はタンクの中にあるのだ。
マトリックス(小文字の“m”で始まる)は、人工的にデザインされた、ある世界のコンピュータ・シミュレーションであると言おう。ゆえに、映画の中の“マトリックス” (大文字のMで始まる。以下“”つきで表記)は、マトリックスの一例である。それから、もし誰かが、マトリックスからインプットを受けてマトリックスにアウトプットを送る認知体系を持っている場合、彼らのことを“タンクに入れられている”、あるいは彼らは“マトリックスの中に”いると言おう。そうだとしたら、最初に出てきた脳はタンクに入れられており、ネオもそうである。
マトリックスが、空間と時間における全ての粒子の動静を追い、世界の物理的プロセス全部をシミュレートしているということは想像できる(後で、この設定が多様である状態を見ることにする)。タンクに入れられた存在は、特定のシミュレートされた肉体に結びつけられる。この肉体がシミュレーション内での感覚入力を受ける時はいつでも、タンクに入れられた認知体系が同種の感覚入力を受けるようにするために、結びつきが手配される。タンクに入れられた認知体系が運動性アウトプットを形成すると、対応するアウトプットがシミュレートされた肉体の運動組織に入力されることになる。
マトリックスの可能性が提起されるやいなや、1つの疑問が起きる。自分がマトリックスの中にいないということを、私はどうやって知るのだろうか? 何と言っても、私の脳と全く同じような構造を持った脳がタンクの中にあって、私が今経験していることと区別ができない経験をしている可能性もあるのだから。内側からでは、私がタンク内の脳の状況に置かれていないことが確実に分かる方法は無いのである。したがって、私がマトリックスの中にいないということを確実に知る方法は無いように思える。
私がマトリックスの中にいて、これまでもずっとマトリックスの中にいたとする仮説を「マトリックス仮説」と呼ぶことにしよう。同等に、マトリックス仮説では、私はタンクに入れられており、これまでずっとタンクに入れられてきたということになっている。このことは、私が“マトリックス”の中にいることと全く同等であるとは言えない。“マトリックス”は、マトリックスの特定の1つに過ぎないからだ。また、時として人々が“マトリックス”と外界の間を行き来することがあるという複雑な問題は、ひとまず無視することにする。これらの問題を取りあえずおいておけば、私は、これまでずっと“マトリックス”の中にいた人々と同じような状況にいると言えるように、マトリックス仮説を形式ばらずに考えることができる。
マトリックス仮説は、我々が真剣に受け止めるべきものである。ニック・ボストロムが示唆したように、万物の歴史において、全世界のコンピュータ・シミュレーションが作れるぐらい、テクノロジーが進化することは全く不可能なことではない。ただ1つしか無い現実の世界に対し、そのようなコンピュータ・シミュレーションは夥しいほどあるかもしれない。もしそうだとしたら、マトリックスの中にいない存在より、マトリックスの中にいる存在の方が多いかもしれない。そう考えると、我々はマトリックスの中にいる可能性の方がいない可能性より高いと推論されるかもしれない。それが正しいであろうとなかろうと、我々はマトリックスの中にいないということを、確信することはできないように思えるのは確かだ。
深刻な結果が次に起こるように思われる。タンクに入れられた私の対応物は、大きな規模で欺かれているのである。それは自分がツーソンにいると思っている、それは自分が机に向かって論文を書いていると思っている、それは自分には肉体があると思っている。しかし、表面的にはそれらの信じている事全ては偽りである。同様に、もし私がタンクに入れられていたら、それと対応する私が信じていることも偽りになる。もし私がタンクに入れられていたら、私は実際にはツーソンにいないし、私は実際には机に向かっておらず、私は肉体すら持っていないかもしれない。したがって、もし私が、自分はタンクに入っていないことが分からないのならば、私は自分がツーソンにいることも分からないし、自分が机に向かっていることも分からないし、自分に肉体があることも分からないのである。
マトリックス仮説は、私が知っているほとんど全ての事の価値を低下させる恐れがある。それは、“懐疑的仮説”のように思える。それは、私が除外できず、もし真実だとしたら私が信じている事のほとんどに反証を挙げるような仮説だ。懐疑的仮説があると、私が信じているこれらの事はどれも純粋な知識としての価値が無いように見えるのである。もちろん、私が信じている事は真実“かも”しれない―私は幸運にもタンクに入れられていないかもしれない―しかし、それらが間違っているという可能性も除外できないのである。したがって、懐疑的仮説は、私が信じているこれらの事に関しての疑念につながるのである。私はこれらの事を信じるが、私はそれらが(正しいのかどうか)分からない。
論理的思考を総括すると、私は自分がマトリックスの中にいるということが分からない。もし私はマトリックスの中にいるならば、私はおそらくツーソンにはいないだろう。ゆえに、もし私が、自分がマトリックスの中にいないということが分からないならば、私は自分がツーソンにいるということは分からない。私が外の世界に関して知っていると思っている他の全ての事についても、同じことが言える。
II. タンクに入れられていることの再考
これは、タンクの筋書きについての標準的な考え方である。この見方は、『マトリックス』を創った人々によっても支持されているようだ。この映画のDVDのケースには、以下の事が書かれている:
私は、この見方はまったく正しくはないと思う。たとえ私がマトリックスの中にいたとしても、私の世界は完璧に本物なのである。タンクの中の脳は、大幅には欺かれていない(少なくとも、それがこれまでずっとタンクの中にいたとしたならば)。ネオは、外界に関して大幅に誤った事を信じてはいない。それどころか、タンクに入れられた存在は、彼らの世界について概ね“正しい”事を信じているのである。もし、そうであるならば、マトリックス仮説は懐疑的仮説ではなく、その可能性は私が知っていると思っている全ての事の価値を下げたりはしない。
哲学者たちは、この種の見方を前にも持っていたことがある。18世紀のアイルランドの哲学者、ジョージ・バークレイは、実際においては、外観は現実であると考えた。(モーフィアスの言ったことを思い出してもらいたい:「本物とは何だ? どうやって本物を定義するのか? もし君が、自分が感じられること、嗅げるもの、味わい、見ることができるもののことを言っているのなら、本物とは、単に君の脳によって解釈される電気信号に過ぎない」)。もし、これが正しいのであれば、タンクに入れられた存在によって知覚された世界は、完璧に本物である:それらは全て適切な外観を持っており、外観は現実だからだ。ゆえに、この見方では、タンクに入った存在でさえ、世界について本当の事を信じているのである。
私は最近、非常に違う理由ながら、似たような結論を自分が支持していることに気づいた。私は、外観が現実であるという見方はもっともらしいと思わないので、バークレイの論法は支持しない。また、つい最近まで私には、タンクに入れられた脳が大幅に誤った事を信じているということはきわめて疑う余地の無いように見えていたのである。しかし私は今では、それが間違いであることを示す論理的思考方法があると考えている。
私は依然として、私がマトリックスの中にいるという仮説を除外することはできない。しかし、たとえ私がマトリックスの中にいたとしても、私は依然としてツーソンにいるし、私は依然として机に向かっている、等々、なのである。したがって、私がマトリックスの中にいるという仮説は、懐疑的仮説ではない。ネオについても同じことが言える。映画の最初で、もし彼が「僕には髪がある」と考えているとしたら、彼は正しい。もし彼が「外は晴れている」と考えているとしたら、彼は正しい。そしてもちろん、同じことが最初のタンクに入っている脳についても言えるのである。それが「私は肉体を持っている」と考えるのなら、それは正しい。それが「私は歩いている」と考えるのなら、それは正しい。この見方は、最初は直観に反するように見えるかもしれない。それは、当初、私には直観に反するように見えた。それでは、ここでそれが正しいということを私に納得させた論理的思考方法を提示することにしよう。
III. 形而上学的仮説s
私は、私がタンクに入れられているという仮説は懐疑的仮説ではなく、形而上学的仮説であるということを論じることにする。つまりそれは、現実の根本的本質についての仮説であるということである。
物理学が、微視的な現実に根拠をなす微視的なプロセスに関するものであるのに対し、形而上学は、現実の根本的本質に関するものである。形而上学的仮説は、物理学そのものに根拠をなす現実について主張するかもしれない。あるいは、我々の心の本質や、我々の世界の創造について何かを述べるかもしれない。
私は、マトリックス仮説は、これらの3つの要素全てを持つ形而上学的仮説として見なされるべきだと考えている。それは、物理学に根拠をなす現実について、我々の心の本質について、そして我々の世界の創造について主張するのである。
具体的には、私は、マトリックス仮説は以下のような3つの部分から成る形而上学的仮説の一種と同等であると考えている。第1に、自然現象は基本的に算定数値的なものである。第2に、我々の認知体系は自然現象からは切り離されたものであるが、それらの現象と相互に作用し合っている。第3に、物理的な現実は、物理的な空間・時間の外側にある存在によって創り出されたものである。
重要なことには、形而上学的仮説について懐疑的なものは何も無い。ここでの形而上学的仮説は、我々の通常の現実の根底にあるプロセスについて述べるものであるが、この現実が存在しないということを引き起こしはしない。我々は依然として肉体を持つし、依然として椅子もテーブルもある。ただ、彼らの根本的本質は我々が考えたかもしれないものとは、やや異なっているということに過ぎない。このように、形而上学仮説は、量子力学に関係する仮説のような、物理学的仮説と類似しているのである。物理学的仮説も形而上学的仮説も両方とも、椅子の根拠をなすプロセスについて述べるものである。それらの仮説は、そこに椅子が無いことを引き起こしはしない。それどころか、椅子とは実際はどのような物なのであるかということを述べるのである。
私は、形而上学的仮説の3つの部分を別々にそれぞれ紹介していくことによって論証することにする。それら3つはどれも、互いに緊密に結びついており、最終的に除外され得ないことを提言する。また、私は、それらのどれも懐疑的仮説ではないことを提言する。たとえ、それらが本当でも、我々が通常信じている事のほとんどは依然として正しいのである。3つ全ての仮説の組み合わせについても、同じことが言える。そこで私は、マトリックス仮説は、この組み合わせと同等であることを論ずることにする。
(1) 創造仮説
創造仮説曰く:自然界の空間─時間とそれが含んでいるものは、自然界の空間─時間の外にいる存在によって創造された。

これはよく知られている仮説である。この仮説の一種は我々の社会で多くの人々によって信じられているし、おそらく、世界でも大多数の人々によって信じられているだろう。もしある人が、世界は神によって創られたと信じ、神は自然界の空間─時間の外にいると信じているとしたら、その人は創造仮説を信じているのである。しかし、創造仮説を信じるのに神を信じる必要は無い。おそらく我々の世界は、“もう1つ上の宇宙”にいる比較的普通の存在によって、その宇宙での最新の世界製作テクノロジーを使って創られたのだろう。もしそうだとしたら、創造仮説は真実だということになる。
私は、創造仮説が真実であるかどうか分からない。しかし、私はそれが虚偽であるということについても確実には分からない。この仮説は筋が通っており、私はそれを決定的に除外することはできない。
創造仮説は懐疑的仮説ではない。たとえそれが真実であったとしても、私が通常、信じている事は依然として真実に反しない。私には依然として手があるし、私は依然としてツーソンにいる、等々。もしかしたら、私が信じている事のいくつかは虚偽になるかもしれない。例えば、もし私が無神論者だったら、あるいは、もし私が宇宙爆発起源論を信じているとしたら。しかし、外界に関しての私が日常的に信じている事のほとんどは、そのまま変わらないでいるだろう。
(2) コンピューテーショナル仮説
コンピューテーショナル仮説曰く:空間─時間の至るところにある微視的物理学的プロセスは、根本的なコンピューテーショナルなプロセスによって制定されている。
コンピューテーショナル仮説は、我々が知っている物理学は現実の根本的なレベルにはないと述べる。化学的なプロセスが生物学的なプロセスの根底にあり、微視的物理学的なプロセスが化学的なプロセスの根底にあるように、何かが微視的物理学的なプロセスの根底にある。クォークや電子、光子のレベルの下にはさらなるレベルがある。ビットのレベルである。これらのビットは、我々が根本的な粒子や力として考えるプロセスを高いレベルで生産するコンピュータ・アルゴリズムによって管理されている。
コンピューテーショナル仮説は、創造仮説ほどは広く信じられていないが、一部の人々はそれを真剣に受け止めている。最もよく知られているように、エド・フレドキンは、宇宙は根本的にはある種のコンピュータであると主張した。最近では、スティーヴン・ウルフラムが著書「A New Kind of Science(新たなる種の科学)」でこの考えを継承し、根本的なレベルでは、物理的な現実は、単純な法則で支配された相互に作用しているビットを持つセルオートマトンの一種なのかもしれないと示唆した。また、科学者の一部は、物理学の法則はコンピュータによって定式化されているかもしれない、あるいはある種のコンピュータの法則の結果としてみることができるかもしれないという可能性を研究してきている。
純然たるビットは現実の根本的なレベルにはなり得ないと心配する人もいるかもしれない:ビットには0か1しか無く、現実世界は実際には0と1にはなり得ないからである。あるいは、ビットは2つの基本状態間の“純然たる違い”であり、純然たる違いで構成された現実世界はあり得ない。それよりむしろ、ビットは、電圧や普通のコンピュータのように、より単純な状況にて導入されるべきなのである。
私は、この異議が正しいかどうかは分からない。私は、“純然たるビット”から成る世界があり得るということが全くの問題外だとは思わない。しかし、現在の目的に関してはこれはどうでもよいことである。我々は、コンピューテーショナルなレベルそのものが、コンピューテーショナルなプロセスが導入されている更により基本的なレベルで制定されていると仮定できる。現在の目的のためには、何がより基本的なレベルであるかということはどうでもよいことだ。問題としているのは、微視的物理学的プロセスが、それ自体、より基本的なプロセスで制定されているコンピューテーショナルなプロセスで制定されているということだけなのである。今後私は、コンピューテーショナル仮説を、以下に述べるように考える。
私は、コンピューテーショナル仮説が正しいかどうか分からない。しかしまた、それが誤っているかどうかも分からない。この仮設は、理論の域を出ないながらも筋が通っており、私は決定的にそれを除外することはできない。
コンピューテーショナル仮説は懐疑的仮説ではない。それが真実だとしても、電子や陽子は依然として存在する。この状況では、電子や陽子は分子と類似している。それらはより基礎的なもので構成されているが、それでも依然として存在する。同様に、もしコンピューテーショナル仮説が真実だったとしても、依然として椅子もテーブルもあるし、肉眼で見える現実も依然として存在する。ただ、それらの根本的現実は我々が考えたかもしれないものとは、やや異なっているということが分かるに過ぎない。
ここでの状況は、量子力学や相対性物理学の状況と類似している。それらは我々に、外界についての“形而上学的”所信のいくつか、すなわち、世界は典型的な粒子で構成されている、あるいは絶対時間というものがあるという所信を見直させるかもしれない。しかし、我々が通常、信じている事のほとんどは、そのまま変わらないでいるだろう。同様に、コンピューテーショナル仮説を受け入れることは、例えば、電子と陽子は基本となるものであるという形而上学の所信を、我々に見直させるかもしれない。しかし、我々が通常信じている事のほとんどは、影響を受けない。
(3) 心身仮説
心身仮説曰く:私の精神は、自然界の空間─時間の外のプロセスによって制定されており(そして、これまでずっと制定されてきており)、その知覚インプットを自然界の空間─時間から受け、そのアウトプットを自然界の空間─時間に送っている。

心身仮説も、かなりよく知られており、かなり広く信じられている。デカルトはこのような事を信じていた。彼の視点においては、我々は、自分の肉体的身体と相互交流する非肉体的な精神を持っている。この仮説は、現代においてはデカルトの時代においてほど広く信じられていないが、それでも依然として心身仮説を受け入れる多くの人々がいる。
心身仮説が真実どうかはともかく、筋が通っていることは確かである。たとえ現代科学がこの仮説は真実ではないと示唆したとしても、我々はそれを決定的に除外することはできない。
心身仮説は懐疑的仮説ではない。たとえ私の精神が自然界の空間─時間の外にあったとしても、私は依然として肉体を持っているし、依然としてツーソンにいる等々、である。この仮説を受け入れることは、せいぜい我々に自分の精神についての形而上学的所信を見直させるぐらいのものだろう。外の現実について我々が通常、信じている事の大部分は変わらないままであろう。
(4) 形而上学的仮説
我々はここで、これらの仮説をひとまとめにすることができる。まず最初に、3つ全てを組み合わせた結合仮説を考察することができる。この仮説曰く、自然界の空間─時間とそれが含んでいるものは、自然界の空間─時間の外にいる存在によって創造され、微視的物理学的プロセスは、コンピューテーショナルなプロセスによって制定され、そして我々の精神は、自然界の空間─時間の外にあるが、それと相互に作用している。
それらの仮説が個々にそう見なされたように、結合仮説は筋が通っており、我々はそれを除外することはできない。また、それらの仮説が個々にそう見なされたように、結合仮説は懐疑的仮説ではない。それを受け入れることは、我々に自分たちが信じている事のいくつかを見直させるかもしれないが、それらのほとんどは変わらないままであろう。
最後に、我々は形而上学的仮説を考察することができる。結合仮説のように、それは、創造仮説、コンピューテーショナル仮説、そして心身仮説を組み合わせているものである。それは、以下のような、より具体的なことを主張する:自然界の空間─時間の根本にあるコンピューテーショナル・プロセスは、ある世界のコンピュータ・シミュレーションとして、創造主によってデザインされた。
(形而上学的仮説を、自然界の空間─時間を制定するコンピューテーショナル・プロセスはより広範の定義域の一部である、そして、その創造主と私の認知体系もまたこの定義域内に位置しているということによって、考察するのもまた有益かもしれない。この付加は、次に続くものにとって厳密には必要ではないが、マトリックス仮説についての最も一般的な考え方と調和する)。

形而上学的仮説は、結合仮説より少しばかり具体的なバージョンであり、その中で仮説のさまざまな部分間のいくつかの関係を明確に述べているものである。この場合も先と同様に、形而上学的仮説は筋の通った仮説であり、我々は決定的には除外できない。そしてまた、それは懐疑的仮説ではない。たとえ我々がそれを受け入れたとしても、外界に関して我々が通常、信じている事は変わらないままであろう。
IV. 形而上学的仮説としてのマトリックス仮設
マトリックス仮説が述べたことを思い出して欲しい:私は、人工的に設計されたある世界のコンピュータ・シミュレーションからインプットを受け、アウトプットを送っている認知体系を持っている(そして、これまでずっと持ってきた)。
私は、以下のような意味で、マトリックス仮説は形而上学的仮説と同等のものであると主張する:もし、私が形而上学的仮説を受け入れるならば、私はマトリックス仮説を受け入れるべきであるし、もし、私がマトリックス仮説を受け入れるならば、形而上学的仮説を受け入れるべきである。つまり、この2つの仮説は互いに“含意”しているのであり、それは、もし片方を受け入れるなら、もう片方も受け入れるべきだということを意味する。
最初に、形而上学的仮説からマトリックス仮説へという最初の方向を取ろう。心身仮説は、私が自然界の空間─時間のプロセスからインプットを受けアウトプットを送る、隔絶された認知体系を持っている(そして、これまでずっと持ってきた)ことを示唆する。コンピューテーショナル仮説と併せると、これは、私の認知体系は、自然界の空間─時間を制定するコンピューテーショナル・プロセスからインプットを受けアウトプットを送る認知体系を持っているということを意味する。創造仮説は(形而上学的仮説の残りと一緒になって)、これらのプロセスがある世界をシミュレートするよう人工的に設計されたということを意味する。それは、私が、人工的に設計されたある世界のコンピュータ・シミュレーションからインプットを受けアウトプットを送る隔絶された認知体系を持っている(そして、これまでずっと持ってきた)ということに追随する。これは、マトリックス仮説についてのみのことである。従って、形而上学的仮説はマトリックス仮説を示唆する。
もう1つの方向もそれと密接な関係がある。形式ばらないで表現すれば:もし、私がマトリックス仮説を受け入れるならば、私は、目に見える現実の根底にあるものは、まさに形而上学的仮説が明確に述べているものだということを受け入れるのである。同じ領域の中にいる他の存在によって創造された、自然界の空間─時間のコンピュータ・シミュレーションと、原因となって相互作用している、私の認知体系を包含する領域がある。このことは、形而上学的仮説が真実であるために、達成されなければならないことに過ぎない。もし、これを受け入れるならば、創造仮説、コンピューテーショナル仮説、心身仮説、そしてこれらの間の適切な関係を受け入れるべきである。
これは、図で示せばより明らかになるかもしれない。マトリックス仮説に基づいた世界の形は以下のようである。

基本的なレベルでは、この世界の形の図は、上で挙げた形而上学的仮説の図と全く同じである。従って、世界はマトリックス仮説に基づくような状態であることを受け入れるならば、世界は形而上学的仮説に基づくような状態であるということを受け入れるべきなのである。
さまざまな異議が出てくるかもしれない。例えば、マトリックス仮説は自然現象のコンピュータ・シミュレーションが存在する事を暗に示しているが、(形而上学的仮説とは違って)自然現象そのものが存在するとは暗に示していない。私は、このことと他の異議について、この後の項で論じていくことにする。しかし、この時点ではさしあたって、マトリックス仮説は形而上学的仮説を示唆し、またその逆も然りという確固たる事例があるということをとりあえず受け入れておく。
V. マトリックス内の生活
もしこれが正しいのなら、要するに、マトリックス仮説は懐疑的仮説ではないということになる。もし私がそれを受け入れるなら、私は、外界が存在しないとか、私は肉体を持たない、テーブルも椅子も無い、あるいは私はツーソンにはいないと推察すべきではない。それどころか、私は、自然界は微視的物理的レベルの下ではコンピューテンションによって制定されていると推察すべきなのである。テーブルや椅子、肉体は依然としてあるが、それらは基本的にはビットや、これらのビットを制定するものによって形成されているのである。この世界は他の存在によって創造されたが、しかし依然として完璧に本物っぽい。私の精神は、自然現象から切り離されているが、自然現象と相互に影響し合う。私の精神は、それらの存在によって創造されたのではないかもしれないし、ビットで形成されてはいないかもしれないが、それらのビットと依然として相互に影響し合う。
その結果は、現実の根本的な本質の複雑な実態である。その実態は奇妙で驚くべきものであるかもしれないが、正真正銘の外界の実態なのである。もし、我々がマトリックスの中にいるならば、それは単に世界はこのようなものであるということなのだ。
我々は、マトリックス仮説を、情報化時代の創世神話だと考えることもできる。もし、それが正しいのであれば、自然界は、必ずしも神によって創られたのではないということになる。自然界の根底にあるのは巨大なコンピューテーションであり、創造主たちは、このコンピューテーションを使用することによって、この世界を創ったのである。そして、我々の精神は、この物理的構造の外側に位置し、この構造と相互に影響し合う独立した本質を持っている。
標準的な創世神話から生じるのと同じ問題の多くがここでも生じる。世界はいつ創られたのか? 厳密に言えば、それは“我々の”時代に創られたのでは全くない。歴史はいつ始まったのか? 創造主は、完全なる化石記録をもって、紀元前4004年(あるいは1999年)にシミュレーションを始めたのかもしれないが、宇宙起源となった爆発の際にシミュレーションを始めて物事に自然の経過を取らせた方が、彼らにとってはより簡単だったことだろう。我々の非肉体的な精神はいつ存在し始めるのだろうか? それは、新しいタンクに入れられた認知体系がいつシミュレーションに接続されるかということによる。(おそらく、マトリックス内で受精した時、あるいは誕生時か?)死後の人生はあるのか? それは、いったんシミュレートされた肉体が死んだら、タンクに入れられたシステムに何が起こるかということによる。精神と肉体はどのように相互に影響するのか? 自然界の空間と時間の外にある因果関係によってである。
たとえ我々がマトリックスの中にいなくても、我々は、この論法の1つのバージョンをマトリックスの中にいる人間たちに適用することができる。もし、彼らが自分たちの状況を発見し、マトリックスの中にいるということを受け入れるようになっても、彼らは外界について自分たちが通常信じている事を拒絶すべきではない。せいぜい、彼らは自分たちの世界の根底にある本質について自分たちが信じている事を見直すようにすべきであるぐらいだ。彼らは外界の物はビットで形成されているということを受け入れるべきである等々。これらの存在は大幅に欺かれているわけではない。彼らが世界に関して通常、信じている事のほとんどは正しいのである。
ここには、いくつかの必要条件がある。他の人々の精神について信じている事に関して懸念する人がいるかもしれない。私は、自分の友人たちは意識があると思っている。もし、私がマトリックスの中にいるとしたら、これは正しいのだろうか? 映画の中で描かれている“マトリックス”では、このように信じてもほとんど大丈夫である。それは、複数のタンクを持つマトリックスだからだ。私が知覚する友人の1人1人に対し、外界の現実にいる、タンクに入れられた存在があり、それらは私のように意識があると推察される。例外は、エージェント・スミスのように、タンクに入れられてはいないが完全にコンピューテーショナルな存在であろう。これらの存在に意識があるかどうかというのは、意識を持たせるだけに十分なコンピューテーションになっているかどうかによる。私は、この問題について、ここでは中立の立場を保つことにする。我々は、我々が知覚する存在は全てタンクに入れられているという必要条件をマトリックス仮説の中に組み込むことによって、この問題を回避することもできる。しかし、たとえ我々がこの必要条件を不可欠な一要素としなくても、我々は、我々がマトリックスにいるかどうかということとは全く無関係に、他の存在に意識があるかどうかについて論じるに値する争点がある実際の世界にいるより、悪い状況に置かれることはない。
遠い過去や遠い未来に関しての所信について懸念する人もいるかもしれない。これらの所信は、コンピュータ・シミュレーションが、宇宙起源となった爆発から宇宙の終わりまでの、全ての空間─時間をカバーしている限り、脅かされることはない。このことは、形而上学的仮説に組み込まれており、我々は、コンピュータ・シミュレーションが全世界のシミュレーションであることを要求することによって、それがマトリックス仮説に組み込まれることを規定することができる。近接過去に始まった他のシミュレーションもあるかもしれないし(おそらく、映画の中の“マトリックス”はこのようなものかもしれない)、短い期間しか続かなかった他のシミュレーションもあるかもしれない。このような場合、タンクに入れられた存在は、彼らの世界における過去、および/または、将来について偽りの事を信じることになるだろう。しかし、シミュレーションがこれらの存在の一生をカバーしている限り、それらが自分の環境の現状についてだいたい正しい事を信じるようになるのはありそうなことである。
マトリックスの中にいる存在が欺かれている点もいくつかあるかもしれない。マトリックスの創造主は、シミュレートされた世界で何が起こるかということを支配し、干渉するかもしれない(映画の中の“マトリックス”はこのようなケースかもしれない。創造主の支配の程度があまりハッキリしてはいないが)。もし、そうであるならば、これらの存在は、自分で思っているよりずっと、何が起きるかということについてコントロールできていないのかもしれない。しかし、もし非マトリックス世界で干渉する神がいたとしたら同じことである。また、マトリックス仮説は、その可能性は否定しないながらも、創造主が世界に対して干渉するということを暗に示してはいない。最悪の場合でも、マトリックス仮説は、この点において非マトリックス世界の創造仮説よりも、より懐疑的であることはない。
マトリックスの居住者たちも、現実は彼らが考えているよりもずっと大きいということについて、欺かれているかもしれない。彼らは、彼らの物理的宇宙はそこにあるだけだと思っているが、実際は、世界には、ことによったら彼らが決して見ることはできない存在や物体を含む、より多くのものがあるのである。しかしこれもまた、この種の懸念は非マトリックス世界でも同等に生じ得るのである。例えば宇宙学者たちは、我々の宇宙は“1つ上の宇宙”のブラックホールから生じたものかもしれないという仮説や、現実に宇宙が連なる1つの木のようなものがあるかもしれないという仮説を真剣に考慮している。もしそうだとしたら、この世界も我々が考えているよりもっとずっと大きく、ことによったら我々が決して見ることはできない存在や物体があるのかもしれない。しかしいずれにせよ、我々が見る世界は完璧に本物らしいのである。
重要なことには、懐疑論のこれらの原因─他の精神、過去・未来について、我々が世界を支配することについて、そして、この世界の限界について─は、どれも、我々が知覚する世界の現実に対して我々が信じている事に疑念を投げかけないのである。それらのうちのどれもが、タンクの仮説がやりそうなやり方で、我々にテーブルや椅子等の外的物体の存在を疑わせるように仕向けないのである。そして、これらの懸念のどれもが、マトリックスの筋書きに特に結びついてはいないのである。我々の精神が存在するのか、過去と未来は存在するのか、そして、我々は自分たちの世界をコントロールしているのかということについて、我々がマトリックスの中にいるのかどうかということとは無関係に疑念を持つこともできる。もしこれが正しいのだとすると、マトリックス仮説は、よく持ち出される独特の懐疑的問題を引き起こしはしない。
私は先に、我々が本当にマトリックスの中にいるということは問題外のことではないと示唆した。これは憂慮すべき結論だと思う人もいるかもしれない。しかし、もし私が正しければ、皆が考えるほどとうてい憂慮すべき問題ではない。たとえ我々がそのようなマトリックスの中にいたとしても、我々の世界は、我々が思っていたのに劣らず本物らしいのである。それは、ただ驚くべき根本的本質を持っているのである。
VI. 異議:シミュレーションは現実ではない
(この、やや技術的な項は、読み飛ばしても大して損はしない)
異議の代表的な一節は、シミュレーションは現実と同じではないということである。マトリックス仮説は、自然現象のシミュレーションが存在すると暗に示唆している。それに対し、形而上学的仮説は、自然現象は本当に存在すると暗に示唆している(それらは、コンピューテーショナル仮説や他のどこかでも明白に言及されている)。もしそうだとすれば、マトリックス仮説は形而上学的仮説を含意することはできない。この見方では、もし私がマトリックスの中にいたら、自然現象は本当には存在しないのである。
それに応えて、私の主張は、シミュレーションは現実と同じであるという一般的な前提を必要としていない。この主張はそのようには機能しない。しかしその異議は、マトリックス仮説が形而上学的仮説を暗に示しているという形式ばらない主張に肉付けしていく上で助けになる。
コンピューテーショナル仮説は筋が通っているゆえ、コンピューテーショナルなレベルが本物の自然現象の根底にあるということは明らかに“あり得る”ことで、ここでのコンピューテーションは同様にさらなるプロセスによって使用されるということもあり得ることである。従ってここでは、現実を生み出せる“ある”種のコンピューテーションがあることになる。しかしここで異議を唱える人は、全てのコンピューテーショナル・システムが等しく創られているわけではないと考えるだろう。この役割でいくつかのコンピューテーショナル・システムが本物の自然現象を生み出すと言うことは、全てのコンピューテーショナル・システムがそうだと言うことではない。おそらく、それらのいくつかは単なるシミュレーションに過ぎないのだろう。もしそうであるなら、マトリックス仮説は現実を生み出さないかもしれない。
この異議に反論するために、我々は2つの原則に訴えることにする。第1に、自然界の空間─時間をシミュレートするのに使える抽象的なコンピューテーションはどれでも、本物の自然現象の根底にあるものだったことが判明するということも“あり得る”。第2に、自然現象の根底にあることが“あり得る”抽象的なコンピューテーションを考えると、それが実施される正確な方法は、それが自然現象の根底にあるどうかということには無関係である。特に、その実施がシミュレーションとして設計されたという事実は無関係である。そこで、そのまま結論が導かれる。
第1の点について:抽象的なコンピューテーションを、それらの実施方法から切り離して、純粋に形式的な条件で考えてみよう。抽象的なコンピューテーションが物理的現実のシミュレーションの資格を得るためには、粒子の進化に対応するやり方で劇的に進化しながら、現実内の粒子(同様に、物理的な意味での場や波、あるいは根本的なもの)の全てに対応するコンピューテーショナルな要素を持たなければならない。しかしそれでは、コンピューテーションは原則的には、我々の世界の物理的プロセスの根底にあることがあり得るほど十分豊かな、原因となる構造を持つということが保証される。自然界の繊細な細部に対応できるだけの細部を持っている限りは、どのようなコンピューテーションでも用が足りるのである。
第2の点について:物理的現実の根底にあることがあり得る抽象的なコンピューテーションを考えると、コンピューテーションがどのように実施されるかということはどうでもいいことである。我々は、あるコンピューテーショナルのレベルが、原子や電子のレベルの根底にあるのを発見するのを想像できる。いったん、我々がこれを発見したら、このコンピューテーショナルのレベルがより基本的なプロセスによって実施されているという可能性がある。根底にあるプロセスが何であるかということについては多くの仮説があるが、どれ1つとしてとりわけ特別扱いされているというわけではないし、我々に、コンピューテーショナルな段階が自然現象を制定しているという仮説を拒否させるような仮説も無い。つまり、コンピューテーショナル仮説は“実施に依存しない”。我々が適切な種類の抽象的コンピューテーションを持っている限り、実施の方法はどうでもよいのである。
特にそれは、それらの実施プロセスが人工的に創り出されたものかどうかということとは無関係だし、それらがシミュレーションとして意図されていたかどうかということも無関係である。重要なのはプロセスの固有の本質で、その起源ではないのである。この固有な起源について何が重要かというと、単にそれらが適切な種類のコンピューテーションを実施するようなやり方で用意されているということである。もしそうであるならば、その実施がシミュレーションに由来しているという事実は、物理的現実を制定できるかということには無関係なのである。
実施プロセスについては、さらにもう1つ制約がある。それらは、我々の経験に適切な種類のやり方で結びつけられていなければならないのである。つまり、我々がある物の経験を持っている際、その物のシミュレーションの根底にあるプロセスは、我々の経験に適切な種類のやり方で、原因となるように結びつけられていなければならない。もしそうでない場合は、これらのコンピュ―テーショナル・プロセスが、我々が知覚する自然現象の根底にあると考える理由はどこにも無いであろう。もし、このようなやり方で誰にもつながれていない孤立したコンピュータ・シミュレーションがあったとしたら、我々は、それは単なるシミュレーションだと言うべきである。しかし、我々の知覚経験への適切な接続は、最も自然にマトリックス仮説を理解すれば、マトリックス仮説に組み込まれる。ゆえにここでは、マトリックス仮説には何の問題も無い。
全体的に見て、それでは我々は、コンピューテーショナル・プロセスが物理的現実の根底にあり得て、物理的現実のシミュレーションとして資格のある抽象的コンピューテーションならどれでも、この役が務められ、適切なやり方で我々の経験につなげられてさえいれば、このコンピューテーションの実施ならどれでも、物理的現実を制定することができ得るということを見てきた。マトリックス仮説は、我々が適切な種類の抽象的コンピューテーションを持つ事を保証し、それが適切な方法で我々の経験につながれることを保証する。ゆえにマトリックス仮説は、コンピューテーショナル仮説が正しいこと、そして、コンピュータ・シミュレーションは純粋な自然現象を制定することを、暗に示しているのである。
VII.他の異議
我々がタンクに入れられた脳を外側から見る際、それが欺かれているという意見を回避するのは難しい。この意見は数多くの点で関連した異議を表している。これらは、上の主張に対する直接的な異議ではないが、その結論に対する異議である。
異議その1: タンクの中の脳は陽光の中、外を歩いていると考えているかもしれないが、実際は独りで暗い部屋の中にいる。それは、確実に欺かれているのだ!
返答:“脳”は独りで暗い部屋の中にいる。しかしそれは、その“人物”が独りで暗い部屋の中にいるということを意味しない。類推するに、我々は、空間─時間の外に、外質でできた、肉体の無い精神を持っているとしたデカルトは正しいと言おう。私が「私は陽光のもと、外にいる」と思う時、天使は私の外質的精神を見て、実際にはそれは全く太陽にさらされてはいないことに気づくかもしれない。それは、私の考えが正しくないことを意味するのだろうか? おそらく、そうではないだろう。私は陽光のもと、外にいることができるのである。たとえ、私の外質的精神がそうでなくても。天使が、私が正しくない事を信じていると推論するのは間違っているだろう。同様に、我々はタンクに入れられた存在が正しくない事を信じていると推論すべきではないのである。少なくとも、それはデカルト派の精神ほどは欺かれていないのだ。
ここでの教訓は、我々の精神の周辺は、我々が信じている事のほとんどの真実には、おそらく関係無いのだということである。重要なのは、知覚インプットと運動アウトプットによって、我々の精神がつながれているプロセスなのである。我々がこれをひとたび認識すれば、異議は消えて無くなるのである。
異議その2: タンクに入れられた存在は、実際にはニューヨークにいるのに、自分はツーソンにいると信じるかもしれない。この所信は確かに欺かれている。
返答:タンクに入れられた存在の“ツーソン”の概念は、我々がツーソンと呼ぶものを指していない。むしろそれは、全く異なる他の何かを指しているのである。これをツーソン*、または“バーチャル・ツーソン”と呼ぼう。我々はこれを、“バーチャル・ロケーション”(これについては、すぐ、さらに述べる)と考えるかもしれない。その存在が自分自身に「私はツーソンにいる」と言う際、それは本当に自分はツーソン*にいると考えており、実際に、多分それはツーソン*にいるのかもしれない。ツーソンはツーソン*ではないのだから、その存在がツーソンに行ったことは無いという事実は、その所信が本当であるかどうかということにとっては関係の無いことなのである。
大雑把な例え:私は自分の同僚テリーを見て、「あれはテリーだ」と思う。世界の他の場所では、私の複製がテリーの複製を見る。それは、「あれはテリーだ」と考えるが、本物のテリーを見てはいない。その所信は誤りなのだろうか? そうとは思えない。私の複製の“テリー”概念はテリーを指しておらず、彼のテリー*の複製を指しているのだ。私の複製は、本当にテリー*を見ているのであるから、その所信は本物なのである。同じ種類のことが、上の場合にも起こっている。
異議その3: “マトリックス”を去る前、ネオは自分に髪があると信じている。しかし、現実には彼には髪が無い(タンクの中の体には毛が無い)。この所信は確かに欺かれている。
返答:この場合は、その前の場合と同様である。ネオの“髪”の観念は本当の髪を指しておらず、我々が髪*(“バーチャル・ヘア”)と呼ぶ何か他のものを指しているのである。したがって、ネオには本当の髪が無い事実は、彼の所信が本当であるかどうかということには関係無いのである。ネオには本当にバーチャル・ヘアがあるのだから、彼は正しいのである。
異議その4: タンクに入れられた存在は、どんな“種類”の物を指しているのか? バーチャル・ヘアとか、バーチャル・ツーソン等々とは、何なのだ?
返答:これらは全て、コンピューテーショナル・プロセスで制定されている存在である。もし私がタンクに入れられていたら、私が指している物(髪、ツーソン、等々)は全てビットで形成されている。そして、もし、他の存在がタンクに入れられていたら、それが指す物(髪*、ツーソン*、等々)も、同様にビットで形成されている。もし、タンクに入れられた存在が、私のコンピュータのシミュレーションに接続されていたら、それが指す物は、私のコンピュータの中にあるビットのパターンによって制定されている。我々は、これらの物を“バーチャル・オブジェクト”と呼ぶかもしれない。バーチャルな手は手ではない(私はタンクに入れられていないと仮定して)が、それはコンピュータの中に全く同じように存在する。バーチャル・ツーソンはツーソンではないが、コンピュータの中に全く同じように存在するのである。
異議その5: あなたは今しがた、バーチャルな手は手ではないと言った。このことは、もし我々がマトリックスの中にいたら、我々は本物の手は持たないということを意味するのか?
返答:そうではない。もし、我々はマトリックスの中に“いなくて”、誰か他の人がいる場合、我々は、彼らの言葉の“手”はバーチャルな手を指すが、我々の言葉は指さないと言うべきである。したがってこの場合、我々の手はバーチャルな手ではない。しかし、もし我々がマトリックスの中に“いる”場合は、我々の言葉の“手”は、ビットで形成された何か、バーチャルな手、または少なくとも1つ上の世界の人々によってはバーチャルな手とみなされるだろう何か、を指すのである。つまり、もし、我々がマトリックスの中に“いる”場合、本物の手はビットで形成されている。我々の観点がマトリックスの中側にあるか外側にあるかに依って、物は非常に違って見えるし、我々の言葉は違うものを指すのである。
この種の観点の変化は、マトリックスの筋書きについて考える際にはよくあることだ。当人の観点からは、我々は自分たちがマトリックスの中にいると思う。ここでは、“1つ上の世界”はビットで形成されていないかもしれないが、我々の世界の本物はビットで形成されている。第三者の観点からは、我々は、誰か“他の”人がマトリックスの中にいるが自分たちは中にいないと思う。ここでは、我々の世界の本物はビットで形成されていないが、“1つ下の世界”はビットで形成されている。最初のやり方で物事を行なう場合は、我々の言葉はコンピューテーショナルな存在を指す。2番目のやり方で物事を行なう場合は、タンクに入れられた存在の言葉はコンピューテーショナルな存在を指すが、我々の言葉は指さない。
異議その6: 実にどのビットのパターンが既知のバーチャルな物なのか? 的確な組み合わせを選出するのは確実に不可能だろう。
返答:この質問は、実に量子の波動関数のどの部分がこの椅子なのか、アリゾナ大学なのか?と聞くようなものだ。これらの物体は、全て、最終的には根底にある量子の波動関数によって制定されているが、我々が、これが椅子の部分でこれが大学の部分であると言えるマイクロレベルの波動関数の正確な部分は無いかもしれない。椅子や大学は、それより高いレベルに存在する。同様に、もし我々がタンクに入れられているとしたら、これが椅子でこれが大学だという、マイクロレベルのコンピューテーショナル・プロセス中の正確なビットの組み合わせは無いかもしれない。これらはより高いレベルに存在するのである。そして、もし誰か他の人がタンクに入れられているとしたら、彼らが指す物であるというコンピュータ・シミュレーション中の正確なビットの組み合わせは無いかもしれない。しかし、ちょうど波動関数の正確な部分でなくても椅子が存在するように、バーチャルな椅子は、正確なビットの組み合わせでなくても存在するかもしれないのである。
異議その7: タンクに入れられた存在は、自分が行動を実行すると考え、自分には友人がいると考えている。これらの所信は正しいのか?
返答:その存在が行動*を実行し、その存在には友人*がいると言うことを試みる人もいるかもしれない。しかし、さまざまな理由から、私は、“行動”や“友人”といった言葉が“ツーソン”や“髪”といった言葉ほど簡単に意味を変えられるということを、もっともらしく思わないのである。それよりむしろ、私は正直に(我々自身の言葉で)タンクに入れられた存在が行動を実行し、その存在には友人がいると言うことができると思う。確かにその存在は、“それの”環境の中で行動を実行するし、それの環境は、我々の環境ではなく、バーチャルな環境である。そして、それの友人も同様に、バーチャルな環境の中に住んでいる(我々は複数タンクのあるマトリックスを持っている、あるいは、コンピューテーションは意識を持つのに十分であるということを仮定したとして)。しかし、タンクに入れられた存在は、この点において間違ってはいない。
異議その8: 技術的な点は脇に置いておくことにして、もし、我々がマトリックスの中にいたら、世界は、我々が考えているようなものとは全く違うことは確かだ!
返答:私はこれを否定する。たとえ、我々がマトリックスの中にいるとしても、我々が思っているような空間─時間に配置され、依然として人々やフットボールの試合や量子はある。ただ、世界は、我々の最初の構想を超えた“さらなる”宇宙を持っているというだけのことなのである。特に、その世界の物は、我々が当初想像していなかったかもしれないやり方で、コンピューテーショナリーに実現されている。しかしこのことは、我々が通常信じている事と矛盾することはない。せいぜい我々の抽象的な形而上学的所信のいくつかと矛盾するぐらいであろう。しかし、量子力学や相対性理論等々についても、全く同じことが言えるのである。
もし、我々がマトリックスの中にいるとしたら、我々は多くの間違った事を信じていないかもしれないが、我々に欠落している知識もたくさんある。例えば我々は、世界がコンピューテーショナリーに実現されていることを知らない。しかしこれは、まさに予想されたかもしれないことである。たとえ我々がマトリックスの中にいないとしても、現実の根本的本質について我々が知らないことがたくさんあるかもしれない。我々は全知の生き物でなく、我々の世界に関する知識は良くても部分的なものなのである。それは、一世界に住む生き物の状態であるに過ぎない。
VIII. 他の懐疑的仮説
マトリックス仮説は、従来の“懐疑的”仮説の一例であるが、唯一の例ではない。他の懐疑的仮説は、マトリックス仮説ほど単純で分かりやすくはない。それでも、私は、それらの多くに似たような論理的思考の方針があてはまると考える。特に、それらのほとんどは全世界的な懐疑的仮説ではないと主張することができる。つまり、それらの真実は、我々の現実の世界に対する、経験に基づく所信の全ての価値を下げることはないであろう。最悪の場合でも、それらのほとんどは“部分的な”懐疑的仮説で、我々が経験に基づいて信じている事のいくつかの価値を下げても、それら信じている事の多くは変わらないままにしておくだろう。
新マトリックス仮説: 私は、自分の記憶の全てと共に最近創られて、新たに創られたマトリックスの中に入れられた。
もし、マトリックスも私も、短期間しか存在しなかったらどうだろう? この仮説は、バートランド・ランセルの「Recent Creation Hypothesis(先般創世仮説)」のコンピューテーショナル・バージョンである。現実の世界は、ごく最近になって創られたものであり(完全なる化石記録と共に)、私もそうである(完全なる記憶と共に)。この仮説では、私が知覚する外界は本当に存在し、その現在の状態に対して私が信じている事はもっともらしく本当であるが、私は過去に関しては多くの間違った事を信じている。私は、同じことが新マトリックス仮説についても言えるべきだと思う。先に提示されたやり方に従って、新マトリックス仮説は形而上学的仮説と先般創世仮説の組み合わせと同等であるということを主張することもできる。この組み合わせは全世界的な懐疑的仮説ではない(過去に関して信じている事については、部分的な懐疑的仮説であるが)。ゆえに、新マトリックス仮説についても同じことが言える。
先般マトリックス仮説: 私の人生のほとんどにおいて、私はタンクの中に入れられないできたが、最近になって私はマトリックスに接続された。
もし私が最近になって、自覚すること無しにマトリックスに入れられたとしたら、私の現在の環境について私が信じている事の多くは間違っているように思える。つい昨日、誰かが私を、ラスベガスに飛んでカジノでギャンブルするというシミュレーションに入れたとしよう。そうなると、私は今ラスベガスにいて、カジノにいると信じるかもしれないが、その考えは間違っている。私は、実際はツーソンの研究所にいるのである。
この結果は、長期にわたるマトリックスとはかなり違う。その違いは、外界の現実に対する私の観念が、私が自分の人生のほとんどを生きてきた現実に支えられているという事実にある。もし、私が自分の一生を通じてタンクに入れられてきたなら、私の観念はコンピューテーショナリーに制定された現実に支えられているだろう。しかし、もし、私がつい昨日タンクに入れられたばかりだったら、私の観念は外界の現実に支えられているのである。ゆえに、私が自分はラスベガスにいると思う際には、私は自分が外界のラスベガスにいると思うが、その考えは間違っているのである。
それでも、これは外界に関して私が信じている事の全ての価値を下げはしない。私は自分がシドニーで生まれたこと、海には水があること等々を信じ、これらの所信の全ては正しいのである。シミュレートされた環境についての認識から生じ、最近になって獲得した所信だけが、間違っていることになるだろう。ゆえに、これは部分的な懐疑的仮説に過ぎない。その可能性は我々が経験に基づいて信じている事に疑問を投げかけるが、それらの全てに疑問を投げかけることはない。
興味深いことに、先般マトリックス仮説と新マトリックス仮説とは、それらの類似した本質にもかかわらず、反対の結果を生じる。先般マトリックス仮説は、過去については事実に反しない所信を引き出すが、現在については誤った所信を引き出す。それに対して、新マトリックス仮説は、過去については誤った所信を引き出し、現在については事実に反しない所信を引き出す。その違いは、先般マトリックス仮説においては、私は自分が信じている過去の存在を本当に持っているという事実、そしてその過去の現実は、新マトリックス仮説の下では類似点を全く持たない私の考えの内容を支えるのに一役かっているという事実に関係しているのである。
局所的マトリックス仮説: 私は、一世界の特定された一地域の環境のコンピュータ・シミュレーションに接続されている。
これを行なう1つのやり方では、コンピュータは一世界の小さな特定された環境をシミュレートし、シミュレーションの中の本人がその地域を去ろうとすると何らかの障壁に遭遇する。例えば、映画『13F』の中ではカリフォルニアだけがシミュレートされ、本人がネバダに車で行こうとすると、道路には“工事中につき閉鎖”という看板が立っている(遠くに見える、褪せた緑色のコンピュータ製の山と一緒に!)もちろん、これはマトリックスを創る最良の方法ではない。本人たちが彼らの世界の限界を発見する可能性が高いからである。
この仮説は、創造主が現実の世界の一部の地域しか創らなかったという、局所的創世仮説に類似している。この仮説の下では、我々は、近隣の物事については事実に反しない事を信じているが、家から離れた所の物事については誤った事を信じていることになる。普通の種類の論理的思考では、局所的マトリックス仮説は、形而上学的仮説と局所的創世仮説との組み合わせとして見なされる。ゆえに、我々はこれについて同じ事を言うべきである。
拡張可能な局所的マトリックス仮説: 私は、本人の動きによって必要とあらば拡張される、一世界の一地域の環境のコンピュータ・シミュレーションに接続されている。
この仮説は、特定された局所的マトリックスに伴う明らかな困難を避けている。ここでは、創造主は一地域の環境をシミュレートし、必要がある時にはそれを拡張する。例えば、彼らは今、ツーソンにある私の家の部屋をシミュレートするのに専念しているかもしれない。もし、私が他の部屋に入っていったり、あるいは、別の街に飛んだりする場合には、彼らはそれらもシミュレートするだろう。もちろん、彼らは、私がこれらの場所に行く際は、それらが私の記憶や所信と無理なく合い、一方では進化する許容も持つよう、確実に準備する必要がある。私がよく知っている人々、あるいは私が聞いたことがあるだけの人々に遭遇する際にも、同じことが言える。おそらく、シミュレーターたちは、それまで定着している世界についての情報データベースを維持し、時間の進行と共に必要があり次第、情報を更新し、必要がある時には新しい細部を創り上げるのであろう。
この種のシミュレーションは、普通のマトリックス内のシミュレーションとはかなり異なっている。マトリックスでは、全世界が一気にシミュレートされる。起動時には高い費用がかかるが、いったんシミュレーションが完成し始動したら、後は放っておいても何とかなるだろう。それとは対照的に、拡張可能な局所的マトリックスでは、“間に合わせ”のシミュレーションを必要とする。こちらは、起動時の費用はずっと低いが、シミュレーションが進化していくにつれて、より多くの作業や創造性が要求される。
この仮説は、創造主が一地域の物理的環境を創って、必要時に拡張するという、普通の現実に関しての拡張可能な局所的創世仮説に類似している。ここでは、外界の現実は存在し、多くの地域的な所信は事実に反していないが、しかしこれもまた、家から離れた物事に関しての所信は誤っているのである。もし我々が、その仮説と形而上学的仮説を組み合わせたら、その結果は拡張可能な局所的マトリックス仮説となる。ゆえに、もし我々が、拡張可能な局所的マトリックスの中にいたとしたら、外界の現実は依然として存在するが、我々が考えていたほどの物事は無い。もちろん、もし私が正しい方向に移動すれば、より多くの物事が発生するかもしれない!
その状況は『トゥルーマン・ショー』を連想させる。トゥルーマンは、彼の周囲では適切に振る舞うが、彼がいなくなると全く違うようになる俳優と小道具で創り上げられた人工的な環境の中に暮らしている。トゥルーマンは、彼が置かれている現在の環境について、多くの事実に反しない事を信じている。彼の前には本当にテーブルと椅子がある、等々というように。しかし彼は、自分が置かれている現在の環境の外や家から遠く離れた場所の物事については深く間違えている。
『トゥルーマン・ショー』が心をかき乱すような懐疑的な筋書きを提示しているものの、『マトリックス』はさらに酷いと思うのは、よくあることだ。しかし、もし私が正しければ、状況は逆転する。もし、私がマトリックスの中にいる場合、外界について私が信じている事のほとんどは事実に反していない。もし、私が『トゥルーマン・ショー』のような状況にいたら、私が信じている事の非常に多くが間違っていることになる。よく考えてみると、これは正しい結論であるように私には思える。もし、我々がマトリックスの中にいた(そして、これまでもずっといた)という事を発見することになっていたら、これは驚くべきことではあるが、我々はすぐに慣れるだろう。もし、我々がトゥルーマン・ショーの中にいた(そして、これまでもずっといた)という事を発見することになっていたら、我々は気が狂ってしまうだろう。
巨視的マトリックス仮説:私は、微視的物理学的な細部の無い巨視的自然現象のコンピュータ・シミュレーションに接続されている。
シミュレーションを簡略化するために、マトリックスの創り手たちが低水準の物理的プロセスをわざわざシミュレートしなかったかもしれないということは、想像できる。その代わりに、彼らは世界における巨視的な物体とその特性だけを提示するかもしれない。例えば、これこれこういう形で、こういう位置にあって、こういう色をしていて、上に本が乗っていて、ある種の特性を持ったテーブルがある、等々。彼らは、これらの物体が確実に、物理的に無理のないように振る舞うようにするいくらかの努力をする必要があるだろうし、微視的物理学的計測を扱う特別な準備をしなければならないだろうが、少なくとも、このようなやり方で理に適ったシミュレーションが創られ得るということは想像できる。
私は、この仮説は巨視的世界仮説に類似していると思う。微視的物理学的プロセスは無く、代わりに、形や色、位置等々の特性を持った巨視的物理学的物体が、世界の基本的な物体として存在する。これは、我々の世界がそうなり得る論理的な方法であり、現実の低いレベルについて誤った科学的所信に導くかもしれないが、全世界的な懐疑的仮説ではない。巨視的マトリックス仮説は、この仮説と形而上学的仮説の一バージョンとの組み合わせだと見なすことができる。したがって、それも全世界的懐疑的仮説ではない。
新局所的巨視的マトリックス仮説のように、上記のようなさまざまな仮説をさまざまな方法で組み合わせることもできる。通例の理由で、これらの全ては現実の世界についての対応する仮説の類似体と見なされることもできる。ゆえに、それらの全ては、物質的現実の存在と両立でき、それらの1つとして全世界的懐疑的仮説ではない。
神の仮説: 物質的現実は神の心の中に描かれ、我々自身の考えや認識は神の心によって決まる。
このような仮説は、ジョージ・バークレイによって、我々の世界が本当はどのようであるかという観点として提示された。バークレイは、これを、現実の本質についての形而上学的仮説の一種として意味した。他の哲学者たちのほとんどは、バークレイとは意見を異にしてきており、これを一種の懐疑的仮説と見なしている。もし、私が正しいとすれば、バークレイの方が真実に近い。神の仮説は、世界のシミュレーションが神の心の中で実施された、マトリックス仮説の一バージョンとして見なされることができる。もし、これが正しければ、自然現象は本当に存在する。それはただ、最も根本的なレベルで、自然現象が神の心の中のプロセスによって制定されているということなのである。
悪魔仮説: 私は肉体の無い精神を持っていて、つきまとう悪魔が私に外界の外観を与えるために知覚のインプットを入力している。
これは、ルネ・デカルトの古典的な懐疑的仮説である。我々はそれについて何を言うべきだろうか? これは、その悪魔がどのように機能するかによって決まる。もし悪魔が、どのようなインプットを私が受けるべきか決めるために全世界を彼の頭の中にシミュレートするとしたら、それは神の仮説の一バージョンである。ここで我々は、物質的な現実は存在し、悪魔の中のプロセスによって制定されていると言うべきである。もし悪魔が、かなり首尾一貫したインプットを私に与えるに十分なだけの、現実の世界の小さな部分だけをシミュレートしているのであれば、それは局所的マトリックス仮説(それの固定されたバージョンでも、適応性のあるバージョンでも)の類似物である。ここで我々は、外的現実の局所的な部分だけは存在すると言うべきである。もし悪魔が、わざわざ微視的物理学的レベルのシミュレートをせず、ただ巨視的レベルのシミュレートしかしないようだったら、それは巨視的マトリックス仮説の類似物である。ここで我々は、局所的外的巨視的物体は存在するが、それらの微視的物理学的な本質に関する我々の所信は正しくないと言うべきである。
悪魔仮説は、全世界的な懐疑的仮説だとみなされることがよくある。しかし、もし上記の論理的思考が正しいとすれば、これは事実に反している。たとえ悪魔仮説が正しいとしても、我々が明らかに知覚する外的現実のいくつかは本当に存在する。細部によっては、我々はそれについていくらかの誤った事を信じているかもしれないが。それは、ただこの外的現実は、我々が考えていたかもしれないものとはかなり違う、根本的な本質を持っているというだけのことなのである。
夢仮説: 私は今、夢を見ているし、これまでもずっと夢を見てきた。
デカルトは問題を提起した。あなたは、いかにして自分が現在眠っていないことを知るのか? モーフィアスは、よく似た疑問を提起する:
ネオ、君は、自分では確かに現実だと思うような夢を見たことがあるか? もし、君がその夢から醒めることができなかったら? 君は、夢の世界と現実の世界の違いをどうやって知るのかね?
私は“現在”、夢を見ているという仮説は、先般マトリックス仮説の一バージョンと類似している。私はこれを決定的に除外することはできないし、もしこれが正しければ、私が現在の環境に関して信じている事の多くは誤っている。しかし、おそらく私は、過去につながれていて、外界についての多くの本物の所信を依然として持っているだろう。
もし、私がこれまでずっと夢を見てきたとしたらどうだろう? つまり、自分でそれを自覚すること無しに、私の明白な知覚インプットは自分自身の認知体系によって生み出されていたとしたらどうだろう? 私は、この場合は悪魔仮説に類似していると思う。“悪魔”の役が、自分自身の認知体系の一部によって演じられているということに過ぎないのだ! もし、私の夢生成システムが空間─時間の全てをシミュレートするとしたら、それは最初のマトリックス仮説のようなものになる。もし、それが私の地域的な環境のみ、あるいは、巨視的なプロセスのみを倣って作るのであれば、上記の悪魔仮説のより地域的なバージョンになる。これらの場合のどれにおいても、我々は、私が現在知覚している物体は本当に存在すると言うべきである(家から遠く離れている物体はそうではないかもしれないが)。それらのいくつかは、私自身の認知体系によって制定されているというだけなのである。
カオス仮説: 私は、世界のどこからもインプットを受けない。その代わり、私は何かの原因で生じたのではない無作為な経験をする。膨大な量の偶然を通じて、それらはまさに、私がよく知っている普通で構造化された経験になるのである。
カオス仮説は、並外れて仮説にはなりそうもなく、上記で考慮した仮設よりもずっと仮説になりそうにない。しかし、たとえそれが非常に小さい可能性しか無くても、原則的にはそれが依然として目的を達成することはあり得る。もし、私がカオス的にタンクに入れられていたとしたら、自然現象は外界で実現されるのか? 私は、我々は実現されないと言うべきだと思う。外界の物体に関する私の経験は何によっても引き起こされないし、与えられた物体に対する私の観念は共通の起点を全く持っていない。実に、私の経験は、それらにとって外部にあるどの現実によっても引き起こされたものではない。ゆえに、これは正真正銘の懐疑的仮説である。もし受け入れられたら、それは私たちに、外界に対して私たちが信じている事のほとんどを拒絶させることになるだろう。
今のところ、全世界的な懐疑的仮説の明らかな例はカオス仮説だけである。先の仮説とは違って、この仮説を受け入れることは、外界について我々が実質的に信じている事の全ての価値を下げることになる。この違いはどこから来るのだろうか? おそらく間違い無く、決定的なことは、カオス仮説においては、我々の経験についての原因を示す説明が全く無く、我々の経験の秩序についての説明が全く無いということである。先例では全て、我々が予期しなかった説明がいくつかあるにしても、これらの秩序については何らかの説明がある。ある仮説が、我々の経験の秩序に対して何らかの筋の通った説明を含んでいる限り、それは、全世界的な懐疑的仮説にはならないだろうと示唆する人もいるかもしれない。
もし、そうであるならば、我々の経験の秩序に対して何らかの説明があるという前提が許諾されるなら、外界に対して我々が信じている事のいくつかは正しいと言っても大丈夫である。これは、大したことではないが、重要なことである!
デヴィッド・チャルマーズ
ウェブサイトは: www.consc.net
この文章についての参考メモはこちら