| マトリックスを脱出する以前のネオの人生は、彼が思っていたものではなかった。彼の人生は嘘だったのだ。モーフィアスはそれを“夢の世界”と表現したが、夢とは違ってこの世界はネオの心が創り出したものではなかった。真実はより禍々しく
-- 世界は地球を支配するに至った人工知能コンピュータ群が創造したものであり、人類はその過程でコンピュータの管理下に置かれていたのだ。ネオもまたそれらの人造生物たちによって、事実として受け入れるしかない疑似情報を食まされていたのである。だがそれ以上に恐ろしいのは、我々には自分たちが“再誕”以前のネオと同じ立場にないことを確かめる明快な手段がないことだ。我々が自分の論理的思考力に寄せる日頃の信頼や、自分の感覚が伝えるものを信じる生来の性向も、この欺きの可能性の前では純朴に過ぎるとしか思えなくなってしまうのである。 “だが私の心にしっかりと刻み込まれているのは、私を今あるがごときものとして創造した全能の神が存在するという古くからの意見である。はたしてこの神が大地を成さず、空を成さず、延長されるものを成さず、形を成さず、大きさを成さず、場所を成さず、その一方でこれら全てが、現にそうであるがごとく、私には確実に存在すると思えるように成さなかったと知る術があるだろうか? 更にまた、ちょうど私が他人はときに自分が熟知していると思う事柄で間違いを犯すものだと見ているように、私もまた2と3を足す毎に、あるいは四角形の辺を数える毎に、あるいは想像可能ならばそれ以上に簡単な事柄において、常に失敗するように神が成さなかったと知る術があるだろうか? だが至上の善とされる神は、おそらく私がこのように欺かれることをお許しにはならないだろう。(中略)それゆえに私は至上の善であり真理の源たる神ではなく、悪意を持った極めて強力で狡猾な霊が、私を欺くために全力を尽くしているのだと仮定しよう。私は空、大気、大地、色、形、音、そして全ての外物は、霊が私の判断を誤らせるために考案した夢想に過ぎないと考えよう。”(「省察」、p. 15) デカルトの「省察」の語り手は、彼のそれまでの意見がどれ一つとして安全ではないと結論する。そのような霊は彼の知覚を欺くばかりでなく、彼に単純極まりない論理的思考さえも誤らせることが可能なのだ。 この根本的な不安は避けがたいもののように思える。あなたは一体どうやって、自分がデカルトの描く悪夢のような状況下にないことを自分自身に証明できるのか? あなたが提示するいかなる議論も証拠も証明も、悪しき霊の企てた新たな策略かも知れないのだ。最初こそ滑稽に聞こえるかも知れないこの悪霊のアイディアだが、熟考を重ねた上でデカルトの不安に共感しないのは難しい
-- 何を知っているつもりでも、あなたはそのような邪悪な知性の玩具に過ぎぬかも知れないのだ。もっと我々の総括論議の核心に即して言うなら
-- 何を知っているつもりでも、あなたはマトリックスに捕われているかも知れないのだ。 “あなたには、ある独創的な技術科学者(博愛の人か悪人かは嗜好次第)の管理の下、研究室で液体を満たされた桶の中に浮かび、接続されたコンピュータから現在のあなたの体験を食まされている一個の頭脳こそがあなたである、という可能性を否定することはできない。なぜなら、もしあなたがそのような頭脳であり、またその実験が順調に行われているのだとすれば、あなたが自分の体験からその事実を知ることは不可能だからだ。というのも仮説上、あなたのその体験は、桶の中の脳でない場合と同じものなのだ。自分の体験しか訴える材料がなく、その体験がいずれの状況でも同じなのだから、あなたにはどちらが現実であるかを解明するものが何もないのである。”(「現代認識論入門」p. 10) 自分が現実世界にいるのか、コンピュータ・シミュレーションの世界にいるのか分からないとなれば、あなたは自分が世界に関して信じている事柄を真実だと確信することができない。加えてデカルトが更に恐ろしいと考えたのが、この筋書きにおいては論理的思考力が感覚の伝達同様に不確かなものに思えることである。悪霊なり悪の科学者なりが、あなたの論理的思考をあなたの知覚と同じく不完全なものにしているかも知れないのだ。 すでにお察しのことと思うが、この哲学的問題を簡単に脱する方法は -- 少なくとも哲学的方法(!)は -- 存在しない。哲学者たちはこの手の懐疑主義に対して、目が回るほど様々な“解決法”を提唱してきた。だが多くの哲学的問題がそうであるように、この難題に満場一致の答えなどありはしないのである。 自らの悪霊懐疑主義を脱するために、デカルトはまず人が自己の存在を本気で疑うことは不可能だと論じた。彼は、あらゆる思考には思考者の存在が前提であることを指摘する -- それが疑念なら、少なくとも疑いを抱く自己が存在しなければならないのだ(これこそがデカルトの「我思う、故に我在り」である)。続いてデカルトは、我々の精神には生来の自己観念に加えて、全能かつ至上善かつ無限存在としての神の観念が植え付けられていること、そしてその観念は神のみから生まれることを主張した。したがって至上善たる神の存在は明らかであり、その神が、我々が自分の知覚やその現実との関わりに欺かれることを許すはずがない -- とデカルトは確信するのだ。自己存在に関するデカルトの議論は、今なお大きな影響力を持って盛んに論じられるが、外界に関する懐疑のこの有神論的解決を支持する学者は、現在ではほとんど存在しない。 “ただ一つの桶の中の脳を考える代わりに、我々には全ての人類 -- あるいは全ての有感覚生物 -- が桶の中の脳(神経しかない生物を有感覚と見なすなら‘桶の中の神経’)だと想像することもできる。その外側には、当然のように悪しき科学者がいなければならないのか? 本当にそうなのだろうか? ことによると悪しき科学者など存在せず、ことによると(バカげているが)世界を構成するのは、脳と神経が詰まった桶の世話をする自動機械なのかも知れない。ここでは自働機械が我々に連関しない個別の幻覚ではなく、単一の集合的幻覚を与えるようにプログラムされていると仮定しよう。したがって私が自分であなたに話をしていると思うとき、あなたは自分で私の話を聞いていると思うのである……。私はここで(少なくとも、極めて賢明な哲学者たちを含む一部の人々には)愚かで明々白々だと思われるものの、我々を直ちに哲学の真の深みに導いてくれる質問をしたいと思う。この物語が全て真実だったと仮定しよう。もし我々が本当にそのような桶の中の脳であったとすれば、我々には自分たちがそうであることを話したり、考えたりすることができるのだろうか?”(「理性、真理、そして歴史」p. 7) パトナムの答えは、我々が自分たちを桶の中の脳だと整合的に考えることは不可能であるから、このような懐疑論が本当の勢いを得ることは決してない、という思いがけないものである。パトナムの独創的な議論を要約で正しく評価するのは困難だが、その趣意はおおよそ以下の通りである:
参考文献: Dancy, Jonathan. Introduction to Contemporary Epistemology,
Blackwell, 1985. |